今を生きる君へ

小屋野ハンナ

今を生きる君へ

 今を生きる君へ

 今を後悔しないために

 あの日を後悔した大人が振り返る、

 かつて現実だった青春です。




 地球儀の足はもげて、芝生をはがした跡の土がむき出しになった泥庭に突き刺さった。

 辞書やら百科事典やらはその重さで然程遠くまでは飛ばなかったが、廊下やベランダに散乱している。

 次は遂に、ポータブルCD付ダブルカセットデッキ*にその番が回ってきたが、流石にこんなもの、落とされただけでも壊れる。

 いくらなんでも投げていいものではない。


「それ重いからやめとけば。」


 私はようやく、感情むき出しのままに私の私物を投げ捨てる母を止めた。

 正直、地球儀の足も泥だらけになった本も片づけをするのは、私だ。

 面倒なことこの上ない。


 粗方投げ捨ててスッキリしたのか、流石に電気機器を投げるのは感情的過ぎたと思ったのか、その手を止め再び私に向き直り、こういった。


「いい加減にしなさい。」

「いや、いい加減にして欲しいのはコッチなんだけど。」


 これ全部私が片付けるんだから、という愚痴は飲み込んだ。




 母は、私を殴ったことがないと言う。

 ただそれは嘘だと私は知っていた。

 厳密にいうなら、「殴る」と「叩く」は違うのだから、間違っていないのかもしれないけども。

 もしくは、母の妹に平手打ちにされたことを、私が記憶違いしているだけかもしれないけど。

 体罰が全くなかったとは、どう考えてもそう言いきれない自分がいた。


 ただ、転換期はあっという間に訪れる。

 身体にちゃんと肉が付くか心配されていた時期もあったらしいが、中学になったら、サボりながらの部活生活でもそれなりに筋力はついてきていて。

 物を投げようとする母の腕を、私を叩こうとする彼女の腕を、私は、掴んで抑えられるようになっていた。

 だから彼女は、私の物を投げ捨てるようになった。

 母親なりの感情をそうやって訴えるようになった。

 正直、どんな言い争いをしていたかも覚えていないのだけど。


 母の言う事が、全て正しかった訳ではない。勿論、間違っていた訳でもない。

 歳を経て、様々を知った大人の観点から、言いたいことはきっとたくさんあったのだろう。

 ただ、申し訳ないのだけれど、娘の私はそれをほとんど覚えていない。と言うか、聴いていない。聞こえていない。

 それは身体的な問題ではなくて、考え方の問題。

 理解ができないものは、例えそれがどれだけ正しかろうと、世界の心理だろうと、相手に残る訳がないのだ。




 私達は忙しい。

 暇を満喫するのに忙しい。

 テレビを見るのに忙しい。漫画を読むのに忙しい。小説を読むのに忙しい。部活をサボるのに忙しい。

 そんな理由を、私ではなく私達に変えて、言い訳をしていた自分が居たのは嘘ではないけれど。

 ただそんな私に、ただ否定語だけを連ねてしゃべるの言葉が、伝わる訳がないのだ。

 今が良ければそれで良かったのだから。


 母と娘は同じ観点で世界を見てはいない。世界を知っている訳ではない。

 理屈が通っていようがいまいが、彼女の世界の言葉は、私には通じなかったのだ。

 大人たちは、親たちは、自分たちの言葉が「共通言語」だと勘違いしている。

 理屈の通らない親のエゴは時折、その子供の行動を制限する。縛る。閉じ込める。

 やらない方がいい。しない方がいい。それは危ないから。それはムダだから。上手く行くはずないから。


「何で?」

「それでうまく行ってる人がいないからよ。」


 実際突き詰めていけば、そこに理由も根拠もない。

 ただ彼女の経験則であり、知識なだけであって、考え方ではない。

 正しさが何かを知らない子供が、素直に親の言う事を聞くなんて、伝記が残る偉人くらいのもんじゃないの?

 そんなこんなで、今日もまた物が投げられる。

 接着剤で付けたばかりの地球儀は、流石に、今度こそ捨てようと思った。





*ポータブルCD付ダブルカセットデッキ

今やオーパーツ扱い。カセットテープという録音媒体が横並びで2つセット出来る他、ラジオがAM/FM両方とも受信でき、更に、機械の真上にはCDデッキが付いているだけではなく、両サイドにスピーカーを4基搭載していた持ち運べる凶器。

昭和の部活動にはこれが必須でした。

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