机3つ分の距離感

夜長 明

近くて遠い?

 最近、気になっている女の子がいる。

 名前は上野うえのさん。同じクラスだから少しだけ話したこともある。

 気になったきっかけは一目惚れだ。一目惚れで気になったというのは少し変な感じもするけれど、初めて顔を合わせた時にそう思ったのだから仕方ない。

 黒板を見るふりをして、ちらりと上野さんの方に目を向けてみる。真剣に先生の話を聞いているみたいだった。

 授業中に気になる女の子のことを考えるのは問題だろうか。学生の本分は勉強、なんてよくいわれる。でもそんなことはないと思う。勉強しない大人は、勉強しかしない子供と同じくらいに愚かだろう。

「この問題解いてみろ。じゃあ原田はらだ

 びっくりした。この先生はいつも名簿順に上から当てていたから。さっきまで呼ばれていたのは田中とかだったと記憶している。

 はい、という返事が上手く言えず、代わりに「うぇへい」みたいな声が出てしまった。恥ずかしい。

 おそるおそる黒板へ近づき問題を見た。たしか漸化式ぜんかしきというやつだ。さっぱり分からない。

「えっと──わかりません」

「ちゃんと話聞いてたか? 文系志望だからっていう言い訳は許されないからな」

「すいません」

「この問題代わりにやってくれるやついるか? ──お、じゃあ上野」

 いたたまれない気持ちで席へと戻り、入れ替わる形で上野さんが壇上にあがる。上野さんは迷うことなく解答すると、さっさと席に戻って行った。

 きっと上野さんにとってこの授業は退屈なのだろう。とても成績が良いという話をどこかで聞いた。こんな基礎的な問題ではなく、もっと難易度の高い問題を解きたいのかもしれない。そのために授業を先へ先へと進めたいのに、僕みたいなやつがその進行を妨げてしまう。

 上野さんにとって、僕はのろまな亀みたいに見えているのだろうか。いや、ただ足の遅い亀は誰にも迷惑をかけることはない。その点、僕はそれよりもひどい。まるで他人の足を引っ張ることしかできない足枷みたいだ。

 さすがにこれは自虐が過ぎるだろうか? でも常に自身に満ちていて傲慢な人よりずっといいと思う。僕はこんな自分のことがそこまで嫌いではない。

 発想を転換しろ、と心の中で唱える。世の中のたいていのネガティブなことは、考えようによってはポジティブなことになる。

 そうだ。たとえば数学を上野さんに教えてもらうのはどうだろう。この足枷という状況を逆に利用する。まさにリフレーミングではないか。

 この授業が終わったらすぐに上野さんに話しかけよう。少し情けないかもしれないけれど、上野さんと話す機会が作れるなら何も問題はない。

 じゃあなんて話しかけよう? 正直に数学を教えて欲しいと言えば彼女は喜んで教えてくれそうな気がする。それは素敵な想像だった。



 ***



 最近、とある男の子のことが少し気になっている。クラスメイトの原田くん。

 数えるくらいしか話したことはないけれど、彼の人となりはなんとなく分かった。優しくて気遣いのできる人ということだ。

 授業中に彼の視線を感じることがある。さりげなさを装う、伺うような視線だ。でももしかすると、これは私の勘違いかもしれない。気になって視線を向けているのは実は私の方ではないだろうか? たまにそんなふうに感じる。

 教壇では数学教師の坂田さかだ先生が熱心に漸化式を解説している。内容は塾で習ったものと同じだからすんなりと理解できる。

 授業を真面目に受けていると思われるコツは、先生の仕草をよく観察することだ。そうすると先生と目が合って話を聞いているふうに見える。これは中学生の時に内申点を稼ぐために発見した些細な技術だ。

 そうして先生を観察していると、表情が微妙に曇ったのが分かった。その視線の先には、心ここに在らずという感じの原田くんがいる。

「この問題解いてみろ。じゃあ原田」

 はい、と言いたくて、でも言えなかったような気の抜けた返事をして、彼は教壇に上がった。解き方がわからないのだろう、気まずそうにしている。

「えっと──わかりません」

 実際、この問題はそこそこ難しい。少なくとも曖昧な知識で解けるものではない。先生は彼を試しているのだろうか。だとしても意地が悪いと思う。

「ちゃんと話聞いてたか? 文系志望だからっていう言い訳は許されないからな」

「すいません」

「この問題代わりにやってくれるやついるか?」

 席へ戻る彼を横目で見ながら、これはチャンスかもしれないと思った。数学を教えるという口実で彼に話しかけることができるかもしれない。そうだ。彼は文系志望だから私が今度は世界史を教えてもらおう。そうして2人で勉強を教え合うのはとても魅力的ではないか。

 迷わず手を挙げた。

「──お。じゃあ上野」

 この問題の解き方は知っていた。この時ほど塾に通っていたことに感謝したことはないと思う。

 誇らしい気持ちで席に戻る。授業が終わったらすぐに彼に話しかけてみよう。彼はどんな反応をするだろう? 勉強教えてあげようかと言ったらきっと彼は遠慮するだろうから、別の言葉を考えたほうがいいかもしれない。

 授業が終わるまで、そうやっていろいろな言葉と場面を想像して過ごした。それは勉強するだけでは決して得ることのできない幸せな時間だった。

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