5.

 店内に満ちた、まばゆい光。だけど、次第にその光は弱まったのか、わたしはゆっくりと閉じていたまぶたを開いていく。


 すると、わたしはカフェ・プランタンにいたはずなのに、辺り一面、緑一色の景色になっていて。みずみずしい木々ばかりが目に映った。どこかの森の中だろうか。


 突然森の中に移動してしまって、訳が分からずとまどっていると、

「あらら。本当はピアノを出す魔法を使ったんだけど……」

と、ブロンシュさんの情けない声が聞こえて来た。声のした方に視線を向けると、ブロンシュさんと、それからノワールの姿が見えた。良かった、この森に飛ばされたのは、わたしだけじゃなかったんだ。


 ほっとしているわたしをよそに、へにょりと眉尻を下げるブロンシュさん。やっぱりノワールが、そんなブロンシュさんを、

「このマヌケ!」

と、しかりつけた。



「ごめんなさい、ノワールさん。琴音ちゃんも、ごめんね」


「いえ、ちょっとびっくりはしたけど」


「あっ。ねえ、見て、琴音ちゃん。ピアノがあったわ」


「えっ、ピアノ?」



 こんな人気のない森の中に?


 そんな訳ないと思いながらもブロンシュさんが指差した方を見ると、確かにブロンシュさんの言う通り、森の真ん中になぜかピアノが置いてあった。


 ピアノのフタを開け、試しにぽーんと鍵盤を押してみると、ちゃんと音が出た。調律もされているみたい。


 ブロンシュさんは、にこにこと笑みを浮かべさせて。



「琴音ちゃんのピアノ、聞かせてほしいな」



 またお願いしてくる。



「でも……」



 確かに今度はピアノがある。だけど、わたしの演奏なんて。聴いてもつまらない。表現力に欠けているって、いつもピアノの先生に注意されてしまっているもの。


 特に、今、練習しているシューマンのトロイメライという曲。トロイメライはドイツ語で、夢ーー、夢のような、夢見ごこちといった意味だ。


 だけど、わたしには、その曲をうまく表現できない。多分きっと、わたしが夢を見られていないからだと思う。そんなわたしが、この曲を上手に弾ける訳がない。


 いつまでもピアノの前に突っ立っているわたしに、ブロンシュさんは、

「ねえ、琴音ちゃん。琴音ちゃんは、ピアノはきらい?」


「えっ……?」



 ピアノがきらいーー?


 やめたいって思ったことは何度もあるけど、でも、きらいかなんて。そんなこと、一度も考えたことなかった。


 だって、わたしは物心ついた時からピアノを習っていて。ピアノを弾くことは、わたしにとって当たり前で。でも、その当たり前は、一体いつからだっけ?


 そうだ……。お母さんがピアノを弾いている様子を見て、それが当時のわたしにはきらきらとまぶしく。すごく輝いて見えて、うらやましくて。それでわたしもお母さんみたいに輝きたいって、そう思ってピアノを始めたんだ。だからーー……。


 ブロンシュさんは、わたしの肩にそっと手を乗せ。



「大丈夫、大丈夫」


「え……?」


「大丈夫、大丈夫。そんなに気負いしないで、ね」


「でも、わたしより上手な子はたくさんいるもの……」



 ブロンシュさんは、

「そうかもね」

 だけど、

「でも」

と、すぐに空気混じりにはき出して。



「でも、わたしが聴きたいのは、上手な子の演奏じゃないわ。琴音ちゃんの演奏よ」


「わたしの、演奏?」


「ええ。誰でもない、琴音ちゃんの演奏。だって、琴音ちゃんの演奏は、音は、琴音ちゃんにしか出せないでしょう?」



 わたしの、わたしだけの音ーー。


 ブロンシュさんは、わたしの肩をやさしくつかむ。そして導くように、わたしをピアノのイスに座らせた。

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