21回目のプロポーズ

クロロニー

21回目のプロポーズ

 懸念がない、と言ったら嘘になる。

 私は白い錠剤の詰まった瓶の蓋を開けながら、人生の記憶を辿っていく。

 始まりは20年前、私もアイツも4歳だったあの頃。

 あの日、親からもらった誕生日プレゼントはおままごとセットだった。可愛いプラスチックの箱に、プラスチックのちっちゃな包丁と、マジックテープで繋ぎ止められてて真っ二つに割れるニンジンと、あとなんだっけ、出来の悪い食品サンプルみたいな料理が二つか三つ入っているやつだった。私はそれが嬉しくって、幼稚園に持っていくって言って譲らなかったっけ。それで持っていって遊んでいたら、ウチの隣の家に住んでるアイツがやってきて、一緒に遊びたそうにしてたんだ。

「じゃあ、お客さん役ね」

「えー、お父さん役がいい」

 アイツは多分包丁を触りたかったんだろう。お父さんも料理するような仲のいい家庭だったからそんなことを言ったんだと、今にして気づく。

「じゃあ、結婚しないとね」

「わかった。じゃあ、結婚しよ?」

 これがアイツの1回目のプロポーズだった。そして私とアイツは結婚した。おままごとの中で。あの時の私は結婚の意味もよくわからずにいたのに、でも結婚するのが楽しくって、終始嬉しそうにしていたなぁ。

 それから毎年誕生日になると、アイツは「結婚しよう」と冗談っぽく言った。きっと私を喜ばせるための魔法の言葉だと思っていたのだ。小学4年生の頃までの私は純粋な子供だったので、その度に「うん」と言って、ついつい顔を綻ばせてしまうのだった。しかし5年生ともなるともう異性との付き合い方をどうしても意識してしまう歳だ。結婚の意味もわかりだして、どうしても気恥ずかしさを感じてしまう。だから今年は言わないだろうと思っていたのだが、アイツは少し恥ずかしそうにもじもじしながら、でもハッキリと「結婚しよう」って言った。言われている私も恥ずかしくって……でもやっぱり嬉しかった。あの頃の私は、きっとアイツのことがちゃんと好きだったんだ。両想いかもしれないという希望がそこにあったんだ。

 しかし翌年から両親の仲が急激に悪くなって、結婚という言葉に対してポジティブなイメージが完全に消え去ってしまう。元々決して仲のいい夫婦とは言えなかった。顔を合わせることが殆どなく、合わせたとしても会話が殆どない。どちらかが無言でテレビを見て、どちらかが俯きながらビールを飲んでいて、みたいな感じだった。それが些細なことで口論するようになり、お前が悪い、いいやあんたが悪いと失敗の原因を擦り付けあい、旗色が悪くなると過去の話を何度も蒸し返したりして、それが更に相手の逆鱗に触れ、お互いが自分の正しさを認めさせようと怒鳴りはじめ、すぐにどちらかが物に当たり始める。何かが割れる音、床に叩きつけられる音、乱暴に閉められる扉の音……そして耳障りな怒鳴り声。全部自分の部屋まで届いた。時には深夜の布団に入っている時間でさえ聞こえてきた。そういう時私は布団の中に潜って、タオルケットを耳に強く押し当てる。早く嵐が過ぎ去ってくれますように、と願いながら。いつかきっと、お母さんかお父さんが、眠っている間に私も一緒に殺してしまうんじゃないかと思うと、あまりにも恐ろしくて――そして悲しくて、眠りたいのに中々眠りに入れないでいる日々が続いた。

 だから6年生の誕生日の日、アイツが言った「結婚しよう」という言葉につい語気を荒らげてしまったのだ。

「なにもわかっていないくせに『結婚』なんて言わないでよ!」

 あの時の私は、きっとアイツに八つ当たりしたかったんだろう。「ごめんなさい」と言うアイツの弱々しい声が、ひどく虚しく響いたことを覚えている。今でも、あの日のことを思い出しては苦々しく思う。

 私は錠剤を三つ飲み込んで、コップに入れた水を少し口に含んだ。身体がスッと冷えるような感覚。眠れない夜から解放されるとっておきの魔法。

 中学生になった私は夜になると家を飛び出すことを覚えた。どうせ家の中に居ても眠れないだけの無駄な時間を過ごすことになるのだから、それならば気が滅入る家よりも外で適当に過ごした方がマシだという思いからの行動だった。深夜に外に出ると隣の家のアイツもそれに気づくらしく、道を歩いていると後ろからついてきてぽつぽつと喋りかけてくれたりする。暗い夜道の中で、なんだかそれが心強く感じたのは覚えている。公園で二人たむろする姿はまさに不良少年に非行少女といった感じだ。私はともかく、アイツのちまい見た目では全身から溢れる中学生感を隠し切れておらず、警察に見つかれば補導間違いなしだっただろう。見つからなかったのは奇跡と言う他ない。

「結婚しよう、って言ってもいい?」

 誕生日のあの日、アイツが真っ暗な公園でブランコを漕ぎながらそう言った。前の年に言われたことを覚えていたのだろう、遊具の擦れる音で掻き消されそうなほど控え目がちな声の調子だった。私はそれに対して何の返事も返さなかった。その代わり疑問をぶつける。

「結婚って一体なんだろうね。永遠にとかなんだとか、守れもしない嘘の約束なんて交わして、馬鹿みたいにしか見えないよ」

「結婚が何かって、多分人によって違うものなんだと思う」ああ、いや、アイツがこう言ったのは次の年のことだっけ。その年は確か、俯いたままなんの返事も返ってこなかったはずだった。「それこそ、君のお父さんやお母さんにとっても。違うものだからすれ違いが起こる。そういう結婚に対する考え方の違いって、やっぱり結婚してみないとわからない類のものなんじゃないかな」

 中学三年生になって父の浮気が発覚し、母と離婚することが決定した。その中で私は父と一緒に残るか、母について行くかのどちらかを選ぶ必要が生まれた。きっと裁判を起こせば親権は母のものであっただろう。しかし二人はこれ以上お互いに干渉したくない気持ちが強かったようで、私の意思に託されることになった。私は父よりは母の方が比較的仲が良かったし、不倫の発覚を経て生理的嫌悪感さえ抱いていた。母もそれがわかっていたからきっとついてくるものだと慢心していたのだろう。しかし私は父と残ることを選んだ。この土地から離れたくなかったからだ。母は最後に激しく怒り狂って、ヒステリーになって、家にある思い出のお皿を泣きながら全部叩き割って出て行った。

 それから私と父の二人の生活が始まった。と言ってもお互い自分のことを自分で行い、経済的な支援だけをもらう不干渉な生き方をするのみだった。私は父が浮気相手と再婚するものだと思っていたら少し拍子抜けした。もしかすると本当は浮気相手なんて最初からいなくて、母のでっち上げだったのかとさえ勘繰った。

 私は高校生になっても相変わらず外で夜を過ごしたし、アイツは毎年のように「結婚しよう」と言ってきた。実際私は法的に結婚できる年齢になってしまっていたので、本気で言っているのかどうかわからずあしらい方には毎回困ってしまった。「お前何も考えずにそれ言ってるだろ。そもそもいきなり結婚とか何考えてるんだよ、距離感考えろ」と言っても「じゃあ付き合う?」と返すだけで取り付く島もない。まあ、その流れで一度付き合ってみることにしたのだけど。典型的なドア・イン・ザ・フェイス・テクニックなのだが、夜な夜な外出に付き合ってもらっていることに対して少し気後れというか、申し訳なさを感じていたことは否めない。付き合っているということにすれば、お互い好き好んで外に出ているということになり気が楽になるという面は確かにあったのだった。しかしその関係性は意外にも長く続いた。高校を卒業し、お互い偶然同じ地元の大学へと進学し、そして大学を卒業するまで続いた。そして誕生日にアイツが例年の通り「結婚しよう」と言い出したとき、私は別れを切り出したのだ。

「ごめん、私にはやりたいことがあるから。だから、別れよう」

 と。そしてお互い自分の道を進んで社会人になった。ちょうどその頃に父と母の復縁の話が持ち上がって、全てが元の状態に戻っていくような、そんな感覚があった。

 そして迎えた誕生日。定時に仕事を終えて社宅に帰ると、アイツから一本の電話がかかってきた。

「久しぶり。そして誕生日おめでとう」

「ん。ありがとう。おかげさまで順調な日々を送ってるよ」

「結婚しよう、って言っても君はもう……」

「ごめん、その言葉はもう聞き飽きたから」

 私は素っ気なく返事した。私とアイツはもう終わった関係だからだ。そしてお互い近況報告を簡単にして、30分で話すことがなくなり通話を打ち切った。

 それから半年のことは全てが目まぐるしく過ぎていき、よく覚えていない。父と母が無事に復縁し、実家に移り住んだその日に母が父を刺し殺した。実家に報道陣が押し寄せ、葬儀と警察対応を私一人で済ませ、会社は退職し、精神科に通い始めた。母の復縁も全て私を奪った父に復讐するための計画だと聞かされた時、私の世界は音を立てて崩壊した。

 ああ、もうこんな人生に振り回されるのはウンザリだ。薄ぼんやりした視界で空になった瓶のラベルを眺めながら、最後に私はそう思った。


 結論から言うと、私は死ねなかった。目を覚ますと病院のベッド脇でアイツが本を読みながら座っていた。

「お目覚めですか、お嬢様」

「今日は何年の何月何日?」

「君の24の誕生日」

 そして自分が何をしようとしたのかを思い出した。思い出したくない色んな記憶と一緒に。

「まあしばらくはゆっくり休むしかないね」

「もっとゆっくり休むつもりだったんだけど」

「残念だけど、僕が生きてる間くらいは生きてもらうよ」

「なにそれ、プロポーズのつもり?」

 アイツは何も言わずに笑った。疲れているからだろう、悪い気は、そんなにしなかった。

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