第61話 不吉な傷痕

 翌日、グレイスはシュヴァリエから貰った黄燐を使って毒餌を作ってみることにした。


 実際にシュヴァリエから渡されたのは、黄燐を含んだ柔らかいパテで、これを餌となる団子の表面に塗りつけるのだ。

(え~と、牛乳で練った小麦粉に、磨り潰したジャガ芋をまぜて、っと……。それでこのパテを餌に塗るんだね……)

 間違っても口に入れないよう布巾で口元を覆い、手袋をして、皮膚にも付着しないように完全防備の姿で作業する。


 シュヴァリエから渡されるとき、さんざん脅されたのだ。

 扱いを間違えれば死ぬ、と。

 鼠ではない、グレイスが死ぬのだ。


(危険すぎる……。こんなのどうして自分で作ってみようとか考えちゃったかな、私……)

 ベルチェスタの教えてくれた団子に、黄燐を含んだパテを塗りつけて出来上がった毒餌は、見た目は美味しそうな団子に仕上がった。

 グレイスは誤って食べてしまわないように、早速あちこち部屋の隅や廊下の端に仕掛けることにした。


(さて、毒餌は撒き終わったし、余った黄燐のパテはどうしようかな……これ猛毒だし)

 あまり手元に置いておきたくはなかったが、そこら辺に捨てるわけにもいかない。結局、また使う機会もあるかもしれないと思い、シュヴァリエから貰った小さな鋼製の缶に戻して密封した。


(黄燐の単体結晶は放っておくと自然発火するとかシュヴァリエが言っていたっけ……毒団子も本当に大丈夫なのかな? まさか、も、燃えたりしないよね?)

 昨年の寮室爆発事故が頭を過ぎる。

 グレイスは毒団子をしばらく見守っていたが、結局、煙が立ち昇るでもなく何の変化も起こりはしなかった。

 そういえば、空気中でも安定なように特別な方法でパテに加工してある、とシュヴァリエが説明していたのを今更ながら思い出した。

 加工方法は残念ながら教えてくれなかったが、主成分は水を含ませた小麦粉で、パテに含まれる黄燐は一割程度という話だった。なるほど、その程度の含有量ならあるいは発火もしないのかもしれない。と、グレイスは納得することにした。

「いつまでも見ていても仕方ない。捕獲器の準備をしよう」



 かご型の捕獲器も掃除用具置き場から引っ張り出してきて、館のあちこちに鼠退治用の罠として仕掛けた。

 こちらは餌を引っ張るとかごの蓋が閉じる単純な仕組みになっている。捕まえれば一目でわかる罠だ。


「これでよし……っと。後はとにかく待つだけだね。あー! 疲れたー! 今日はもう早く寝ちゃおう」


 罠を仕掛けるだけ仕掛けたグレイスは、期待と不安を胸に抱えながら寝台で横になった。

(なんだかどきどきするなぁ……。ちゃんと効き目あるのかな?)

 自分の仕掛けた罠に獲物が捕まってくれるかどうか、まるで狩人にでもなった気分で浮かれてしまう。

 グレイスは明くる朝の成果を夢見ながら、夜中の物音も聞き流して深い眠りにつくのだった。




 きー


   きー、きー……


 静まり返った館で小さな鳴き声を上げながら、夜の住人達が活動を始めた。


    きーきー、きーきー……


 その晩はいつにも増して食糧が溢れかえっていた。

 彼らは嬉々として床に落ちた団子に噛り付き、風通しのいい小さな箱に潜り込んでは一心不乱に餌を貪り続けた。


     きーきー、きーきー、きーきー……


 だが、彼らは次第に異変を感じ始める。

 勢いよく餌を貪っていた仲間が突然、痙攣を始めてひっくり返ったり、餌を食べ終わって巣に帰ろうとしたら、いつのまにやら箱から出られなくなっていたり。


      きーきー、きーきー!


        きーきー、きーきー!!


      きー……! きー…………


     ………………


 そして館は、久しく静かな夜を迎えた。




 夜が明けて、柔らかな朝日が窓から差し込んでくる。

 徐々に明るくなる朝の日差しが、グレイスの意識を緩やかに覚醒へと導いた。

「はぁう……むー…………」

 普段よりもよく眠れた気がする。何故だろうか、このところ寝苦しい夜が続いていたのに昨晩は熟睡できたのだ。

 グレイスは寝台から起き上がり、顔を洗おうと半ば寝惚けたまま部屋を出た。


  ぶにゅぅ


 と、足の裏から気持ちの悪い感触が伝わり、背筋を悪寒が走りぬけた。


 反射的に足の下敷きになったものを確認してしまったグレイスは、更なる怖気おぞけに襲われ、館を震わせるほどの絶叫を上げた。

 廊下に出てすぐのところに、グレイスの足先と同じくらいの大きさをした鼠の死骸が転がっていたのである。

 昨日における自分の行動が瞬時によみがえり、その結果がこれなのだと理解した。


(――足を、足を洗わなくちゃ――)

 ただそれだけを考えてグレイスは浴場へ走った。


 途中、点々と横たわる鼠の死骸を見つけてしまい、全身に鳥肌を立てながらグレイスは廊下を走り抜けた。

 そして勢いよく浴場へ走りこんだ拍子に、入り口脇に置いてあった鼠捕獲器を足で蹴り飛ばしてしまう。

 捕まっていた鼠がかごの中で暴れ、きー! と鳴いた。

 その朝、二度目の絶叫が館に響き渡った。



 ――朝起きて鼠踏む、ああ我が人生の黄昏よ。


 そんな辞世の句とも聞こえる台詞を脳裏に浮かべながら、グレイスはひたすら水浴びをしていた。


 どれほど足の裏を洗っても、アレを踏みつけた感触は拭えない。

 しかも、これから死体掃除と捕獲した鼠の駆除までしなければならないことに思い至り、グレイスはもう一度頭から水を被った。

(私は今から……心を殺すよ……)

 鼠の死体なんて何でもない、鼠の駆除なんて何でもない。

 自身に暗示をかけて、これから行う作業の心構えをしておく。そうしなければとても現実と向き合えない。

「……うぅ、できることなら逃げ出したい……」

 本音はつい口から漏れてしまった。



 グルノーブルの街外れ、大きな館の庭から一筋の煙が昇っていた。

 立ち昇る煙の火元は、庭の掃除で刈り取られた枯れ草の山。燃え上がる草の山を前にして佇むのは、布巾で口を覆った金髪の少女、グレイスであった。

「…………」

 ごうごうと燃える火中に鼠の死骸が投じられると、死骸に含まれる水分で火の勢いが弱まった。

 しかし、十分に水気が飛んで脂が燃え始めると炎は勢いを取り戻して燃え盛る。次々と死骸が投じられ、最後にグレイスは大きな麻袋を手にした。


 麻袋は底の方でモゾモゾと何かが動いている。

 グレイスは極力そちらを見ないようにして、麻袋を持った震える手を炎の上に突き出した。

 麻袋の底で何かが激しく暴れまわり、きーきーと生々しい悲鳴を上げている。

「ひいぃっ!!」

 手に伝わってきた振動に、思わず麻袋を炎の中へ落としてしまう。


 麻袋の中身はなおも激しく動き回っていたが、袋の口は固く結ばれていて、中身が外へ飛び出してくることはない。

「あわわわわ……」

 燃えながら踊り狂う麻袋を直視できず、グレイスは目を見開いたまま空を仰いだ。

 炎はいっそう勢いを増し、脂の焦げる臭いと白い煙がグレイスの目に沁みた。




「今日も、疲れたなぁ……精神的に……」

 早朝から鼠の駆除に奔走し、午後からはアカデメイアの講義へ出席した。

 取り敢えずベルチェスタとシュヴァリエに今朝の成果を報告し、お礼を言った。

 二人とも死骸の処理のことまでは考えていなかったのか、気の毒そうな顔をしてグレイスを見返していた。ただ、彼らは決して「掃除を手伝う」とは言ってくれなかった。

 そしてアンリエルも怪奇現象の正体が知れて興味を失ったのか、この話には関わってこなかった。

 だが、もういいのだ。朝方に処理は全て終わったのだから。手伝ってもらうことなど何もない。廊下の床掃除なら、グレイス一人でも事足りるはずだ。



「もうやだ……」

 アカデメイアから帰宅すると玄関口に鼠が数匹、また死骸となって転がっていた。

 朝になって寝惚けて踏みつけるのも御免なので、館を再び見回り死骸の処理をする。生きて捕まった鼠はいなかったので、死体の処理作業は粛々と行われた。


(――ああ、これでやっと心安らかに眠れる。明日はきっと清々しい朝になるんだろうな……)

 心身ともに疲弊したグレイスは寝台へと倒れこみ、泥沼に沈むが如く深い眠りに着いた。



 ――静かな夜。

 だが、今晩の静けさは単なる静寂とは違った。

 言うなれば重苦しい静寂。

 何かが息を潜めて隠れている、気配だけが濃密に感じられる空気。


「うぅん……」

 理由の知れない寝苦しさを感じてグレイスは寝返りを打った。

 寝台の端に寄って横向きになると、耳元に生暖かい風が吹きかかる。


  ふー  ふー ふー…… ぴちゃり


「…………?」

 耳たぶに冷やりと湿った感触。

 ――ごりっ、と耳元で嫌な音がした。

「ぎゃぁあああーっ!!」

 痺れるような激痛に襲われ、グレイスは目を剥いた。


 悲鳴を上げて飛び起きると、慌てて逃げ出す大きな黒い塊が闇の奥に見えた。見間違いでないのなら、人間の頭ほどの大きさがあったように思える。

「な……なにぃ? え? なんなの……?」

 混乱したグレイスは恐怖のあまり部屋の戸を締め切り、そのまま朝が訪れるまで寝台の上で震え続けていた。


 空が白み、明るくなってからグレイスはのろのろと寝台を降り、鏡台の前に立つ。

 ずきりと痛む耳たぶには、切り傷ができて血が固まっていた。

 青紫色に腫れた傷口は、昨晩確かに何者かに襲われたことを証明していた。




 朝、アカデメイアに着いてすぐ、グレイスはアンリエルに昨晩の出来事を伝えた。すると、教室にいたベルチェスタやシュヴァリエも話を聞きに、グレイスの周りへと集まってきた。


「血が出るほどに傷つけられたのですか。これは無視できない被害ですね」

「うわ、本当だ。グレイス、耳たぶが真っ青になって腫れているじゃないか!」

「あは、いやーちょっと痛いけど、大丈夫、大丈夫……! こんなの唾つけておけば治るよ!」

 精一杯の空元気を見せたグレイスであったが、彼女にしてみれば傷の痛みよりも、得体の知れない何者かに対する恐怖の方が強かった。


「馬鹿言ってないで傷を見せろ、きちんと消毒してやる」

 事態を重く見たらしいシュヴァリエは、苦い表情でグレイスの傷を観察していた。

 間近に迫るシュヴァリエの横顔にグレイスは不覚にも胸を高鳴らせた。

「多少、沁みるかもしれないが我慢しろ」

「ふぇっ?」

 耳元がひやりとした後、続けて焼けた針で刺されたような痛みが走る。

「ひぎ――! ……く、ぎぃ、ああ……う……!」


「唾なんかつけたら汚れが入って傷口が化膿するからな。こういうのは、きちんと消毒用のエタノールを使うんだ」

「ううっ……ひぃん……」

 不意打ちの荒療治で、堪らず目に涙を浮かべる。

「……そもそも何でシュヴァリエはエタノールなんて持ち歩いているのぉ……?」

「色々と使えるからな」


 傷口が膿む原因について明確な根拠は学術的に示されていなかったが、昔からアルコール度数の高い酒を傷口に吹きかけると、膿みを抑えて傷が綺麗に治ることは経験的に知られていた。

 何らかの毒素が入り込んだことで膿が発生するのだろう、と言うのが一般的な定説だった。


 消毒が終わった後も、シュヴァリエはグレイスの耳たぶを触りながら、すぐ間近で傷口を観察していた。

「ま、まだ何かあるの?」

 グレイスの耳の傷を見て難しい顔をするシュヴァリエ。

「この傷痕、かなり大型のげっ歯類の歯形のようだな……」

「げっ歯類とは、鼠のことですか? グレイスは鼠に噛まれたと?」

「いや、どうだろうな……」

 アンリエルの問いにシュヴァリエは歯切れの悪い返事をする。


 しばし考え込んだ後でシュヴァリエは、おもむろにグレイスへ向けて口を開いた。

「ベルトレ、館の調査を……もう一度だ。もう一度だけ調べる必要がある」

「館の調査? まだ鼠が潜んでいるってこと?」

「わからない。だが、大型のげっ歯類、それもおそらく毒に耐性のあるやつが、まだ館の何処かに棲みついている可能性がある」

「うげぇーっ……! そ、それは本当に困るよ~」

「俺が薦めた毒餌も、役に立たなかったようだからな。こうなった以上、解決を見届けるまでは協力する」

 思うところでもあったのか、シュヴァリエは決定事項と言わんばかりに強制捜査を宣言した。


「もちろんですが私も調査には参加しますよ」

「あ! あたしも参加するから! 鼠退治で全て解決するなんて言った手前、このままじゃ終われないよ」

「今度こそ面白いことになってきましたわね! わたくしも参りますわよ!!」

「じゃあ、僕も参加しようかな。気になるしねー」

 どさくさに紛れて参加を宣言するエミリエンヌとシャンポリオン。


「何故、シャトレとシャンポリオンまで来るんだ……?」

「単なる知的好奇心ですわ!!」

「まあまあ、いいじゃない。調査は人手があった方が楽だと思うよ?」

 こうして、グレイスの館の調査が再び行われることになった。今度は泊り込みで、徹底的に館の隅々まで調べるつもりらしい。


(あれ? でもこの六人で泊まりこみって……)

 若い男女が一つ屋根の下で一晩を共にする。


「賑やかなお泊り会になりそうだね!」

「グレイス、趣旨をわかっていますか? ともあれ、夜食の準備だけはしっかりしておかないと……」

「ま、まあっ!? 考えて見たらフランソワと共に一晩を明かすなんて初めての経験ですわ……ああもう、どうしましょう!」

「そうだね、楽しみだね、エミリエンヌ。でも、他の皆も一緒だからね」

「あんた達、早速、目的を忘れていやしないかい?」

 ベルチェスタの冷静な指摘でも、彼らの浮ついた気持ちを静めることはできなかった。




「しかし、あの歯形がげっ歯類のものだとすると……やはり信じられないな……」


 ただ一人、シュヴァリエだけは深刻な表情を崩していなかった。

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