第60話 潜む怪奇
アカデメイアで午前中の講義が終わり、筆記具を片付けていたグレイスのところへアンリエルが近づいてきた。
彼女は朗らかな表情で声をかけてくる。それはもう、奇妙なほどに。
「その後どうです、新しい住居には慣れましたか? 何か不都合があるのなら言ってください。すぐに対処しますよ」
妙に親切なアンリエルを見て、すぐ傍にいたベルチェスタが眉を寄せる。
アンリエルの小さな額に手の平を当てて、自分の額の温度と比べ首を傾げている。
「今日のアンリエルは妙に親切だねぇ……。どうかしたのかい? 顔も少し赤いし、暑さでおかしくなっているとか」
「確かに暑くて血行も良いぐらいですが、ベルチェスタの家計簿ほど真っ赤ではありません」
ベルチェスタはアンリエルの額から、さっと手を引いて身構えた。
「な!? あんたいつの間にあたしの家計簿を覗いたんだい!」
「冗談です。当てずっぽうで言っただけですよ。おや、もしかして本当に赤字なのですか? ああ、聞くまでもないことでした……」
アンリエルの冗談に翻弄され、ベルチェスタは顔を真っ赤にした。
今度はアンリエルがその小さな手をベルチェスタの額に当てて熱を測っている。ベルチェスタはさらに耳まで赤く染めた。
ベルチェスタはアンリエルの態度を不審に感じたようだが、グレイスは素直にアンリエルの心配りが嬉しかった。
普段は素直でない彼女が、こうも真っ直ぐに他人の心配をしてくれるのは確かに珍しかったからだ。
「ありがとう! 館は快適に使わせてもらっているよ! あ……でも、ちょっと、ほんの少しだけ、最近は気になることがあってね……」
本当に些細な、取るに足らないことかもしれないが、グレイスの胸中では小さな不安が芽生えていたのだ。
「おや? 何かあったのですか?」
一瞬だが、アンリエルの目が細まって眼光が鋭く閃いた、ように見えた。
その不安を口に出すのは優良物件に文句をつけるようで心苦しかったが、グレイスは館で起きていることを正直に説明することにした。
「うん、実はね……館のあちこちで時々、変な音がするんだ」
「古い木造の建物だ。昼夜の温度差や湿気で軋んでいるのではないのか?」
いつからそこに居たのか、机に腰掛けたシュヴァリエが独り言のように呟いた。
見ればシャンポリオンとエミリエンヌもシュヴァリエの後ろに立っていた。
「あらあらまあ、古臭い建物を使わねばならないというのは面倒なことですわね」
「でも木造建築なんて、この街じゃ珍しいよねー。僕も一度、見学したいな」
呆れたように笑っているエミリエンヌと、相変わらず気の抜けた笑顔でのん気なことを言っているシャンポリオン。
彼らは何故、まだ教室に残ってこの話に加わっているのだろうか。
グレイスにはどこが興味をそそる話なのか理解できなかった。アンリエルも話の最中に横槍を入れられて不機嫌そうな顔をしている。
「話の腰を折らないでください……。それで、音というのはどのようなものだったのですか?」
「ん~……、夜中の寝静まった頃にね、二階から何かが走り回るような音や、床下から何かを削るような音が聞こえてきたんだ。あとは枕元に誰かの気配を感じたり……あ、でも起きてみると誰もいないんだけど……」
「なるほど、それは妙な話ですね」
館で起こっている怪現象に興味を持ったのか、アンリエルは紙片を取り出してグレイスの証言を書き取り始めた。
「しかし、その程度のことだけではな。気のせいじゃないのか?」
シュヴァリエは常に懐疑的だ。
自分の目で見たものしか信じないのだろう。
「うぅ~ん……あ! まだ、おかしなことがあったよ! パン! パンがね、私は食べた記憶がないのに、朝になったらバゲットが一つなくなっていたんだよ!!」
「それこそ貴女の記憶違いではなくて? 寝ぼけて口にしてしまったとか」
「私、そこまで間抜けじゃないよ!」
どうにもエミリエンヌのグレイスに対する評価は低い。
やはりアレだろうか、昨年度の研究発表会で彼女は星を取れず、グレイスは星を取ったという事実がわだかまりとなっているのだろうか。
論文の出来映えは確かにエミリエンヌの方が完成度は高かった。それだけに納得いかない気持ちがあるのかもしれない。
「……なにかしらグレイス? 貴女、わたくしに何か言いたいことがありそうな顔をしていますわよ?」
「べ、別にー……」
エミリエンヌは勘が鋭い。
失礼なことを考えていたのが伝わってしまったのかとグレイスは内心で焦ってしまった。
「あー、ちょいと。ちょい待ち。あたしには段々と読めてきたよ、今回の事件」
グレイスの思い込みを疑うシュヴァリエやエミリエンヌとは対照的に、ベルチェスタは心当たりがあるのか意味ありげな表情を浮かべた。
やけに確信に満ちたベルチェスタの言葉に、他の五人の視線が彼女に注目する。
「本当に心当たりがありますの? グレイスの話だけでは判断に足る情報がないのではなくて?」
「まあね、あたしも確実なことはまだ言えないけど、館を調べてみればわかると思うよ」
「調査をすれば、怪奇現象の正体がわかるのですか?」
「少なくとも、あたしの予想が当たっているか、外れているかは、はっきりするね」
予想、という言葉に反応してアンリエルが身を乗り出した。
「現時点で、正体に予想がついているのですね……? それは――」
「おっと、調査してみるまでは断言できないかな。ま、正体って言っても、そんな大したものじゃないと思うけどね」
アンリエルの念押しに、ベルチェスタは本当に予想がついているのかどうか曖昧な答を返した。
アンリエルはしばらくベルチェスタをじっと見つめていたが、グレイスに向き直ると一つの提案をした。
「ここまで言うのです。一度ベルチェスタに館を調べてもらってはどうでしょうか、グレイス」
「……うん、そうだね。ベルチェスタがもし時間あるなら、お願いできるかな?」
「仕事のない日なら、あたしは構わないよ」
結局、予想については話してくれなかったが、ベルチェスタは館の調査を快く承諾してくれた。
だが、話についていけないエミリエンヌ達は不満な様子だった。
「なんですの? なんですの? 思わせぶりな発言ばかりして。どうにも気になってしかたありませんわ」
「う~ん、話が見えてこないね~。でも、調査に同行すれば答えがわかるのかな?」
「調査には俺も行こう。少し、気になることもあるからな」
普段であればグレイスには関わらないように避けているシュヴァリエだったが、いつになく積極的な姿勢を見せる。アンリエルの親切も珍しいが、シュヴァリエの態度も普段では考えられないものであった。
グレイスの住むあの館には、それほどまでに人を惹き付ける何かが存在しているのだろうか。
六人は日を改めてグレイスの住む館に集まった。
陰湿な雰囲気を漂わせる大きな館を前にして、初めて館を目にした三人は、三者三様の感想を抱いていた。
「本当に古臭いお屋敷ですのね」
「やー、重ねてきた年月を感じさせるねー」
「で、でかい……。あたしの実家の何倍あるんだよ……」
ぶつくさ言いながらも館へ入ったベルチェスタは、浴場があり、食堂があり、サロンまである館内を見てまた驚いていた。
「これが別荘なんて……。だから貴族は嫌なんだよ……」
身分の違いに打ちひしがれるベルチェスタであった。
それからしばらくベルチェスタはいじけていたが、アンリエルに一言二言小言を言われ、怒りで奮起したのか気を取り直して調査を開始した。今日は彼女が調査を取り仕切ることになっていたのだ。
「床や壁に傷跡があったら、あたしに教えてくれるかい? 小さくてもいいから、なるべく新しい傷を探しておくれ」
ベルチェスタの指示に従い、グレイスとアンリエルは地下を、シュヴァリエとベルチェスタは一階を、エミリエンヌとシャンポリオンは二階を調べることになった。
地下への階段を下りたアンリエルは、地下室の様子を見て「おお……」と感嘆の声を漏らす。
「地下はもうすっかり実験室といった様相ですね」
「えへへ、おかげさまでね。まだ実験用の器材は少ないけど、ちょっとした実験ならできるまでになったかな」
アンリエルが言うように、地下室は実験用の部屋として使っている。
火も扱うことがあるので、なるべく燃えやすい物は置かないようにしていた。
実験がしやすいように整理整頓された地下室は、見渡せば何があるかは一目瞭然であり、グレイスの知らない何かが存在するということはなさそうだった。
「異常はなさそうなんだけど……」
「目に見えるものばかりとは限りませんよ。なにしろ怪奇現象ですから。ベルチェスタ如きにあっさり正体を看破されてしまうようなものでは、面白くありません」
「えっと……アンリエルこの状況を楽しんでいるの? 私としては原因がわからなくて、すっごく不安なんだけど」
「……とりあえず地下室は何もありませんね。上に戻りましょうか」
アンリエルは素知らぬ顔でグレイスの質問を聞き流し、地下室は異常なし、と懐から取り出した紙片に書き込んでいた。
グレイスとアンリエルが一階に上がると、ベルチェスタとシュヴァリエが食堂の入り口付近に二人でしゃがみこんでいた。
「どうしたの二人とも? 何かあった?」
「あ、グレイスちょうどいい所に来たね。ちょっとこれを見てごらんよ」
「? どこどこ?」
「食堂入り口の柱を見ろ。下の方だ」
しゃがみこんでいたシュヴァリエと入れ替わり、グレイスは柱の下へと視線を向けた。目の前に垂れてくる髪を掻き揚げて、ベルチェスタが指差す箇所をじっくりと観察する。
そこには硬く尖った何かで抉り取られたような、小さな傷がつけられていた。
黒ずんだ柱の表層が一皮剥けて、白い傷跡になっている。傷が付いてからさほど時間の経った様子はない、まだ新しい傷跡だ。
「なんだろう、この傷……」
「見つけたのはそれだけじゃないよ」
ベルチェスタは食堂へ入ると部屋の隅まで歩いていった。
そこには散乱したパンくずと、黒い麦粒のような物体が幾つも落ちていた。
グレイスは不思議に思ってそれらを手に取りよく観察してみた。
「パンがこんな所に……。この黒い粒は何だろ?」
「鼠の糞だよ」「え?」
手の平に黒い粒を乗せたまま、グレイスは固まった。
今、自分が手に乗せているものの正体をベルチェスタは――。
「ベルトレ、それは鼠の糞だ、糞」
「ひゃああぁっ!! うんちぃっ!?」
シュヴァリエが敢えて強調して二度言ったことで、グレイスもそれが何か正しく理解した。思わず払いのけようとして辺りに散らばしてしまう。
「うおっ! 馬鹿野郎! 飛ばす奴があるか、汚いだろ!」
「あっはっはっ……グレイス、とりあえず手を洗ってきな」
「うわ~ん、うんち触っちゃったよ~」
「グレイス、それ以上、私に近づかないでください……」
皆が瞬時にグレイスから離れる。
アンリエルは顔を青ざめさせながら、グレイスを遠ざけようと両手を前に突き出して、近づけないように牽制までしている。
グレイスは糞を触ってしまったことよりも、アンリエルに強く拒絶されたことに傷ついた。半泣きになりながら、浴場まで行って手を洗ってくる。
グレイスが戻ってくると、二階の捜索を終えたらしいエミリエンヌとシャンポリオンも一階の食堂前に来ていた。
「さんざん勿体ぶって、正体は鼠ですの? あー、もう馬鹿らしい。付き合いきれませんわ」
エミリエンヌは鼠がこの館に棲みついている痕跡を目にすると、大仰に頭を振って文句を口にしていた。
そして、ひどく落胆した様子の人間がもう一人。
「はぁ……しかし鼠ですか……。怪奇現象の正体というのは、暴いてみれば全てこのようにたわいないことなのでしょうか……」
色々と期待していたらしいアンリエルは、あからさまにがっかりしていた。懐から出した紙片へ雑な手つきで『正体、糞鼠』と書き殴っている。
「だから言ったろう、大したもんじゃないって。館の中で聞こえてきた変な物音や消えたパンは、状況証拠を見るに十中八九、鼠の仕業だろうね。昼間は姿を隠しているから目に付かないけど、たぶん夜中にどこか巣から出てきて活動しているのさ」
「はー……、鼠かー。実家では見たこともなかったから、思い至らなかったなー……」
「それだけ掃除が行き届いていたんだろうね。グレイスの実家にはやっぱり、掃除婦とか働いているのかい?」
「うん。家事全般をやってくれる家政婦さんが居たよ。とっても綺麗好きなの」
そう、ここ最近の怪奇現象の正体は蓋を開ければどうということはない。
鼠の仕業と考えれば全て辻褄があってしまう。現場には状況証拠も残されているのだ、ほぼ確定だろう。
「さて、そうすると……問題は巣がどこにあるかだね。あるいは外から入れる穴でも開いているのか……。どちらにせよ元から絶たないと、いつまでも館の中で糞を撒き散らすよ」
「うわぁ、それは嫌だなぁ」
正体はわかったが、鼠を駆除できなければ問題の解決にはならない。
「とりあえず館に棲みついている鼠だけでも駆除してみたらどうだ。どうせ夜中には食料を求めて巣から出て来るんだ。罠や毒餌で全滅させればいい」
さらりと怖い発言をするシュヴァリエにグレイスは恐れを抱いたが、鼠の扱いなど世間一般でもそのようなものだ。伝染病を運ぶとも言われているし、見つけ次第、害獣として駆除するのが普通である。
「でも、罠とか毒餌ってどんなのを用意すればいいのかな?」
「鼠の捕獲器でしたら、この館にも幾つか置いてあったと思いますよ。現在は放置されていて、役目を果たしてはいませんが」
「毒餌は、小麦粉を練った団子にでも、毒を混ぜればそれでいいんじゃないか?」
「それだけじゃ弱いね。すりおろした芋と、砂糖があればそれも少し混ぜて。小麦粉は牛乳で練るといいよ」
「ふえー……勉強になるな~。あ、肝心の毒はどうしよう……」
ベルチェスタの教えてくれた材料はすぐに手に入る。だが、毒物となるとそう簡単には手に入らない。
少し悩んだグレイスだったが、ふと庭を見て閃いた。
「マンドラゴールのエキスでもいいかな?」
「どうだろうな、試す価値はあるだろうが……また、わざわざ山へ採りに行くのか?」
「違うよ、今は庭で育てているからね。山から採ってきた株があるから、それを使おうかと思って」
「マンドラゴールを栽培しているのか!?」
庭にマンドラゴールがあると聞いて外へ飛び出していくシュヴァリエ。
妙なところに食いつくものである。
後を追って外に出たグレイスは、庭に這いつくばってマンドラゴールを観察するシュヴァリエの姿を見つけた。
「うおおっ!? 本当にある! 株を殖やすのに成功したのか?」
「あー、いやいや、まだ山から採ってきたのを植え替えて、育てている段階だよ」
何故こんなにもシュヴァリエは興奮しているのか、グレイスにはわからなかったが、それはこの場にいる他の誰にもわからなかった。
アンリエル達にしても館からいきなり外へ飛び出したシュヴァリエを、奇異の視線で遠くから眺めているだけだった。
「そうか……しかし育てるのには成功しているんだな。なら、これを毒餌に使ってしまうのは勿体無い。毒は俺が持っているやつを譲ってやる。だから栽培実験は続けるようにしろ」
何故か命令口調で指示するシュヴァリエ。だがグレイスは、そんなことよりも聞き捨てならない一言に耳を疑った。
「えぇっ!? 毒を譲ってくれるって、嬉しいような怖いような……本当?」
「そう珍しいものでもない。燐鉱石から精製した
シュヴァリエがマンドラゴールを欲しがる理由、と考えてグレイスは悪い想像をしてしまった。
マンドラゴールのエキスは麻酔、毒薬、催淫剤と悪用すればかなり危険な物質だ。
よからぬことに使おうと企んでいるのではないか、と使い道を疑ってしまっても誰に責められるだろうか。危険な物なのだから譲るにしても取り扱いの責任というものがある。
「えーっと、ちなみにどんなことに使うつもりなの?」
「実験だ。主に小動物の麻酔だな」
「うーん……まあ、自分の実験にだけ使うのならいいかなぁ」
悪事に使おうと考えていたなら、ここまで堂々と毒物の交換を持ちかけてきたりはしないだろう。それに性格は少し怖い面もあるが、基本的にシュヴァリエは誠実な研究者だ。
グレイスは信じて取引を行うことにした。
「でも、マンドラゴールの栽培はまだ途中だから、うまく殖やせるかはわからないよ? それなのに、ただで黄燐とか貰っちゃってもいいの?」
「構わない。返す必要のない、先行投資と思ってくれればいい。マンドラゴールを殖やすのに成功したら、その時はまた別料金で株を買い取ろう」
「買い取る? お金出して買い取ってくれるの!?」
「貴重な植物だからな。鼠の餌に消費するよりも、それ相応の所で高く買い取ってもらう方が利口だぞ」
「そ、そっか……よし、私がんばって育ててみる……」
思わぬ収入源の可能性にグレイスは心を躍らせた。
そうしてすっかり、鼠退治の準備のことは失念してしまっていた。
庭でシュヴァリエと話し込んだ後、館へ戻ってみるとベルチェスタとエミリエンヌは既に帰り、アンリエルとシャンポリオンが暇そうに紅茶を啜っていた。
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