第十六幕
第59話 苦学生のパン
真夏の
出歩く人の多くは汗を拭い、日の光を避けるようにして木陰から木陰へと渡り歩いていく。
中央通りを歩く貴族の令嬢達は、肌の焼けを防ぐため日傘を差しているのが一般的な姿である。
だが、地方貴族の娘グレイスは、肌の焼ける心配もしなければ夏の暑さも気にしてはいなかった。
日傘は差さず、帽子も被らず、肩ほどまで伸びた金髪を夏の日差しに透かし輝かせていた。
「やー、いい天気だねー、アンリエル」
「ええ、全く。雲一つない青空が、これほど憎らしいものだとは今日初めて知りました」
グレイスとは対照的に帽子と日傘をしっかりと用意して、明るい薄桃色のドレスに身を包んだアンリエルが心底憎らしげな表情で空を仰いでいる。
「この暑さはアンリエルにはちょっと酷だったね」
「はい。私もまさかアカデメイアの敷地さえ出ない内に、日に当てられて倒れるとは思いませんでした」
午前の講義が終わり、一時的に時間が空いたので街へ昼食を取りに行こうと二人はアカデメイアを出ようとした。
しかし、数分ほど炎天下を歩いたところでアンリエルが急に頭痛を訴え、その場に倒れ込んでしまったのだ。
グレイスは慌ててアンリエルを担ぎ上げ、彼女の寮室に戻って休息を取った。
衣服の締め付けを緩めて寝台に寝かせ、濡れ布巾を首の後ろと脇の下に当て、水差しを口に咥えさせてゆっくりと水分補給を行った。
アンリエルはその後すぐに体調を回復して、「お腹が減ったので昼食を取りましょう」と言い出した。
食欲が戻ってくるぐらいなら、もう大丈夫だろうとグレイスも安心する。
そこでグレイスはアカデメイアの食堂で済ませようと提案したのだが、アンリエルはおかしな意地を張り街へ行くと言って譲らなかった。
「なんでそこまでして街に行くの?」
「一度行くと決めたからです。ここで妥協するのは負けたようで納得いきません」
「負けるって何に……?」
普段はそこまで勝負ごとや競争には興味を示さないのだが、グレイスにはよくわからないところでアンリエルは頑固だった。
「とりあえず、そんな真っ黒なドレスじゃ日の光を吸収して暑いでしょ? 着替えてからにしようよ。あと、帽子と日傘もね」
「黒い服の方が日焼けをしないと本で読んだのですが?」
「アンリエルは少しくらい日に焼けた方がいいと思うよ」
グレイスは部屋の衣装棚から薄桃色のドレスを引っ張り出して、アンリエルが着替えるのを手伝ってやった。
彼女の肌は病的なほどに青白く、腕や足も簡単に折れてしまいそうなほど細い。
夏が近づいて、アンリエルは幾分か痩せたように見えた。
本人は平気な顔をしてはいるが、元々体が弱いのだ。周りが気を使ってやらないと今日のように無理をして倒れてしまうかもしれない。
「さ、準備完了! あは、アンリエルかわいいね? こういう明るい色のドレスも似合うよ」
「このドレスの方が、涼しいような感じもします。これで行きましょう」
アンリエルもグレイスが選んだ衣装は気に入った様子であった。
「でも、わざわざ街まで出てきて行くところはボッブさんのパン屋なんだね」
「無性にここのパンが食べたくなったのです。グレイスの懐事情も考えての選択ですから、名案でしょう」
「うぐ……確かに、洒落た喫茶店で昼食を食べていられるような経済状況でもないんだよね……」
グレイスは冗談抜きで困窮していた。それというのも、実験に必要な器材を揃えるのにどうしても出費が嵩んでしまうからだ。
普通市民からすれば贅沢な話ではあったが、グレイスは曲がりなりにも貴族の娘だ。その他にも身嗜みを整えるのに必要な出費は多い。穴の開いた衣服を着て外を歩くようなことはできないのだ。
「そうだなあ……今日は安くて美味しいパン・オ・アッシがあるといいなあ……」
「あの肉詰めパンですね。数があれば私も一つ購入するとしましょう」
「ベルチェスタがいたら、おまけしてくれるかな?」
「グレイス……平民に施しを受けるようになってはお終いですよ……」
パン屋に着くまでの道すがら、アンリエルに貴族の矜持を説かれてしまった。
普段はそこまで貴族の慣例にうるさくないのだが、譲れない最低限の線引きがあるようだ。
ベルチェスタが働いているボッブのパン屋へ昼食を買いにきたグレイスとアンリエルは、店の外まで漂う香ばしい匂いに、今しがたパンが焼きあがったであろうことを嗅ぎつけた。
「ちょうどいい時間帯に来られたみたいだね」
「焼きたてのパンが選び放題です」
パン屋へと入ると、店内ではベルチェスタが忙しく焼きたてのパンを棚に並べている最中だった。
「ああ! いらっしゃーい! 悪いけど今、忙しいから話は出来ないけどさ。買うパンを選び終えたらカウンターまで持ってきておくれ。あたしが清算するよ」
入店してすぐ二人に気がついたベルチェスタは、息つく間もないくらいに言うべきことだけ言って仕事を続けていた。
「ベルチェスタ忙しそうだね……う~ん、これはちょっとおまけしてとか言える雰囲気じゃないかな」
「グレイス……貴女はまだそんなことを……」
アンリエルに咎めるような視線を向けられて、グレイスは首を竦ませた。
「冗談だよぉ~」
「さて、どうでしょう。最近のグレイスはどこまで冗談で話をしているのか、わからない時があります」
木製のプレートに次々とパンを乗せながら、アンリエルはまだ疑いのまなざしをグレイスに向けていた。
「うぅ、信用ないなぁ」
グレイスも木製のプレートを手に取って、昼食用のパンを選び始めた。
お目当てのパン・オ・アッシは早めに焼きあがっていたのか、残りはもう二つになっていた。
人気商品だけあって、店内での売れ行きは一番のようだった。
「あった、あった~♪ アンリエル! パン・オ・アッシあった――」
「やあやあ! 今日もこの僕、エヴァリスト・ガロワが来てやったぞ、パン親父!」
グレイスの声を遮り、勢いよく店の戸を開けて飛び込んでくる客がいた。
必要もないのに名乗りを上げて入店してきた珍客――もとい常連客ガロワは、短髪を整髪油で撫でつけ、薄手の布地で縫われたシャツに気取ったパンタロンといった格好をしていた。
どこか安っぽく見えてしまうのは、彼の肉付きが貧相な所為だろうか。相変わらず頬肉が薄く、人を寄せ付けない尖った印象の少年である。
「……と、なんだパン親父は奥に引っ込んでいるのか。いるのはー……ふん、乾パン女か」
「誰が乾パン女だい! こぉの、減らず口!」
忙しなく働きながらも、ベルチェスタは耳聡くガロワの悪口に言い返す。
だが、ガロワはそもそもベルチェスタを相手にするつもりはなかったらしく、無視して木製プレートを手に取ると、さっさとパン・オ・アッシを二つ手元に確保してしまった。
「あ、あー! それ、買おうと思っていたのにー! しかも、二つとも持って行っちゃうなんてー!」
グレイスは思わず抗議の声を上げた。
パンをカウンターに持っていこうとしていたガロワが、煩わしそうに顔を歪めてグレイスへ視線を向ける。
「おい、うるさいな。何が文句あるんだ? 別に他人のプレートから横取りしたわけでもなし、非難されるいわれはないからな」
「う。確かにそうだけど……でも、二つも……。あー、うん、そのさ、よければ一つ譲ってくれないかなー?」
「は? 誰が譲るもんか、ばーか」
「ば、馬鹿!? なんで馬鹿呼ばわり!? そ、そっちだって常識ないくせに!」
グレイスとしては一つくらい譲ってくれてもいいかな、と思って言ってみただけだ。
それをいきなり馬鹿呼ばわりされて、さしもの温厚なグレイスも頭にきた。
だがやはりガロワにとってはグレイスのことなど眼中にないのか、カウンターまでパンを持っていってベルチェスタに清算を促している。
不愉快さを顔に表したベルチェスタが黙々と清算を済ませる間、ガロワはふと傍らで頬を膨らませているグレイスを見て、首を傾げた。
「はて? 君、なんだっけか。どっかで会っているよな。誰だ? アカデメイアの学生か?」
「あなたと同じ、アカデメイアの入学同期! グレイス・ド・ベル――」
「ああ、君か!? あのシュヴァリエを病院送りにしたっていう愉快な奴は! 道理で、学院寮では見ない顔だ。寮は追い出されたんだろ?」
グレイスが名前を言い終わる途中でガロワは彼女の素性に思い至ったようだった。しかも一番グレイスが触れて欲しくない過去について、ずけずけと口に出してくれる。
「シュヴァリエがぼやいていたよ。毎度毎度ベルトレには酷い目に遭わされるってさ。それにしても……ふーん……。君がベルトレか……。シュヴァリエも何でこんな、ぽやっとした奴に振り回されているんだろうな?」
「ぽ、ぽやっと……!?」
「僕はいつだって忙しいんだ。のんびりぽやぽやの相手をしている暇はないんだ」
「まただ……また言われた。ぽやっ、て……」
以前にも似たような状況で同じ事を言われた記憶がある。ひどく馬鹿にされた感じが伝わってくる言い回しだった。
「グレイス、冷静になってください。このように品性の低い輩を相手にしても、無駄に疲れるだけです」
アンリエルはグレイスを落ち着ける為というよりは、ガロワに向かって聞こえるように皮肉混じりの言葉を発した。
皮肉を言われた当のガロワは、すれ違いざまにアンリエルへ見下した視線を送り、
「はあ? そういう君こそ何なんだ? ここは高貴な御貴族様が来るような店じゃないぞ。貴族は貴族らしく、街の気取った喫茶店で値段が糞高い腹の足しにもならない菓子でも、行儀よく頬張っていればいいんだよ。こんな腹を満たすのが目的の庶民臭い店にふらふらと立ち寄って恥ずかしくないのかねー? ああ、卑しい、卑しい」
自分達平民を卑下しつつも、この場にいるアンリエルを貶める捨て台詞を吐いて、足早にパン屋を後にした。
「…………。あの男……いつか不幸な事故に巻き込んでやります……」
「その台詞は怖いよ、アンリエル……」
「はいはい、あんたも冷静にねー」
ベルチェスタに軽く諭されて、悔し紛れにアンリエルは買ったばかりのパンに噛み付き、食い千切った。
アカデメイアでの午後の講義も終わり、自宅に戻ったグレイスは買い物袋の中身を取り出して整理していた。
ボッブのパン屋で昼食を買ったときに、ここ数日分の食料も一緒に買い込んでおいたのだ。
細長いバゲットのパンを三本、中くらいの大きさをしたバタールを二つ、ライ麦を使った大きなパン・ド・カンパーニュを一つ購入した。
その日の夕食ではバゲットを一本と、パン・ド・カンパーニュを四分の一だけ切り取り、香味野菜と鶏がらの
(……たまには菓子パンも食べたいなあ……)
ちょっと寂しい夕食を摂った後、グレイスは寝室に使っている夫人の間に入り、その日は早々と就寝することにした。
熱帯夜で寝苦しい夜だった。
深夜になっても眠りの浅かったグレイスは、奇妙な物音を聞いて目を覚ました。
寝台で横になったまま闇の中で耳を澄ましていると、二階から何かが走り回るような音や、床下から何かを削るような音が、ごく小さくではあるが聞こえてくる。
グレイスはふと枕元に近付く気配を感じて身を起こした。
「誰!?」
耳元で何者かの息遣いが聞こえたように感じたのだ。
慌てて枕元にある燭台に火を灯したが、部屋の中にはグレイス以外に誰もいない。
部屋の戸は半開きになっていたが、これは締め切ってしまうと暑いのでグレイスが寝る前に開けておいただけだ。
「気のせいかな……」
寝苦しくて意識過敏になっているのかもしれない。
グレイスは寝台に戻ると、掛け布は使わずに裸で寝転がった。今晩のような熱帯夜であれば、気温が多少低下しても風邪を引くことはないだろう。
あまりに無防備な格好ではあったが、戸締りはしっかりとされているし、この広い館には自分一人しかいないのだから気兼ねする必要はない。
先頃、泥棒に入られたのも窓の鍵を掛け忘れていたからだ。
この館の窓は頑丈で、外からはどうやっても開けられない位置に止め具も付いている。戸締りが完璧な今現在、外から誰かが侵入してくることはまずないのだ。
――そのはずなのだが、館の中で何者かの気配を感じてしまうのはどういうことなのか。
首筋から胸元にかけてじっとりとした汗を掻きながら、グレイスは寝苦しい夜を過ごしていた。
翌朝、寝苦しい夜を越えたグレイスは、汗でべたついた身体を濡れ布巾で拭いてからアカデメイアへ出かける支度を始めた。
昼食に食べようと、バゲット一本とバタールを一つ、紙袋に包んで持ち出そうとして、ふと違和感を覚える。
バゲットは確か三本買ってきたはずだが、昼食用の一本を紙袋に包んでしまうと、残る一本のバゲットが見当たらなかったのだ。
自分は昨晩、ひょっとしてバゲットを二本も食べていただろうか?
机の上に散乱したパンくずを眺めながら、寝ぼけたグレイスはしばらく首を傾げていた。
どうも寝不足で記憶がはっきりとしない。
「ま、いいか……バゲット一本くらい……」
釈然としない想いを抱えながらも、グレイスは足早に館を出てアカデメイアへと向かった。
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