第58話 消えた本の行方は

 アカデメイア中央図書館で借りていた『解剖学図表ターヘル・アナトミア』を紛失してから一週間が過ぎようとしていた。


 グレイスは弁償の代金をどう工面しようかと、図書館の隅で頭を抱えていた。

「弱ったなー……生活費もぎりぎりなのに、余計な出費が出たら次の仕送りまでやっていけないよぉ……」

 しかも紛失した本は一日の延滞扱いだったので、罰則として一週間は本を借りることができない。自業自得とは言っても、まさに踏んだり蹴ったりだった。


 本を借りられないグレイスは講義が終わってから一人、図書館の閉館時刻まで参考書の重要な部分を書き写す作業に追われていた。

 弁償の支払いで頭が一杯でも、乱れる思考を強引に集中させて、やるべきことはやらねばならない。

 唸りながら参考書の内容を写すグレイスの様子に、他の学生達は薄気味悪い印象を抱いて遠巻きにしていた。

 図書館の隅にある机は、十人程度は座ることのできる大きさにも関わらず、グレイス一人が占領している状況だった。


 そんなグレイスにゆっくりと近づき、小声で話しかける者がいた。

「グレイス……グレイス……。ちょっといいですか?」

「うーん、うーん……うん? ああ、アンリエル、どうしたの?」

 人目を憚るように、小柄な体をよりいっそう縮めたアンリエルが、囁くようにグレイスに話しかけてきた。


「街まで私に付き合ってください。見ておかねばならないものがあるのです」

「あー、ごめん。今、手が離せなくて。閉館までにこの本を書き写さないと……」

「事はグレイス、貴女に関わることなのです。今すぐ、早くしないと手遅れになるかもしれません」

「え? え? なにそれ?」

 困惑するグレイスに対して、アンリエルはただ静かに首を振るばかりで詳しいことを話そうとはしない。

「ここではとてもできない話です。とにかく、すぐに街へ出るのです」

「うええー……?」

 アンリエルに半ば引きずられる形でグレイスは図書館を後にした。



 図書館を出ると入口付近にはシュヴァリエが一人で突っ立っていた。

「お待たせしました。では行きましょうか」

「ああ……。ベルトレも一緒か」

「あれ? シュヴァリエも街へ一緒に行くの?」

「ラヴィヤンに誘われたんだ。解剖学図表に関して、確認してほしいことがあると言われてな」

「解剖学図表を?」


 グレイスが紛失してしまった本について、今更何を確認することがあるのだろう。それもこそこそと隠れるようにして、シュヴァリエが一緒でなければならない理由もよくわからない。

「いったいどういうことなんだ? 話が見えてこないんだが」

「さあー……私にもよくわからないかなー……」

 アカデメイアを出るまでアンリエルは黙して語らず、結局「行けばわかる」の一言だけでグレイスとシュヴァリエは付いて行かざるをえなかった。



 三人は街の中央通りを抜けて、見知った文房具店の隣で看板を掲げている古ぼけた書店の前に到着した。どうやらここが目的地であったらしい。

「何を見たとしても、店内で騒がないようにお願いします」

 アンリエルが普段の彼女からすると珍しい忠告を発して、書店へと足を踏み入れる。グレイスとシュヴァリエも二人して首を傾げながら、アンリエルの後に続いた。


 古ぼけた外観と同様に、店内もやや薄暗く古臭い空気が漂っている。棚満杯に詰め込まれた本を見れば、ここが主に中古の書籍を扱う古書店だとわかる。

「シュヴァリエ、あの本を取ってもらえませんか」

 アンリエルは足早に店内を進み、棚の最上段、一箇所を指さして言った。

 そこには背表紙に真っ白な紙が貼られた正体不明の書籍があった。

 彼女やグレイスの背丈では届かない位置にある本をシュヴァリエはなんなく手に取ると、ごく自然な動作として頁を開き、中身に軽く目を通した瞬間に驚きの表情を浮かべた。

「これは……この本はまさか……」


 シュヴァリエは真っ白な本の背表紙を改めて凝視して、その後にもう一度中身を確認する。

 その様子を見て、アンリエルは灰色の双眸を鋭く光らせ、本を片手に考え込み始めたシュヴァリエの顔を覗き込んだ。

「どうですか、シュヴァリエ? 私は間違いないと思うのですが」

「あ、ああ……。信じたくはないが、疑いようもない……」

 古書店に売られている本をもう一度よく観察すると、シュヴァリエは震える手で本の背表紙を撫で、表面に貼られた無地の薄紙を丁寧に剥がしていく。

 薄紙の下から現れたのは、いつも見慣れたアカデメイアの蔵書印だった。


 その事実を確認した途端、シュヴァリエは深く溜め息を吐くと、冷め切った視線をグレイスに向けた。

「……お前なあ、これはさすがに庇いきれないぞ」

「…………。……へ?」


 いったい何のことを言っているのか、シュヴァリエに庇ってもらわねばならないこととは何か、グレイスは全く心当たりがなかった。

 グレイスが彼の突き出してきた本を受け取り、背表紙を見ると、そこには本の題名として『解剖学図表』と書かれていた。


 見覚えのある書籍、紛失したはずの書籍。

 二つの事実を結びつけるのにグレイスが時間を要していると、すぐ隣にいたアンリエルが悲しげな声でぼそりと呟いた。

「グレイス……そこまで困窮していたのですか? アカデメイアの図書を売らねば生活もできないほどに……」

(――あれ? これってどういうこと――)


 咎めるような、憐れむような目でグレイスを見る二人。

 手元にある解剖学図表に付いた五〇フランの値札を見て、ようやくグレイスはその視線の意味に気がついた。

「ち……違う違う! 違うから! 私、売ってないから! いくらお金に困っていてもそんなことしないからぁ!」

 必死に弁解するも二人の表情はいっそう疑わしいものに変化していく。


「そ、そうだ! お店の人ならわかるはずだよ!」

 グレイスは古書店の主人に解剖学図表を見せて、身の潔白を証明してくれる説明を求めた。

「おじさん! この本! これ、どなたが売りに来ましたか!?」

 半ば怒りの表情で詰め寄るグレイスに、柔和な笑顔を浮かべた古書店の主人は穏やかな口調で対応した。

「さあー、どうだったかなぁ。本を売りに来たお客さんのことは、全て覚えているわけでもないからねぇ。ただ、その本を売りに来たのは若い男の人だったと思うよ」

「男! じゃ、じゃあ、私でないことだけは確かですよね!?」

「ははは、おかしなことを言うお嬢さんだ。そもそもお嬢さん、この店に来たのは初めてじゃないのかい?」

「はい! 初めてです! ……ほ、ほ~ら、どう!? お店の人も私じゃないって言っているよ!」


 店主の反応を見て、アンリエルとシュヴァリエがひそひそと小声で言葉を交わす。

「どう思いますか?」

「店主と口裏を合わせておけば言い逃れはできるな」

「……あるいは売り子を別に雇ったのでしょうか?」

「その可能性も捨てきれない……」

「どうしてそこまで私を疑うのー――!!」

 グレイスは必死で自分が本を売ったわけではないと主張した。


 シュヴァリエとアンリエルにもグレイスの必死さが伝わったのか、改めて冷静にこの事態を分析してくれた。

「仮にここで売っても、アカデメイアから紛失の弁償代を請求されます。やはりグレイスがこの本を売り払う意味はないのでは?」

「いや、そうとも限らない。一時の金欲しさということもありうる」

 だが、冷静に分析をしてみても疑いが完全に晴れることはなかった。


(ああ……もうー、どうしてこんなことに……。そもそも、何で私の家からなくなった本が古書店に売られていたんだろう? 売りに来た若い男の人って誰? 最近、家に来たのは怪しいお爺さんと、警官と、シュヴァリエくらい――)

 直近の訪問者を思い浮かべて、グレイスはふと重要な出来事を思い出した。


「あ、あー!! 警官、そう警官だよ! 最近、家に警官が来たことあった!」

「警官? 警官が、盗みを働いたとでも言うのですか?」

「まあ、近頃の官憲は腐っているからな。そう思いたくなるのもわかる」

「それも違うってば! そうじゃなくて、街を巡回していた警官が言っていたの! 空き巣が街外れの住宅へ何軒か盗みに入ったらしいから、被害にあっていたら連絡してくれって!」

 グレイスの告白を聞いて二人は顔を見合わせた。

「グレイス? 自棄を起こして適当なことを言っていませんか? 今なら、内々に揉み消すこともできるのですよ? それを自分から警察になど……」

「覚悟はできたようだな。白か黒か、警察署ではっきりさせようか」

「だから、私の言うことを信じてぇー!!」

 シュヴァリエに肩を掴まれ、グレイスは警察署へと連行された。


 ◇◆◇◆◇ 


 結論から言うと、警察署へ行った時点ですぐにグレイスの容疑は晴れた。

 そもそもグレイスの住む館へ盗みに入ったと証言している犯人の男が留置場にいるのだという。

 ただ、盗人が「自分は呪い殺されるかもしれない。誤って魔女の館へ盗みに入ってしまった」と意味不明な供述をしており、聞き取りに行った先ではグレイスがまるで被害にあった様子もなかったことから、警察としても窃盗容疑で捕まえた男の扱いに困っていたのだそうだ。


「ほーらね。やっぱり、私は悪くなかった! むしろ被害者だよ!」

「盗みに入った犯人が明らかなら、疑う余地はないな」

 警官から詳しい話を聞くと、ニコライという盗人がグレイスの家に忍び込んだ際に、本を一冊盗み出したらしいこともわかった。

「グレイスが犯罪者にならなくて、私も安心しました。後は売られた本ですが……」



 翌日、グレイスは古書店の主人に事情を話して、本を返してもらえるよう頼みに行った。

「……とまあ、そういう事情で、この本は盗まれたものなんです」

「はあ、それは大変だねぇ。でも、こちらも商売だから」

 古書店の主人は、人の良さそうな顔でにっこり笑い、グレイスの頼みをきっぱりと断った。


「え、ええと、でも、これは盗まれてですね?」

「そう言われても、こっちもお金を払って買い取ったわけだから。ただでお嬢さんに渡すわけにはいかないなぁ。それに、本当にその本はお嬢さんのものかい? 証明できるのかな?」

「そ、そんな~……」

「まあ、待てベルトレ。ここはアカデメイアにも事情を説明しておいた方がいい」


 解剖学図表については他人事でもないシュヴァリエ。

 彼は事態が泥沼の様相となる前に、アカデメイアを通して正式に警察へ被害届を出すように提案した。

「店主。ひとまず本は売らずに保管しておくことだ。でないと、盗品売買の共犯者として追及を受けることになるぞ」

「そんな、勝手なことを……」

「本の背表紙にはアカデメイアの蔵書印も残っていた。上から薄紙を貼ったのが盗人だったとしても、こんなもの少し剥がしてみれば盗品だと確認できる。あんたはそれを知っていて、扱ったということにもなりかねないからな? くれぐれも疑われる行動は取らないことだ」

 シュヴァリエの牽制の一言で、古書店の主人はすっかり縮み上がってしまった。



 その日の内にアカデメイアへ事情を話した結果、警察を仲介にして問題の解決が図られることになった。

 もはや本が盗まれて、古書店へ売りに出されたことは確実とみなされていた。

 ただ結局の所、本の代金は誰の支払いになるかということが問題だった。

 捕まった盗人ニコライは、本を売った金は借金の返済に使ってしまったらしく、今すぐに返還できるお金はなかったのだ。

 しかも彼の身柄は既に獄中へと移された。そしてグレイスも、古書店の主人も、本の代金を個人で肩代わりするのは難しかった。


 そもそも悪いのは盗人ニコライとは言っても、本を盗まれたのはグレイスの管理が甘かった為とも言えるし、本を買い取った店主も注意してみれば盗品であることはわかったはずだ。

 グレイスと店主はそれぞれ反省していたが、本の代金を押し付けられては困るという一心で弁解を続けた。


「うちには病気がちの女房と、小さな子供が四人も居て……。丸々、本一冊分の損失が出たら、家族を養っていくことができないんです……」

「私、これ以上の仕送りは実家に頼めないです……。去年も不慮の事故で焼けた寮室の弁済があって、お父様はその為に大切な蔵書を売ってしまい……うう……。今また本の弁償とか要求されたら、私もう実家に帰れません!」

 それは傍から見ていると白々しい演技であったが、グレイスと古書店の主人がお金を払う気がないことだけは明らかと見える態度だった。


 仕方なく、本は盗人が売ったときの金額でアカデメイアが古書店から買い取ることで一件落着した。

 後は、被害を受けたアカデメイアに対する盗人ニコライの返済能力次第であるが、この一件はほぼ確実にアカデメイアの損失となるであろうことが予想された。




 軽蔑と疑惑、そして冤罪の屈辱から脱して、グレイスは堂々と図書館へ顔を出すことができるようになった。

 もし、グレイスがアカデメイアの書籍を売り飛ばしたとされていたなら、図書館の出入りは二度とできなかっただろうし、最悪はアカデメイアを放校処分となり犯罪者として警察に引き渡されていたかもしれない。

(こうして今、何事もなく図書館へ戻って来られたことが奇跡のようだよ……)

 当たり前のように図書館へ通って本を借りていたことが、これほどまでに価値のあることだったのかとグレイスは事実を重く受け止めていた。


「すいませーん。本を借りたいんですけどー」

 延滞一日の罰則である一週間の貸し出し停止期間も過ぎて、グレイスは改めて図書館へ本を借りに行った。受付には長い黒髪に銀縁眼鏡が映える、規則に厳しい女性司書が立っていた。

「グレイス・ド・ベルトレット嬢、申し訳ありませんが貴女は今、貸し出し停止期間中です」

 返答は、すげないものだった。


「えと、あれ? 本は全部、返しているはずなんですけど……?」

「一冊だけ、返却が大幅に遅れたものがありました」

 と、女性司書は紛失騒ぎになった本、解剖学図表の名前を挙げる。

「でも、それは盗まれた本で、改めてアカデメイアが買い直してくれたんじゃあ……」


「正式に問題が解決されたのが昨日。盗難にあった物が見つかったということで紛失届は棄却されて、通常の貸し出し規則が適応されました。最終的に図書館へ本が戻るまでに十日間の延滞がありました」

「でもそれは、事情があって。盗品が一時的に警察の証拠品になっていたり、古書店とアカデメイアの間で価格交渉があったから遅くなったと……」

「延滞は延滞です。一週間以上の延滞は、罰則として一ヶ月間の貸し出し停止となります」

「そんなぁ~!! そこをどうにか~!!」


 司書は銀縁眼鏡を、くいっと押し上げて、真っ直ぐな視線をグレイスに向ける。

「規則は規則ですから」

 何をどう言っても司書の女性は譲らなかった。

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