第十五幕
第57話 図書延滞常習者
日差しが眩しい初夏の
思うように研究の進まないグレイスはアカデメイアの中央図書館で手当たり次第に資料を漁っていた。
血液成分の分離について何か役に立ちそうな情報を探しつつも、もっと手頃な研究題材はないものかと、グレイスは半ば諦めかけた思考で目についた本を手にとっては流し読みしていく。
(……こんな、取り止めもなく流し読みしていても良い題材は思いつかないなぁ……)
あれこれと手を出してみても興味好奇心が散逸してしまって、一つのことを研究して、まとめていく気持ちになれない。
自らの将来像が夢でも思い描けないものだから、自分が今の時点で何をすればいいのか、何がやりたいのかさえ自覚できないのだ。
目先のことばかり気にしていては、目標を持って計画的に進むことができない。それはグレイスとてわかっていた。
「ふぅー……。とりあえず何冊か、もうちょっとだけ読み込んでみようかな」
この場では読みきれない分厚い本を三冊ほど、重ねて抱きかかえながら貸し出しの受付へと足を運ぶ。
受付では長い黒髪に銀縁の丸眼鏡をかけた女性司書が、本の背表紙を補修しながら受付業務を行っていた。
「この三冊、お借りします」
「はい、三冊ですね? 図書カードを見せてもらえますか」
グレイスは胸のポッケから図書カードを取り出すと司書の女性に渡した。すると、司書は神経質そうに眉根を寄せてカードをグレイスに返却してきた。
「既に貸し出し限度の十冊になっています。新しい本を借りるつもりなら、借りている本を返却してからにしてください」
「え? あれ、本当だ。いつの間にそんなに借りていたんだろう」
返されたカードをまじまじと見直すと確かに未返却の本が十冊、貸し出し限度いっぱいに借りている状況を示していた。
(……うーん、困ったな。返却と言われても本は家に置きっぱなしだし、取りに帰るのは一苦労だなぁ)
アカデメイアから街外れの館までを往復するとかなりの距離がある。
「えーっと、そのぉ、次に来たときに限度を超えた分は返却するので、今回だけこの三冊を貸してもらえません?」
「いえ、できません」
表情一つ変えずにきっぱり断られた。
「そこを何とか……! 家まですごく遠くて、アカデメイアまで往復するのきつくて! 必ず返しますから!」
「規則ですから、できません」
「そんなぁ~。無理は承知で、お願いします!」
「無理を承知して、納得してください。無理です」
銀縁の眼鏡が一瞬鋭く光り、レンズの向こう側に冷めた目が透けて見えた。
それでもグレイスがぐずついていると、司書は大きく溜め息を吐き、心底から面倒くさそうにグレイスのカードを取り上げた。
「貴女、借りている本のうち五冊は返却期限が今日ですよ? 今日返す気がないということは、延滞するつもりですか? 新しい本を借りる前に、まず借りている本を返却してください」
「どうしても駄目ですかぁ?」
「……ちなみに返却期限を一日過ぎると延滞の罰則として、本を返してから一週間経つまでは次の貸し出しを許可できませんので」
「すぐに返却します!!」
グレイスは猛然と図書館を飛び出すと、街外れの館へ向けて全速力で駆けた。
道中で男子学生とすれ違い肩をぶつけてしまうが、グレイスは相手の顔も見ずに一言だけ謝って走り去った。
髪を振り乱し、息を荒げたグレイスが、返却期限の迫った五冊の本を図書館受付に持っていくと、司書の女性はグレイスの様子には頓着せずに黙々と手続きを進めた。返却した五冊の本に関して、図書カードに返却済みの印が押される。
「まだ期限を過ぎていませんが、残りの本も必ず期限内に返却してくださいね」
一言、グレイスは釘を刺されながら図書カードを返してもらった。新しく借りた三冊の本も含めて、返却期限は守らなければいけない。
(厳しいんだよなぁ……。まあ、他の人も利用しているんだし、高価な物でもあるから仕方ないんだろうけど……)
今回はグレイスも危うく延滞してしまうところだった。
これが例えば、研究発表会の時期に罰則で貸し出し制限を受けたりすると悲惨である。
図書館が閉館した後にじっくりと自宅で文献を読みたいと思っても持ち帰れず、最悪は他の人に借りられてしまって目当ての本を図書館で読むこともできなくなる。こうなっては研究にも支障をきたしてしまう。
「延滞だけはしないように気をつけないと……!」
「だからと言って、他人を突き飛ばしてまで本の返却に走るのもどうだろうな」
グレイスの独り言に返事をくれたのは、彫りの深い顔立ちをした短髪の男子学生シュヴァリエだった。
「わわ!? もしかして、私が走り回っているところ、見ていた?」
「見ていたも何も、思い切りよく俺にぶつかっただろ」
「あれ? ぶつかったのシュヴァリエなの? ごめん、気がつかなかった」
「ベルトレ……お前はどうしてこうも周りが見えていないんだ……」
シュヴァリエの怒りと諦めの入り混じった表情を見て、グレイスはひどく申し訳ない気分になった。
しかし、生来のそそっかしい性格は言われてすぐに直るものでもない。アカデメイアに居る間にシュヴァリエから同じ小言を何回聞かされることになりそうか、考えると憂鬱になる。
シュヴァリエとグレイスが揃って「はぁ……」と大きく息を吐いた時、小さな頭が二人の間へ割って入るように現れる。
「相変わらずグレイスは元気がよいですね。あまり息を荒げた状態で男子学生と話をしていると誤解されますよ?」
「誰が誤解するか!」「何の話?」
突然、割って入ってきた声にシュヴァリエとグレイスが反応する。シュヴァリエは怒りの声を、グレイスは疑問の声を上げた。
「……? シュヴァリエ、なに怒っているの?」
「なんでもない」
「さて、どんな誤解をしたのでしょうね」
細かく波打った長髪を揺らし、したり顔で小さな含み笑いをこぼしたのは、黒いドレスに背負い鞄を肩にかけた珍妙な姿のアンリエルである。
やたらと目を引く布製の背負い鞄は、小柄なアンリエルには不釣り合いなほど大きいものだった。
「……随分とおっきな鞄だねー、アンリエルの」
「ええ、本を入れる為の背負い鞄なのですが……」
指摘されたアンリエルは渋い表情で鞄を肩から下ろした。
改めて両手で掴み上げると、グレイスの前に晒して見せる。
「私が使うには似合わないとわかっているのですよ。しかし、事典の類を持ち運べるほど大きな鞄となると、必然的にこれぐらいの大きさになってしまうのです」
机の上で鞄を逆さにすると、数冊の分厚い事典の他に小説や専門書がなだれ落ち小山を築いた。
「すごい数だな……」
二十冊はあろうか、目の前に積み上がった本の山にシュヴァリエが圧倒されている。
アンリエルは本を平積みにして整理すると、すぐ近くの返却窓口へ運ぼうとする。平積みされた本がアンリエルの頭より高くそびえていた。
あまりにも数が多いのでグレイスと、ついでにシュヴァリエも手伝うことにした。
三人が窓口に迫ると司書は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、平積みされた本の後ろからアンリエルが顔を出すと「ああ、貴女ね」と、納得していた。
「返却を十冊と、貸出を十冊、お願いします」
「確認します。返却十冊……確かに、貸し出していたものですね。新規貸出の十冊は今からカードに記入しますので……あら、カードの記入欄がいっぱい……。カードも更新するので、少々お待ちください」
銀縁眼鏡の女性司書はアンリエルに優しく笑いかけると、妙に嬉しそうな様子で新しいカードを作り始めた。
(なんだか私の時とまるで態度が違うような……)
釈然としない思いを抱いたグレイスであったが、自分は返却期日を破ろうとしていたのだから当然か、と少し反省した。
貸出手続きの間も待ちきれないのか、アンリエルは新規貸出の本を開いてその場で読み始めている。
「ねえ、アンリエルさ。これだけ本を借りていて、延滞とかしたことないの?」
「延滞? 借りた本はすぐに読み切ってしまいますから、そこまで長く借りることはまずありませんよ」
「こ、この量の本を期日内で読み切っちゃうんだ……」
「それに、気に入った本は写本を購入して、じっくり読みますから」
「ええ!? でも、本は高いよ?」
「値段は気にするほどでもありません。実家にいた頃は、数十冊まとめて購入することもよくありましたから」
「ひぇえー……」
「羨ましい限りだ……」
アンリエルの金銭感覚にグレイスはもはや絶句、シュヴァリエもつい本音が漏れてしまった。
活版印刷技術のおかげで容易に写本が手に入ると言っても、いまだ紙もインクも貴重品の時代にあって、何ら金に糸目をつけずに本を大量購入できてしまうのは並みの財力ではない。ブルジョワや貴族でさえ、本を買うときは慎重になるものだというのに。
「なあ、もしかしてプリニウス博物誌とか、持っていたりしないか?」
「持っていますよ。全巻ではありませんが」
「なら他に……」
いつの間にかシュヴァリエとアンリエルが本の談義に花を咲かせていた。
◇◆◇◆◇
アカデメイアにおける一日の講義が終わった、ある日の夕方。
帰宅しようとしたグレイスを、シュヴァリエが声をかけて引き止める。
「ベルトレ、お前に聞きたいことがあるんだが」
普段から不機嫌そうな顔に加えて、剣呑な雰囲気を漂わせているシュヴァリエ。また何か自分は知らぬうちに、彼の気に障ることをしでかしただろうか? と、グレイスは咄嗟に身構えてしまった。
(……って、どうして私がそこまで卑屈にならないといけないんだろ。うん、おかしいよ。ここはむしろ堂々としていても、いいんじゃないかな)
卑屈になりかけた心を立て直し、グレイスは胸を張ってシュヴァリエに向き直る。
「私に用事? どうぞ何でも聞いてよ! 答えられることなら答えるから!」
意味もなく自身満々なグレイスに対して、シュヴァリエは不気味なものでも見るかのように顔をしかめた。
「大したことじゃない。聞きたいことは一つだけだ。今、お前が借りている……いや、『延滞』している本の中に、俺が借りたい本があるらしい。と、司書が言っていたんだが……」
「……し、しまったー!! また、返却期日忘れていたー――!!」
既に返却期日から一日経過しているようだった。
「ど、どうしよう!? ええと、落ち着けー……そうだ、まだ延滞も一日だけだし。今すぐに返却すれば罰則も軽くて済むかも……?」
「既に一日延滞している時点で、一週間の貸し出し停止処分は決まりだろ」
「そこを何とかっ!」
「俺に言っても解決しない。もっとも、あの司書に言っても見逃してくれそうにないけどな」
「駄目かなー……やっぱり」
「さあな。とにかく、俺としても早く本を借りたいんだ。今は持っていないのか?」
「どの本のことかわからないけど、全部家に置いてきた……。取りに行かなくちゃ……」
アカデメイアと街外れの館を往復しなければならないのかと思うと、グレイスは気が遠くなった。
だが、ここで意外な提案がシュヴァリエから出された。
「目当ての本を借りるついでだ。俺も一緒にお前の家へ行こう」
「え? それってどういうこと?」
「図書カードを渡せ。アカデメイアに戻ったら、俺が代わりに返却の手続きをしておいてやる。俺はそのまま目当ての本を借りるだけだ」
つまりシュヴァリエは、グレイスがアカデメイアと館を往復しないでも済むように出向いてくれると言うのだ。
しかも、シュヴァリエが代理で返却してくれれば、本を延滞したことについて怖い司書に説教されることもない。
「それ、すごい助かるよ~……」
「貸し出し停止処分は免れないと思えよ」
どうせあの司書が相手では譲歩などありえない。
一週間の貸し出し停止処分は覚悟して受けるしかないだろう。ならばできるだけ苦労せず、波風立てない道を選択するべきだ。
「じゃあ、申し訳ないけど頼んじゃおうかな。私が今住んでいるのは街外れの館だからちょっと遠いけど、ついて来てくれる?」
「街外れ? 中央通り近くの宿じゃなかったのか?」
「うん。最近、引っ越したんだ。アンリエルの別荘なんだけど、家賃も無料だから」
「やっぱりお前一人で取りに戻――」
「ついて来てー!! お願い!」
最後は半ば強引にシュヴァリエを連れて行くことになるのだった。
「本当に街外れだな……アカデメイアから遠すぎるぞ」
「ははは……まー、確かに遠いんだけど。家賃無料でこれだけ広い館を使えるのは魅力的だよ」
「この館を丸ごと一つ使っているのか?」
目を丸くして驚くシュヴァリエに、グレイスは慌てて説明を付け加えた。
「使っているのは一部の部屋だけだよ。一人で使いきれるわけもないし……」
「何だ、そうなのか。てっきりこれだけの規模の工房を構えて研究をしているのかと思った」
やや残念そうな表情のシュヴァリエを見て、グレイスは内心で戦々恐々としていた。
(……シュヴァリエってば、考え方が飛び抜けていてこっちが驚かされるよ……。こんな大きな館を丸ごと一つの工房に使うって、どんな発想?)
彼のことだ。あながち現実離れした発想でもないのだろう。そのような価値観の違いは、グレイスにとって乗り越えられない大きな壁を感じさせた。
「敵わないなぁー……」
「おい、早く扉を開けろ。借りるものを借りて、俺は早いところアカデメイアに戻りたいんだ」
シュヴァリエに急かされながらグレイスは館の鍵を開けた。
昼の間、締め切っていた館の中は蒸し暑くなっており、どこからともなく雑巾が腐ったような饐えた臭いが漂ってくる。
「うぐぇっ……!? ベルトレ、この館はきちんと掃除しているのか? 臭うぞ」
「あー、古いからねこの館。これでも大掃除して随分と綺麗になったんだよ」
「俺にはお前の言う『綺麗』の程度がわからないな」
鼻の辺りを手で覆いながら、シュヴァリエは館へと足を踏み入れる。
そんなに臭うだろうかとグレイスは鼻をひくつかせてみたが、言われるほど臭いは気にならない。臭いに鼻が慣れてしまったのだろうか。
「俺は入り口で待っているから、早いところ本を取ってきてくれ」
「うん。返却期限の過ぎちゃった本は五冊、ちょっと探してくるよ」
「探す……?」
本を探す、という表現にシュヴァリエは不安そうな顔をしながら、グレイスが館の奥に入っていくのを見送った。
そして案の定と言うべきか、彼の不安は的中してしまった。
「あっれ~? おかしいなぁー……。一冊、見つからない……」
「おい、まだ見つからないのか?」
「う~ん、必ず目に付く場所に置いてあったと思うんだけど」
「いい加減なことを……」
頭を掻いて苛立った様子を見せるシュヴァリエ。
集められた四冊の延滞図書を見て、ふと重大な事実に気が付いたように彼は本を探し続けるグレイスに声をかけてきた。
「もしかして、今ベルトレが探しているのはクルムスの解剖書じゃないのか?」
「へ!? そ、そうだよ。よくわかったね? あ、じゃあ……」
シュヴァリエがこめかみに手を当てて深くうつむく。
「まさに俺が借りようとしている本だ」
ヨハン・アダム・クルムスの著作、『
シュヴァリエは昨年度の研究で宝石大蜥蜴の腑分けをしたくらいだ。きっと参考になるものが載っているのだろう。
「待っていても仕方ない。俺も探すのを手伝おう」
「うえぇっ!? シュヴァリエも探すの?」
「お前だけに任せていたら日が暮れてしまう」
言うが早いかずかずかと館に入り込み、家捜しを始めてしまう。
シュヴァリエは無駄のない動きで、端から端まで素早く確認をしていった。
「調理場で本を読むことはあるのか?」
「たまにあるよ。火加減を見ている間にとか。でも、そっちは一度探したから……」
「俺がもう一度探そう。視点を変えれば見つかるかもしれない」
調理場を探したが本はなかった。
「こっちは浴場か……さすがに水浴びしながら本は読まないだろうな?」
「そんなことしないよ!」
あらぬ想像をされているようで、グレイスは赤面しながら否定した。
「だが、お前のことだからな。脱衣場まで本を持ってきて、置きっぱなしということも……ん、これは何だ?」
「えーと、それは……わぁー! だめ、それ!」
シュヴァリエが摘み上げた薄い布切れはグレイスの脱ぎ捨てた下着だった。
「これは?」
「それもだめ、返してー! ああ、その辺に放り出さないでよぉ!」
「元から放り出してあったものだろうが。片付けておけ」
本が隠れそうな場所は物をどかして確認する徹底振りである。
脱衣場に本はなさそうだと判断すると、指先で摘み上げていた靴下を放り投げてシュヴァリエは次の場所へ向かった。
(恥ずかしすぎる~!!)
放り投げられた靴下には穴が開いていた。
「しかし汚い家だな……」
「そうかなー、気にしすぎじゃない?」
「そんなことはない。もっと掃除しろ。使っていない部屋も綺麗にしておかないと、埃や汚れが移るぞ」
「そりゃあ、できれば掃除したいよ。でも、この館は広くて。よく使っている場所だけを掃除するので手一杯だよ」
「こうして本が紛失するくらいだからな。手が回っていないのはわかっている」
遠回しに、整理していないから物を失くすのだ、と痛烈な皮肉を言われてしまった。
◇◆◇◆◇
館をあちこち捜索したが、『解剖学図表』は見つからなかった。
捜索の終盤にはグレイスも顔が青ざめ、もはや探してもあるはずのない場所を虚ろな表情で漁り続けている。
最悪、このまま見つからなければ延滞どころの問題ではない。紛失した本はグレイスが弁償しなければならないだろう。
「後は普段、使っていない部屋ぐらいか。どういう動きで本が紛失したのかわからないのだし、一応は確認してみるか」
シュヴァリエは、半ば放心状態で本の捜索を続けるグレイスには触れずに、一人で別の場所の捜索にあたった。
グレイスの寝室『夫人の間』はとっくに調べつくしたので、その向かい側にある部屋を探すことにした。
館でも一番立派な部屋、『主人の間』だ。
「う――」
部屋の扉を開けると、淀んだ空気が流れ出してくるのがわかる。それほどまでに、この部屋に染み付いた臭いは酷かった。
(ひどいアンモニア臭だ……。一瞬、便所かと思ったぞ……)
この部屋は長らく掃除もせずに締め切られていたのだろう。ここに本が入り込むことは考えにくかったが、念の為に室内を軽く見て回る。
高級な家具が置かれてはいるが部屋の大きさに比べれば少なく、調度品の類もあまりないために閑散とした印象を受ける部屋だ。
捜索を続ける途中、ベッドの足で下敷きになった床下収納を見つけた。
(さすがにここはないな)
興味を失ったシュヴァリエは腰を上げ、早々に部屋を出ようとした。
だが、シュヴァリエが部屋の扉に手をかける直前、床下から何か、奇妙な物音が聞こえたような気がした。
……かりかり、と床を裏側から引っ掻くような音だ。
シュヴァリエは素早くベッドの近くにしゃがみこみ、耳を床につけてみる。
だが、物音はもうしなかった。
本は結局、一冊だけ見つからなかった。
シュヴァリエが借りる予定だった『解剖学図表』は行方知れず。
翌日、アカデメイア中央図書館にグレイス・ド・ベルトレットは紛失の届けを出した。
まだ完全に本がなくなったとも言い切れないので、一週間の期間をおいて見つからなければ弁償という形になるらしい。
しかし、不思議な話ではあった。
グレイスの記憶では借りてきた当日に館でその本を読み、外に一度も持ち出していないことは確からしい。
それにも関わらず、あそこまで徹底的に探しても見つからないという事実。
そもそもあの館には本当に『
それとも――姿の見えない何者かが持ち去ったとでも?
考えてもわかるはずはない。
それよりも当面の問題は、借りられなかった本の代わりをどこで手に入れるかだ。
(気は進まないが、一つラヴィヤンに尋ねてみるか)
アンリエル・ド・マウル・ラヴィヤン。フランセーズの法服貴族にして、大国プロシアの貴族でもあるラヴィヤン辺境伯の娘。
国境を跨ぎ、二つの国に属する異質な貴族。人づてに話を聞けば、何かと黒い噂の絶えない貴族である。
あまり深く関わりたくない相手ではあったが、個人の蔵書量ではアカデメイアでも指折りの人物だろう。目的の本もひょっとしたら持っているかもしれない。
(そうとも。目的を達する為には、人付き合いを選り好みしている余裕などない)
アカデメイアの学院寮、その隣室の住人に話を聞くため、シュヴァリエは重い腰を上げた。
その頃にはもう、あの陰鬱な館で聞いた不可解な物音については、すっかり忘れ去っていた。
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