第56話 生贄は食卓に捧げられ

注)流血描写に注意



 館に引っ越して来てからというもの、グレイスは日常的に地下室へ篭って実験をすることが多くなった。

「はぁ……。うまくいかないものだなぁ……」

 陰気な館の薄暗い地下室で、グレイスは実験の後片付けをしながら深い溜め息を吐いていた。




 ある嵐の日、しばらく外出できそうもないと考えたグレイスは、この機会に普段はできないような手間のかかる実験を行うことにした。

 用意したのは鋭い刃を持った鉈、実験用の使い古した土鍋、手回し式の遠心分離機、そして実験動物を台に縛り固定する為の縄……はなかったので代わりに細長い鞭。

 これらを用意してから、グレイスは実験の為に用意しておいた新鮮な鶏を、館の裏にある飼育小屋から捕まえてきた。


 外は激しい嵐である。

 入り口から回って飼育小屋に向かうのは一苦労だ。

 グレイスは手近な窓から館の裏に出て、朽ちかけた飼育小屋へと向かった。館と飼育小屋を三回往復して、鶏三羽を捕まえてきた。


「よし、準備できた。……ちょっと残酷だけど、これも必要なことだし。御免ね、鶏さん」

 グレイスの目の前には三羽の鶏が脚を括られて実験台の上に横たえられていた。

 これはいかなる実験なのか、事情を知らぬ人間には到底理解できないものであっただろう。

 グレイスは今まさに『動物の血液から鉄分ほか有用成分を分離する』実験を行おうとしていた。


 家畜を絞めて血抜きをする過程で河川に流される血液は、無視できない環境汚染の原因になっていた。毎日のように屠殺され、大量に流される動物の血液、これを有効利用できないものかとグレイスは考えたのだ。

 なお、この行為は純粋に科学的探究心に基づく実験であって、夕飯の食材を調理する過程で出された廃棄物の利用に他ならない。


 早速、実験用兼夕食の鶏を捌いて血を抜き取ろうとしたグレイスであったが、ふとその後の作業展開を思い浮かべて手を止めた。

 貴重な実験器具や本の置いてある地下室で鶏に暴れられては困る。

 ガラスの実験器具など非常に割れやすいし、床や壁が血で汚れたりしたらこれを掃除するのは困難であろう。本に血の染みがついたならまず落とすことはできない。

 そこでグレイスは実験器材を一旦まとめて、十分に広い空間のある浴場へと場所を移して作業を行うことにした。ここならば鶏が暴れたり、血が飛び散ったりしても問題ない。


(あ、服も血で汚れると面倒だな……。そうだ、脱いじゃえ)

 返り血をすぐに洗い流せるように、グレイスは作業前に全裸となった。

 かくして陰気な館の浴場には、全裸で鉈と鞭を握り締めた娘が三羽の鶏を実験台に横たえた異様な光景ができあがった。



 外の嵐はますます激しさを増しており、吹き荒れる風と途切れなく打ちつける雨音はそれ以外の音を飲み込んでしまう。

 だが先刻から、風雨の音さえも一瞬消し去る雷鳴が頻繁に轟くようになっていた。

 浴場の湯気を逃がし明かりを取るための高窓からは、青白い稲光が断続的に室内を照らし出す。

 研ぎ上げられた鉈の刃が光を反射し、まるで紙芝居のように途切れ途切れの動作が浮かび上がった。

 振り上げられた鉈が、残像を残して振り下ろされ、青白い閃光が瞬間的に真っ赤な鮮血の飛沫を曝け出す。


 実験動物の鶏から、断末魔の叫びは聞こえなかった。

 あるいは絶命の瞬間に声を上げたのかもしれないが、それは雷鳴にかき消されてしまった。しかし、間の抜けた悲鳴は後から遅れてやってきた。

「わーっぷぅ! やだ、すごい飛び散ったよ!」

 鶏の捌き方もろくに知らないグレイスは、力いっぱい鶏の首に鉈を叩き下ろしたのだ。

 案の定と言うべきか手際の悪さが影響して、鶏の首を切った瞬間に迸る鮮血を真正面から浴びて、グレイスの全身は血に塗れてしまった。


 顔にかかった血を拭う手間も惜しんで、グレイスは慌てて鶏の首から流れ出る血液を土鍋に回収した。

「うぇー。臭いー、気持ち悪いー……」

 首を切られた鶏は絶命した後もびくびくと筋肉を痙攣させながら、首の断面より赤い血をとくとくと滴らせている。気のせいか、血が滴るたびにグレイスの血の気も引いていくかのようだった。

「ふー、あと二羽かー……」

 憂鬱になりかけながらも、勇気を振り絞って再び実験台の前へと戻る。


 首を絶たれた仲間を見てか、残りの二羽が急に騒ぎ暴れ出した。

「あーもうー、暴れないで大人しくして、ね!」

 ずだん、と先程よりもよほど手慣れた様子でグレイスは鶏の首を落とす。

 今度は断末魔の悲鳴が上がる間もなかった。


 美しいまでの切断面から、止めどなく溢れ出てくる血液をまた土鍋に回収する。その作業の為に鶏を縛っていた鞭から手を放した瞬間のこと――。

『ケェーッ!!』

 けたたましい叫び声を上げて、最後の一羽となった鶏が実験台の上で飛び跳ねる。

 嘴を前後に引いては突き出し、グレイスに挑みかかる。

 命懸けの最後の抵抗であった。


「あーっ!! 痛い! つつつ、突かないでよ!!」

 無我夢中で振るった鉈が、細く硬い骨を捉える。稲光が視界を照らし出し、鶏の首なし胴体がグレイスの網膜に焼き付いた。

 だが、確かな手応えがあったにも関わらず、鶏は飛び跳ねた勢いで浴場を走り出ていってしまう。噴水のように、派手に辺りへ鮮血を撒き散らしながら走り回る。

「あっ、こら、どこ行くの!? 待ちなさーい!」

 逃げ出した鶏の胴体を追って、グレイスは右手に鉈を、左手に鞭を持って駆け出した。


 点々と滴る血の跡を辿って、鶏の行方を探す。

「ああ……やだなあ、もう。どこへ逃げちゃったの?」

 全身を夥しい量の鮮血で赤く染めながら、グレイスは薄暗い館の中を歩き回っていた。

「暗くてよく見えないなぁ。どこに逃げ込んだんだろう? ねえ、出てきてよ。……もう、せっかくの実験が台無しだよー」

 独り言を呟いた時、グレイスが寝室に使っている部屋の隣、婦人が集まるサロンの為の歓談部屋で小さな物音がした。

「ん? 今、物音が聞こえたような……」

 グレイスは静かにゆっくりと音の出所へ向かって近づいていく。両手に持った鉈と鞭を握りしめ、大きく一回深呼吸をする。


「よーし、逃がさないぞー……えいっ!!」

 グレイスは掛け声と共に、当たりをつけた場所目掛けて左手の鞭を振るった。

 何かに絡み付く感触が鞭の先端から伝わってくる。グレイスは確信を持って鞭を引き寄せた。

「捕まえた! 手ごたえあり!」

「ひぃいっ!!」

 何か妙に人間臭い叫びが聞こえたが、気のせいだろうか。

 鶏の首は既に断ち切ったと思っていたが、雷光に映った一瞬のことだ。ここまで逃げ回っていることから考えても、もしかすると鶏はまだ頭をくっつけたままなのかもしれない。


 疑問に感じながらも鞭を手繰り寄せてみると、確かに何か絡み付いたと思った鞭の先には何もなかった。先端は円周状に巻き付いたような形で丸まっているので、間違いなく絡み付いていたものがあるはずなのだが。

「あれ? 鞭が解けた!?」

 グレイスが声を張り上げた瞬間、机の後ろから黒い影が飛び出し、ばたばたと物音を立てながら走り去っていく。

 鶏がまた逃げ出したのだと理解したグレイスは、鉈を振り上げ、鞭を四方八方に叩き付けながら後を追った。

「待てーっ!! 逃がさないよぉ~!」

 影を追って廊下へ飛び出そうとしたその時、轟音と共に窓から白い閃光が差し込み、部屋の片隅に潜んでいた何かの影を暴き出した。


 それは、とっくに力尽き倒れていた首のない鶏の死骸であった。


「? ……あれ?」

 黒い影が廊下へ飛び出して行ったように思えたが、それも見間違いであったのだろうか。グレイスは首を傾げながらも、鶏の胴体を回収すると浴場へ戻り、再び実験を開始するのだった。




 実験を再開したグレイスは、土鍋に回収した鶏の血液を手回し式の遠心分離機へ流し込むと力一杯回転させてみた。

 額に汗を浮かべながらも根気よく回し続け、数時間が経過したところで回転を止め、静かに沈殿させた後で中身の様子を確認してみる。


「うわぁ、なにこれ。分離……したのかな?」

 遠心分離機で長時間回し続けた血液は泡立ち、幾分か斑状に成分が分離しているようにも見えた。

 だが、分離した赤血球は混じり物の多い酸化した鉄粉として回収される結果となり、とても何かに使えそうな代物ではなかった。

「う~ん……失敗かぁー……。何がいけなかったんだろう?」

 残念ながら、残された体液の搾りかすも薄らと赤色が混じっていて、純粋な液とはとても言えなかった。


「考え方は間違ってないはずなんだけどなぁ。綺麗に分離できるようになれば研究もしやすくなって、色々と使い道が発見できると思ったんだけど……ちょっと今の私じゃ手に負えないな、これ」

 文献を読んでも、血液成分の分離に関する情報はほとんど載っていなかった。

 今のところ、これ以上の方法は考えつかない。


「はあ、こういうこともあるよね、研究って……。仕方ない、片づけて食事にしよう」

 グレイスはがっくりと肩を落として、実験機材を片づけ始めた。


 そして、血抜きをされた鶏を不器用ながらも捌き、肉に塩をふって火を通す。

「実験は失敗だったけど、鶏さんの犠牲は無駄にしないからね」

 グレイスは神に祈りを捧げ、程よく焼けた鶏肉のソテーを美味しくいただくのであった。

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