第十四幕

第55話 魔女グレイスの館


 やさぐれた風体の男が一人、グルノーブルの郊外をどこへ向かう風でもなく歩き回っていた。


 顔はあまり動かさず、目だけは不自然なほどにぎょろつかせて辺りの家々を観察していた。男の足が大きな庭を持つ館の前で、一瞬だけ止まる。ちらりと門前から館の様子を見て、男は再び何事もなかったかのように歩き出した。


 頑丈そうな柵と高い木々で囲われた館を、ぐるりと一周するように歩きながら男、ニコライは館の入り口付近に向けて目を凝らした。

 ニコライが林の隙間から館の様子を覗いたとき、怪しい覆面を着けた二人組が館の扉を開けているところだった。

(……ちっ、同業者に先を越されちまったか……)

 もう何年も人が住んでいなかった空き家が、とある貴族の別荘になったのは一年前のことだった。




 羽振りの良さそうな貴族令嬢が大量の荷物を運びこんでいるのを見た時から、盗人ニコライはその館に目を付けていた。

 同時に、新たな館の主となった貴族が荒事に通じている雰囲気も感じ取っており、すぐには手を出さずに様子を窺うことにした。とりあえず、屈強な使用人達が館にいるうちは手が出せそうになかった。


 だが、様子見をしている数日の間に、館から再び大量の荷物が運び出されていくのをニコライは目撃した。どうやら、この館は荷物を一時的に仮置きする為に購入しただけで、利用する予定はなかったようだ。

 ニコライの当ては大きく外れた。

 郊外の館など使い勝手は悪いのだから普段あの館はもぬけの殻となり、中にはきっと手頃な大きさで価値の高い小物類が残されたまま放置されるだろうと考えていたのだ。ところが、そういった類の調度品は別の場所に運び出されてしまった。

 残されたのは大型の高級家具など盗み出すには難しく、売り飛ばそうにも後から足がつきやすい品物ばかり。慎重を期したばかりに千載一遇の機会を見逃してしまった。


 状況が変わったのは、ほんの数週間ほど前のことだ。

 これまで使われることのなかった町外れの古びた館に貴族のお嬢様が一人で住み始めたという噂を聞いたのだ。その館はまさに、ニコライが一年前に目をつけた館に違いなかった。

 どうもそのお嬢様は本格的に館へ住みつく様子で、頻繁に館を出入りする金髪少女の姿が何度も目撃されていた。


(――今度こそ当たりだ――)

 ニコライは逸る胸の鼓動を静めながら、郊外にある館へと足を運んだ。


 しかしまたしてもニコライは機会を逃してしまった。

 彼よりも先に、怪しい覆面をつけた二人組が館へと侵入していく姿を見つけたのだ。しかも、堂々と玄関の扉を開けている。おそらく下調べを行ってから、家人の留守を狙って侵入を試みたのだろう。

 計画的な犯行だ。

 これでは目ぼしいお宝は全て持ち去られてしまったに違いない。

 ニコライは館の周囲をぐるりと一回巡ってその場を離れた。

 これでまたしばらく様子見になる。



 あれからニコライは館の情報をさり気なく集めたが、盗難の被害にあった貴族の話は全く聞かなかった。

 そこに住んでいる貴族の少女も、何一つ変わった様子もなく生活を続けていた。もしかすると、空き巣に入られたことに気が付いていないのか、あるいは金目の物を盗られてはいなかったのか。

 思い返せばあの怪しげな二人組、あからさまに怪し過ぎる格好は素人のようでもあった。盗みに入ったはいいが、広い屋敷で金目の物がどこにあるのかわからず、何も盗らずに出ていったのかもしれない。


 だとすれば、これはまたとない好機だ。

 あの館にはきっとまだお宝が隠されている。

 今度は慎重になり過ぎて期を逃すことがないように、すぐにでも館への侵入を考えた。どうせ館にいるのは少女が一人きりだ。広い館では上手くすれば顔を合わせずに盗みを働くこともできる。もし仮に見つかってしまっても、たかが女子供一人なら軽く縛り上げてしまえる。


 ニコライの脳裏にふと邪まな感情が混じった。

 縛り上げたあの金髪の少女、せっかくだから裸に剥いて楽しむのも一興か。郊外の館なら、少々の悲鳴や物音では誰も気が付かない。ゆっくりと楽しめるというものだ。真っ白な肌をした貴族の令嬢を手にかけて――。


 そこまで妄想を広げておいて、ニコライは唐突に現実へと目覚めた。

 ありえない、貴族の令嬢に手を出すなど。

 強盗、強姦の罪。万が一にも捕まったら、与えられる刑罰は最悪で死罪、軽くても去勢された挙句に強制労働であろうか。

 罪重き盗賊などを懲らしめる手首切断の悪法が残る現在、性犯罪者には去勢という恐るべき刑罰が与えられる。法令は近年になって急激に改訂が繰り返されているが、確かそのような刑罰もあった気がする、とニコライはろくに勉強したこともない頭で思い込んでいた。


(想像するだけでもおっかねえ……。欲が深いと失敗するからな……)

 だからと言って、ニコライは目の前の好機を逃そうとは毛ほども思わない。より安全に盗みが働ける時を見定めて、館へ侵入しようとニコライは考えていた。




 穏やかな気候の牧月プレリアルには珍しく、その日は年に数回あるかどうかの激しい嵐となった。外を出歩く者はおらず、皆一様に自宅へ篭って嵐が通り過ぎるのを待っていた。

 仮に通りを歩く物好きがいたとしても、日の光を閉ざす真っ黒な空と数メートル先の視界さえ定かではない大雨の中では、その稀有な姿も見つけることはできないだろう。


 だが、雷のもたらした一瞬の閃光が、土砂降りの雨中を進む人影を一つ浮かび上がらせた。

 盗人ニコライ、彼はついに郊外の館への侵入を決行しようとしていた。

 この嵐の混乱に乗じて館へ忍び込み、嵐が去る前に水煙へと姿をくらます算段だった。


 目を付けていた郊外の館、その門をよじ登り風に煽られながらもどうにか乗り越えると、ニコライは足早に館を囲む木々の影へと身を隠す。いくら雨で視界が遮られているとはいえ、真正面から館に入るのは家人と遭遇する危険が大きい。防風林の役目も果たしている木々の間を早足で通り抜けながら、ニコライは館の裏手へと回った。


 一階の窓を外から見て回り、侵入できそうな場所を探す。

 ほどなくして、鍵を閉め忘れた窓を発見したニコライは、窓の外から館内部の様子を窺った。見える範囲に人がいないと判断して、一息に窓を開けると窓枠に足をかけてするりと中へ滑り込む。中へ入ると同時に窓を引き下げ、音を立てないよう静かに窓を閉じる。

 侵入した場所はどうやら食堂のようだ。


 そこからは運と時間との勝負だった。

 適当に金目の物を見繕って、素早く立ち去らなければいけない。

 幸いにも食堂と近くの部屋には人の気配がなかった。館の中はランプの火もつけられてはおらず、外の天候の悪さも手伝って薄暗かった。


 ここに住んでいるはずの貴族の少女は二階の自室にでも篭っているのだろう。食事時は外してきたのだし、上手くいけば鉢合わせることなく盗みを働いて館を出ていける。

(いい具合だ……あとは金目の物さえ手に入れば……)

 手近な部屋へ入り何か金目のものはないかと物色して、幾つか机の上のものを懐に仕舞い込む。


 ふと目に付いたのは一冊の本。

 装丁もそれなりに立派で厚みがある。

 本はいい。本は価値がある。

 写本が出回っているものなら売り捌くのも容易だ。足がつきにくい上、結構な金になる。

 ニコライはほとんど反射的に本を手に取ろうとした。


 ――その瞬間、館中に奇怪な絶叫が響き渡り、ニコライは背筋を凍りつかせた。

(気づかれた!? けれど、今の叫びは……)


 絶叫が上がったのはここから少し離れた、ニコライの下調べでは浴場のある方からだった。

 近くに人はいない。

 自分の存在が気付かれて悲鳴を上げられたわけではなかった。そもそも今の甲高い絶叫はとても人の声とは思えない、獣が上げる断末魔の声のようだった。

 続いて、どたばたと床を蹴って走る音がニコライのいる場所へと近づいてきた。


(――ま、まずい!?)

 ニコライは近くの机の影へと身を隠した。

 床を蹴る音は間近にまで迫り、ニコライの隠れる場所へと突っ込んできた。走ってきた音の主は、思いのほか小さな体をニコライの足元へ投げ出すようにして、ぼたり、と倒れ込んだ。


 それは首のない鶏だった。

 切断された首の断面から血を吹き出しながら、そいつは偶然にもニコライの元まで走り寄ってきたのだ。ニコライは思わず悲鳴を上げそうになったが、すんでのところで喉元にまで出かかった声を押しとどめた。

(なんだ!? なんだ、なんだ? これはなんだ? 鶏? 首のない鶏だ。さっきの絶叫はこいつか? なら、これは……そうか、鶏を絞めていたのか……)


 混乱しかけたニコライであったが、事実をしっかりと認識すれば恐怖も薄まってくる。鶏の一匹や二匹くらい、自分だって捌いたことがある。恐れるものではないはずだ。

 ただ、理性ではわかっていても、突然見せつけられた生々しい姿と血の臭いには辟易とさせられる。特にこの血の臭いときたら、館へ侵入した時は気が付かなかったが、浴場のある方向からは噎せ返るような血臭が漂ってきている。とても尋常ではない臭気だった。


(一体、どれだけの数、鶏を絞めたんだ?)

 一人暮らしの貴族の少女が食べるには、鶏一羽でも十分すぎる量だ。

 それを何羽も……。

 ニコライはそこまで考えて、明らかな違和感を覚えた。

 そもそも、貴族の少女が自分で鶏を捌くだろうか?

 いくら独り暮らしとは言え、肉屋で捌いてもらったものを普通は使うだろう。


 何かが決定的にずれていた。

 ニコライの常識では計りきれない事態が、この館で起こっているのではないだろうか。


「ああ……やだなあ、もう。どこへ逃げちゃったの?」


 透き通った優しげな女の声が浴場の方向から聞こえてくる。

 続いて姿を現したのは、紛れもなくニコライが下調べの時に見かけた金髪の少女だった。

 輝く金髪を紐で一括りに後ろへ束ねた彼女の姿は、一見して異様であった。


 まず、全裸であった。

 胸の膨らみと突起がはっきりと見え、細い腰のくびれから丸い尻まで全て隠さず丸出しであった。

 そしてその全身は、夥しい量の鮮血で赤く染まっている。


「暗くてよく見えないなぁ。どこに逃げ込んだんだろう? ねえ、出てきてよ」


 ニコライはぎくり、と体を竦ませた。

 自分のことではない、きっと先程の鶏のことだ、と必死に自身の心へ言い聞かせた。そうでもしなければ生来臆病な性格の彼は、叫びながら物陰より飛び出してしまいそうだった。


 少女は、右手に鉈を、左手に鞭を持っていた。


 おかしい。

 このような格好をする女が貴族の令嬢であるはずがない。

 ならばこの女は何者なのか。


「もう、せっかくの実験が台無しだよー」


 ニコライは戦慄した。

(実験!? 何の実験だって!?)


 鶏の首を切って、全裸でその血を浴びるとはいかなる実験なのか、ニコライにはとても想像がつかなかった。あるいはこれは魔術の類であろうか。ならばこの行為は生贄を悪魔に捧げる儀式なのではないか。

 悪魔召喚の儀式を行う魔女。その実験中に自分は館へ忍び込んでしまったのではないか。ニコライの疑心暗鬼は想像がさらなる妄想を掻き立て、収拾がつかない恐怖へと成長していった。


「ん? 今、物音が聞こえたような……」

 血濡れの魔女がニコライのいる方へゆっくりと近づいてくる。

 鉈と鞭を持ってやってくる。

 ニコライは必死で息を潜めた。

 鼻から漏れ出る空気の音が、自身の耳にはやけに大きく聞こえた。


「よーし、逃がさないぞー……えいっ!!」

 魔女の掛け声と共に、左手の鞭が生きた蛇のように伸びて、ニコライの足に絡み付く。

「捕まえた! 手ごたえあり!」

「ひぃいっ!!」

 堪らずか細い悲鳴を上げてしまうニコライ。

 慌てて足に絡み付いた鞭を振りほどき、ニコライは駆け出した。部屋の中は暗いので魔女に自分の姿は見えていないはず。ニコライはそう祈りながら、無我夢中で逃げ出した。


「あれ? 鞭が解けた!? 待てーっ!! 逃がさないよぉ~!」

 鉈を振り上げ、鞭を四方八方に叩き付けながら、魔女が後を追ってくる。

「ひいぃっ! ひいっ……ひっ!」

 鞭の先端がニコライの背を何度も打ち、追い立てる。

 もはや完全に自分が追われていると思い込んだニコライは、恐慌状態に陥りながらも暗闇から伸びる鞭を振り払い必死で逃げだした。


(ま、魔女だ! この館は魔女の住み家だったんだ!!)

 とんでもない場所へ忍び込んでしまった。

 今ここで捕まれば、自分は先ほどの鶏のように生贄として捧げられてしまう。

 一刻も早く館から立ち去らねばならない。


 ニコライは最初に侵入してきた窓から逃げ出そうと、足をもつれさせながら必死に窓枠へとしがみついた。

 ちょうどその時、外では風雨が一時的に強さを増し、轟音と共に白い閃光が辺り一帯を照らし出した。

 刹那、白い光が窓から差し込み、館の闇に潜んでいた何かの影を暴き出した。


 稲光に照らし出されたのは異形の怪物。

 人間ではありえない姿形。

 しかし、その大きさは紛れもなく人間と同等だった。


「――――!!」

 ニコライは本能的な恐怖から絶叫を上げた。

 その絶叫は雷轟に遮られ、激しい雨音に反響の余韻さえかき消される。ニコライはなおも悲鳴をあげながら、手近な窓より身を躍らせて館を飛び出した。


 もうなりふり構わず全速力でぬかるんだ庭を走り抜け、門から飛び出すと雨の降りしきる街を這いつくばりながら無我夢中で駆け回っていた。

 偶々、天候の様子を窺おうと建物の窓から外を見た人間が、泡を食って道を走り抜けていくニコライを見かけ眉をひそめた。

 こんな嵐の日に外を出歩くのも尋常ではないのに、一体何をそれほど慌てているのか。ニコライの恐慌は、彼自身にしか理解できない。その嵐の日にニコライが見たものは、他の人間にはおよそ想像の着かないものだったのだから。



 ◇◆◇◆◇ 



 後日、嵐の日に警察署の前を挙動不審で通り過ぎていた盗人のニコライは、その後しばらくして別件の窃盗罪で捕まった。

 だがその際に、嵐の日に忍び込んだ街外れの『魔女の館』についても証言したという。館には恐ろしい魔女が居て、血を滴らせながら怪しげな儀式を行い、恐ろしい悪魔を呼び出していたと言うのだ。


 警察は後でその魔女の館に事情を訊きに行ったが、館から出てきたのは人の良さそうな貴族の少女であった。警官は、この少女がニコライの言う魔女とは全く結びつかないように感じた。

 話を聞いてみると彼女は素性もはっきりしているアカデメイアの学生であった。

 彼女は嵐の日も家に居たらしいが、何もおかしなことはなかったと話している。

 彼女とニコライ、どちらを信用するかと問われれば答えるまでもないだろう。それでも、ニコライが少女の気付かぬ内に盗みを働いていた可能性はありうる。


「もし何か物がなくなっているようならお知らせください。それから、女の子の一人暮らしは本当に危ないから、戸締りはしっかりと忘れないように」

「はーい。わざわざ、ありがとうございました」


 心安らぐ陽気な少女の笑顔に、警官は「まあ、無駄足ではなかったな……」と、小さく呟きながら館を後にした。

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