第54話 不穏な噂

 赤絨毯の敷かれたアカデメイア学院長室で、秘書のポールズ女史が一枚の書類を差し出していた。


「……転居の報告かね? 新年度が始まって、間もないというのに」

 書類を受け取って中身を確認したフーリエ学院長は印を押そうとして一旦、手を止めた。しげしげとその書類に記載された名前を眺めていると、フーリエが二の句を告げる前にポールズ女史が口を開いた。


「はい。つい先日、グレイス・ド・ベルトレット嬢は街外れの館に宿泊先を移したようです」

「街外れの館に……」

 フーリエはそのことに引っ掛かるものを感じたが、明確な疑問が浮かんだわけではなかった。ただ、色々と腑に落ちないことがあるだけだ。それもポールズ女史に詳しく聞けばわかることだろう。話を聞くよりも先に、答えを考えてみようとするのは、フーリエの学者としての性であろうか。

 結局、仮説は立てられるが確かなことは聞いてみなければわからない、という当たり前の結論に達した。


「何故、急に?」

「ナヴィエ教授のお話では、金銭的に生活のやりくりが厳しい状況にあるようです」

「ふむ……昨年度の事件が響いているようだの。学院寮は使えぬし、家からの仕送りも制限されておるのか。もしや、宿代を払えずに追い出されたのか?」

「いえ、そこまで困窮しているわけではないようです」

 おおよそ貴族の娘とは思えぬ事情である。アカデメイアの学費は頑張れば普通市民でも払える程度。宿代も並みの貴族ならば、贅沢をしない限り一年や二年の長期滞在でも払えない金額ではないはずだ。


「しかし、街外れの館というのは、宿を借りるよりも高くつくのではないのかね?」

「館はアカデメイアの学生であるラヴィヤン家令嬢の別荘であったという話ですから、間借りするものと思われますが……」

「ほう? なるほど、学友の別荘を借りたのだね。それならば金銭的な負担も軽くなったことだろう」

 学友の別荘と聞いて、どうやら良き援助を得られているようだとフーリエは安堵した。優秀な学生が金銭的な理由で学院をやめてしまうのは正直つまらない。アカデメイアは学問を愛する全ての人に、等しく学びの機会を与える場所なのだから。


 フーリエは納得して転居届の確認印に判を押そうとしたが、ふと目に入ったポールズ女史の浮かない顔に印鑑を持つ手が止まった。

「何か、懸念があるのかね?」

 問い質すフーリエに、はっと顔を上げたポールズ女史は声を潜めて、しかしはっきりとした口調で告げた。

「噂があるのです。良くない噂が」




 グルノーブルの街外れ、背の高い木々に囲まれたその館はまるで世間から隠すかのようにひっそりとあった。


(噂の通り、なんとも陰気な館だの。本当にここに、ベルトレット嬢は住んでおるのか?)


 ポールズ女史が聞いたという噂を耳にして、フーリエは個人的にグレイスのことが心配になり、こっそりと様子を見に来ていた。

 顔の下半分を布でぐるぐる巻きにして覆い、帽子を目深に被っている。春の暖かな風が吹くようになって大分経つというのに、フーリエは上着を何枚も着込んで暑苦しい格好をしていた。


 変装の意味合いだけではない。これだけむさ苦しい格好をしているのも、かつてエジプトで研究者として活躍していた全盛期を再現し、思考の冴えを鋭くするのに効果的であるとフーリエ自身が信じているからだ。体を温めるのは血行の巡りをよくして、思考の中枢である脳へ血液と栄養を送り込むことで精神活動が活発化される、と特に根拠もなく信じていた。


(ふむ、窓が開いておるな……もう、こちらへ移ってきているのか。引っ越してきたばかりで忙しいかとは思うが、少しばかり話し相手になってもらおうかの。一目でも、館を近くで見て噂の真偽を確かめておかねばなるまいし)

 フーリエは荒れ果てた庭を突っ切り、陰気な空気の渦巻く館へと歩を進める。左右の代わり映えしない風景が、館との距離感を狂わせる。近づいてみれば遠くから眺めて感じた規模よりも、よほど大きな館のようであった。


 やや気後れして、入り口付近で佇んでいたフーリエの前で、両開きの大きな扉が軋んだ音を立てながら開いた。

「ごほっ! こほっ……。ううー、まだ埃が出てくるよ……。使わない部屋は閉じておいた方が良さそうだなぁー……」

 胸から白い前掛けを着けて木の箒を持ったグレイスが館から転がり出てくる。口元は目の細かい布で塞ぎ、埃を吸い込まないようにしているようだ。


「やあ、お嬢さん、こんにちは。家の掃除をしていたのかね?」

「え? ええ?」

 白い布で口元を覆ったグレイスと、色彩豊かな布で顔の下半分をぐるぐる巻きにした二人が、館の前で顔を見合わせる。誰か第三者がその場を見ていたなら、二人組みの盗人が館へ侵入の手引きをしている最中とでも見て取ったかもしれない。


「あ、あれー……! いつかのお爺さん! え? どうしてこんな所に?」

「ああいや、ここへ来たのは本当に偶然なのだが、散歩している途中で長らく使われていなかった館の窓が開かれているのを目にしてね。興味を持って様子を見に来たのだよ。空き巣でも侵入しているようなら、警察に連絡せねばならんかと思ったが、どうやら無駄な心配だったようだ。君がこの館の管理人かね?」

 フーリエの問いにグレイスは急に困った様子で、辺りをきょろきょろと見回しながらしどろもどろに返答する。挙動不審で、やはり他人に見られれば誤解を招きかねない光景だ。


「ち、違います。私はその、間借りしているだけで、管理者というか館の持ち主は別にいて、私の友達なんです。普段は使っていないから、館の掃除をするなら好きに使ってくれて構わないと言ってくれて」

「ふーむ? それを管理人と言うのではないのかね?」

「あれ? そうなのかな? と、とにかく、私は部屋を借りているだけで……」

「ああ、そう慌てることはない。別に深い意味があって確認したことではないのだよ。ただ、もしもこの館に住まうなら、知っておいた方が良い話があったのでね。持ち主にしろ、管理人にしろ、もし実際に住む人間がそのことを知らない様子なら伝えておこうという、年寄りの余計な世話なのだから」

 そこまで言うと、不意にグレイスは怪訝な表情を浮かべた。


「いったい何の話ですか?」

「この館にまつわる話を聞いたことはないのかね?」

 心当たりがない様子で、不安げに眉根を寄せるグレイス。フーリエは館にまつわる噂を事細かに説明しようとして、しかし思い止まった。


(……これから住もうとしている新居について、良くない噂を吹き込んでも良いものか? 知らなければそれで済むことを、わざわざ教えて怖がらせる意味があろうか? 他に、住む場所を用意できるわけでもないというのに……)


「い、いったい、何だって言うんですか……?」

 黙りこんでしまったフーリエに、更なる不安を募らせたらしいグレイスが堪えきれずに話の続きを促す。

(……何かあったときに、何も知らないのでは、未知の危機に対しても反応が遅れるかもしれぬ。やはり、伝えておくべきかの)


 ――この館で、過去に死者が出ているという事実。

 その人物はグレイスの前に館を使っていた貴族の主人で、何年か前に流行り病で逝ったのだ。この館にのみ限って発症するような病気でもない。注意を促すにもうまい説明の方法は見つからなかった。なので、せめて異常に対する警戒心を植えつける程度はしておこうとフーリエは思い至った。


「なに、他愛のない噂なのだがね。この館には……出るらしいのだよ」

「で、出るって……、まさかっ……!」

「うむ……」

「空き巣ですか!?」

「むうっ……そう考えたか。まあ確かに、街外れの建物は空き巣に侵入されやすい。注意したほうが良いのは確かなのだが、わしが出ると言っているのはもっと別のものだよ」

 こほん、と軽く咳払いをしてフーリエは告げた。

「この館には、吸血鬼が出るという噂だよ」



 にわかには信じ難いといった表情でグレイスはフーリエの言葉を反芻した。

「吸血鬼?」

「そう、吸血鬼だよ。夜、家の住人が寝静まった頃合を見計らって、館の中を徘徊するらしい。そして、住人がその気配に気が付かないまま眠っていると、寝首を咬まれるのだそうだ」

 血の気の失せた顔をして、グレイスは自らの首筋に手を当てていた。


「……首を咬まれて痛みに目を覚まして起きるが、枕元には誰も、何もいない。だが、首には小さな傷痕と痛みの記憶が残る」

「ははは……やだなあ、お爺さんてば何を言い出すかと思えば。吸血鬼なんているわけないですよー」

「火のないところに煙は立たないように、全く根も葉もない噂というわけではない。過去の住人が何者かに首筋を咬まれたというのは確からしい。その後、数日して命を落としたことから、吸血鬼に咬まれると不浄を受けて死ぬ、などという噂が立ったのだそうだよ」

 黙りこくったグレイスが、ごくりと唾を飲み込む音を鳴らす。


 乾き切った声でグレイスは何とか疑問を一つ言葉にすることができた。

「……人が、死んでいるんですか? この館で……」

「表向きは病死という話であったかの。いや事実、ごく普通の病死だったのだ。長い時を使われてきた家ならば、人の死に場所となることくらいはあろう。特別な話ではないのだよ。ただ……のぉ? 生前に不穏な噂があったのだ。その死因についてあれこれ憶測が飛び交うのは仕方ないことかもしれん」

「そ、そうですか……? でも、そういえばアンリエルも『取るに足らない噂』のおかげで安く手に入った物件って言っていたような……」

 内装を見れば立派な館だったので別荘としては相当に高かったのではないか、と後になって尋ねてみたところ格安物件であったという話をグレイスは聞かされていた。


「ふむふむ……確かにの。結局は取るに足らない噂、それだけのことかもしれんて。詰まる所、そういった噂があったと知っておいて、館を使う本人が気にしなければ取るに足らない心配であろう。ふぉっほっほ……」

 フーリエは深刻そうな雰囲気から一転、軽い口調で先程までの噂を笑い飛ばす。グレイスにしてみれば散々脅かされていい迷惑であっただろう。


「もー! やめてくださいよー! 悪い冗談は! 今日から試しに泊まってみようかと思っていたんですから!」

「ほっほっ、すまんすまん! 無駄に怖がらせてしまったか。だが、まあ一人暮らしというのは何かと心細いものだ。戸締りはしっかりしておくのだよ」

「ええ、もちろんです。お爺さんみたいに見知らぬ人がふらふら入ってこないように、門の鍵も閉めちゃいますからね?」

「ふはっ! これはまた言われてしまったわい。うむ、それぐらいの用心があれば大丈夫じゃろう。では、な。良き生活を祈っておるよ」

 フーリエは最後に軽く、神の加護を祈って館を後にした。



 門を出て幾足か歩き、フーリエは深い溜め息を吐いた。これ以上の心配は無用、と思いはしたがやはり気になってしまうのだ。それに、結局グレイスに全ての事情を伝えることはできなかった。


(よもや、あの館で死亡した人間が一人ではないなどと……)


 それぞれ死因は違えども、記録が残されているだけで三人があの館で命を落としている。いずれも病死だ。

 ただし、病の種類は三者三様であったし、どの死因も館と関連付けられる要素はない。

(偶然、とは思うのだが……)

 背の高い木々に囲まれた陰鬱な館を振り返り、フーリエは晴れない気持ちを抱えたままその場を離れた。何事も起こらなければいいが、と小さく呟きながら。



 ◇◆◇◆◇ 



 グレイスはその晩、館に泊まった。

 人の好いお爺さんの忠告に従って、門の鍵と扉の鍵は夕方になってからしっかりと閉めた。窓も全て鍵がかかっているのを確認した。館の扉や窓はかなり頑丈な作りになっている。これで外からは誰も入ってくることができない。


 そのことに安堵したグレイスは、シャワーを浴びて髪や体に付着した埃を綺麗に落とすと、昼間の内に洗って干しておいたシーツと掛布を用意したベッドへ、裸のまま潜り込んだ。

 どうせ館の中にはグレイス以外に人はいないのだから、姿格好を気にすることもない。朝になって門と扉の鍵を開けないことには、誰も館へと入ってくることはできないのだ。


 柔らかなベッドと肌触りの心地よいシーツが、昼間の労働に疲れたグレイスを深い眠りへと誘う。グレイスは寝返り一つする間もなく、そのまますっかりと熟睡してしまった。




 月が雲に隠れて真っ暗な深夜。

 すうすう、とグレイスの寝息だけが聞こえる一階の寝室。

 婦女の集まるサロンが隣接する、『夫人の間』。

 廊下を挟んでその向かい側には、館の主人が使っていただろう寝室がある。

 その『主人の間』から、ごく小さな音が鳴っている。

 かりかり、と壁に爪を立てるような音。

 グレイスは熟睡しているので、その音には全く気が付かない。

 仮に起きていたとしても、よほど注意していなければ聞こえないほどの物音だ。

 しかし、その音は夜中の間ずっと鳴り続けていた。

 かりかり、かりかり、かりかり……。


 やがて朝日が昇り、窓から明るい光が差し込む時刻になると、いつの間にか音は鳴りやみ平時の静寂を取り戻していた。

 グレイスが初めて館に泊まったその日、何事も起こることなく夜は明けた。

 次の日から、グレイスは館で生活するようになった。もう吸血鬼の噂も、過去に死んだ住人の話も、全く気にかけることはなかった。

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