第53話 苦学生の住み家
お金のやりくりに困っていたグレイスに伸ばされたアンリエルの救いの手。別荘の管理をしてくれるなら無料で部屋を貸す、という彼女の提案に飛びついたグレイスは講義の終わった夕方に、その物件を見に行くことにした。
街外れでアカデメイアからも多少遠くはあったが、徒歩でも通えない距離ではない。そんな不便も差し引いて余りある魅力は、なんと言っても
もっとも、相当にお金持ちな貴族のアンリエルが使う予定だった別荘だ。粗末と言うことはないと思うのだが。
「そろそろ着きますよ。ほら、そこの防風林に囲まれた敷地に建っています」
アンリエルに言われて踏み入った場所は、周囲を背の高い木々と鉄の柵で囲まれた敷地だった。
門の鍵を開けて敷地に入ると、荒れた花壇が庭のかなり広い範囲を占有しているのがわかった。掘り返されたような土は花壇というより畑のようではあったが。
左右に長く広がる荒れた花壇の間を抜けて行くと、正面に大きな建物が近づいてきた。
「こ、これは……! なかなか雰囲気のあるお屋敷だね……」
第一印象を言えば大きくて陰鬱な館。
グルノーブルでは珍しい木造の館で、黒ずんだ建材が建てられてからの長い年月を感じさせた。基礎は石造りのようだがこれもまた随分と苔むしていて年季が入っている。
「安心してください、グレイス。外観は多少、古臭いですが、館の中はしっかりとした造りになっています。隙間風など入り込んできたりはしませんし、無駄に広いことを除けば快適に過ごせますよ」
アンリエルが扉の鍵を開けて中へと案内してくれる。
一年ぶりに扉を開けると言う館の空気は湿っていて、雑巾が腐ったようなすえた臭いがした。色々な臭いが混ざっていて、目を刺激するようなアンモニア臭まで感じられる。
アンリエルも扉を開けた瞬間に嗅ぎ取ったのか、「しばらく空気の入れ替えをしましょう」と、息を止めて館の窓を開け放すと入口から飛び出してきた。
息を止めて走ったのが負担になったのか、ぜいぜいと呼吸を荒げている。
相変わらずアンリエルは体力がないようだ。
時間を置いて館へ足を踏み入れると、ちょうど夕暮れ時の西日が窓から差し込み、広いエントランスホールと二階へ上がる両階段を照らし出していた。
「うわぁ……広い。立派な館だなぁ。本当にここを使わせてもらっていいの?」
「ええ、グレイスなら安心して任せられます。私はほとんど生活の場として使ったことはありませんので、後で住み心地など聞かせてください。どんな感じか興味があります」
一階両端には広い浴場や調理場として使われる大部屋があった。両階段の下をくぐった先は左右に四つの部屋があり、廊下の突き当たりは大きな食堂になっている。
「元々は、大勢の客を招いて会食を催す目的で造られた建物だったようです。浴場では水浴びだけでなく、浴槽に水を貯めて湯を沸かせば古代ローマ風の大風呂を体験できます。外から浴場の裏に回れば、薪をくべる暖炉があるはずですよ。もっとも、この規模の浴槽に貯めた水を温めるとなると薪が大量に必要ですから、準備の方が大変でとても個人では扱いきれませんがね」
「そこまで贅沢するには使用人が大勢いないと無理だろうね。あ、でも水道が繋がっているんだ……すごいや、これは助かるなあ……」
「近くのイゼール川から水を引いています。上流に位置する場所で取水していますから、街中と比べれば水は綺麗ですよ」
浴場のすぐ外には小さな離れがあって、そこは便所になっていた。ここにも水が流されていて、用を足した後は水で綺麗に洗い流せる。とても便利だ。
また館の中で、浴場の脇には地下へ続く石の階段があった。物置に使われる倉庫のようだが中には何も置かれておらず、かなりの大部屋になっている。壁も天井も頑丈そうな石で造られており、何本か太い石柱が床から天井までを貫いていた。
「あれ、倉庫かと思ったけど暖炉と煙突がある。普通に地下室としても使えそうだね」
「こんな陽当たりの悪い場所でなくとも、もっと良い部屋が二階にありますよ?」
「あ、その、壁も床も石造りだし、実験用の部屋にしたいんだけど……だめかな?」
実験用の部屋、という提案にアンリエルは目を見開いて驚く。
「つまり……秘密の地下実験室というやつですね? それはとても心が躍ります。そういうことなら、寝室とは別にここを使うとよいでしょう。グレイスがどんな工房を作り上げるのかとても楽しみです」
「あはは……そんな大層なものじゃないけど、使わせてもらえるなら私も嬉しいな。うん、ここを立派な実験室にしよう!」
「期待しています」
館を見て回っているうちにグレイスにもここでの生活が段々と想像できてきた。あとは普段、過ごすための部屋を決めるくらいだろう。
次に二人は、両階段を上って二階を見て回ることにした。
二階は壁に沿って整然と部屋が並ぶ構造になっている。各部屋には寝台と鏡台、事務机と空の本棚、衣装棚が備え付けられており、一部屋一部屋が十分すぎる広さを持っていた。
「驚いたぁ……この部屋、学院寮よりも広くて立派だよ。本当にこの部屋を借りてもいいの?」
「この部屋と言うか、館全てですよ。さすがにここまで広いので、使う予定のない部屋まで掃除しろとは言いません。グレイスが暮らす上で必要な場所だけ掃除しながら使ってくれれば、それだけでも館の維持はましになりますから」
「暇があったら、他の部屋も掃除しておくよ! こんないい物件を貸してもらえるんだから、掃除くらい手間とも思わないから!」
全体を見て回って、古びた館だが掃除をすれば十分に使える物件だとわかった。
ひとまず自分が使う部屋だけ、掃除を済ませてしまおう。
後は追々、綺麗にしていけばいいだろう。
「でも、こんな立派な館なのにアンリエルは使うつもりないの? なんだったら一緒に住むのも楽しいかなー、と思うんだけど」
「え? いえ、私はその、遠慮させてもらいます。ここからではアカデメイアが遠すぎるので……」
アンリエルは歯切れの悪い口調で断った。
確かにアンリエルの体力では毎日アカデメイアまで歩いていくのは大変だろう。
ふと用事を思い出した時など、気軽に行って帰ってこられる距離ではない。それは普段の生活でも言えることだ。
街外れに位置するので食事の為パン一つ買いに行くのも、食堂があるアカデメイアに比べれば不便と言わざるをえない。
「そっかー……やっぱり、アカデメイアまでの距離だけは少し不便だよね。でも、それはちょっと走ればいいことだし、うん! 私、この館がとっても気に入ったよ!! 本当に、本当にここ、無料で貸してもらえるんだよね!?」
「ええ、嘘ではありませんよ。館の管理さえしてくれれば、無料です」
「ありがとーっ! アンリエル! じゃあ、明日からここの掃除を始めて、来月からでも本格的に使わせてもらうことにするよ!」
「グレイスが喜んでくれて私も嬉しいです。それではこれが館と門の鍵になります。後のことはお任せました。……何かあれば私に言ってください。ほんの些細なことでも、困ったことがあれば相談に乗りますから……」
アンリエルの細かな配慮に感激しながら、グレイスは明日からの生活に明るい希望を見出していた。
翌日からアカデメイアの講義が終わった後、グレイスは館へと出向いてこまめな掃除を開始した。
まずは長年放置されて館に染みついた臭いを抜く為にも、毎日空気の入れ替えをすることが肝心だった。
積もり積もった埃も酷い。窓を開けていればそれだけで大量の埃が舞い上がり、外へと飛び出していくのが窓から差し込む光でよく見えた。
「ごほっ、ごほぉっ!! うう、ひどい埃。でも、ここに住むんだから、しっかり綺麗にしないと!」
館の床には結構な量の砂や土の粒が落ちていた。
それも全て木の箒で外へと掃き出す。
しばらくエントランスの掃除をしていたグレイスだったが、これならば奥から掃除を始めた方が良さそうだと考えつく。せっかくエントランスを綺麗にしても、奥の部屋が同じように汚れているなら砂埃を外へ掃き出す際にまたエントランスが汚れてしまうからだ。
グレイスはとりあえず自分が使う部屋を決めることにした。
二階と一階で寝室として使えそうな部屋を一通り開けて回って確認したが、どうやら一階の一番奥、食堂に向かって右手にある部屋は館の主人が使うべき部屋なのか、最も広く備え付けの調度品も豪華だった。客を部屋に招き入れて歓談することまで考えた部屋だろう。扉続きで一つ手前の部屋が寝室になっていた。
次に大きいのが向かいの部屋、食堂に向かって左手の部屋だった。広さも部屋の豪華さも右手の部屋と遜色ないほどで、館の主人に対してこちらはその伴侶が暮らす部屋だったのだろうか、婦人達が集まり世間話に興じるサロンとしての利用を考えているような雰囲気の部屋だ。こちらも扉続きの手前に寝室があって、女性向けの家具や寝具が集められているように感じた。
残る部屋は二階だったが、こちらは一番奥の部屋だけが他よりも広く豪華で、後の部屋はそこそこの広さと基本的な家具が備え付けられていた。奥の部屋は壁の作りが厚く、扉も分厚い樫の木で隙間なく閉じられるようになっていた。
……これはグレイスの想像だったが、この部屋はひょっとして男女があれこれと情事に使う為の特別な部屋なのではないかと思われた。
(……この部屋だけ、明らかに雰囲気が違うんだよね。一階の部屋はどうも対外的な見栄で豪華だったけど、こっちは別の意味で、なんか派手だし……)
少なくとも、グレイスがこの部屋を使うことはまずない。
寝台の柔らかさが非常に魅力的ではあったが、それがまたあらぬ想像を掻き立ててしまい、とても落ち着いて眠れそうにないのだ。
ちなみにアンリエルの私物は、二階の客間と思われる一室に無造作に詰め込まれていた。一応、衣装棚などは全て開け閉めできる位置取りになっていたが、本当にそれだけだ。その一室は完全に衣装部屋と化していた。
「ん~……とりあえず、一階の方が生活するのに便利だから、部屋はそっちを使うようにしようかな」
右手と左手、どちらの部屋を使おうか迷ったが、結局グレイスは女性向けに作られた左手の部屋を使うことにした。
それになんとなくだが、右手の部屋は少しだけ臭いが気になったのだ。開け放してしばらく置いた後、適当に香水を振りまいたら臭いは気にならなくなったが、グレイスがそちらの部屋を使うことはなかった。
新しい住み家となる館の掃除は一段落し、グレイスは
宿の主人と娘さんにも事情を説明し、なごりを惜しみながら別れの挨拶を済ませた。
「そうですか……今年は長い付き合いになるかと思ったんですが、残念です」
「あーあ、せっかくお姉さんに色々なお話を聞けると思っていたのになー」
「本当は私もちょっと離れがたいです。けど、長い目で見たら腰を据えて研究ができる場所も必要だと思ったので。短い間でしたけれどお世話になりました」
宿に置いてあった荷物はそれほど多くはない。
着替えや勉学用の道具一式、それと食虫植物ハエトリソウの鉢ぐらいなものだ。
実家に一度戻った際に持ち帰り、またグルノーブルまで持ってきていた。妙に愛着が湧いてしまったのである。
株が増えるようならアンリエルの許可を得て庭に植えてみようかと考えているほどだ。
「それじゃあ、行きます!」
「はい、ご利用ありがとうございました。機会があればいつでも顔を出してください。食堂の利用だけでも構いませんよ」
「元気でね、お姉さん!」
グレイスは荷物を抱えて、世話になった宿を出発した。
新たな住み家、街外れの館を目指して。
こうしてアカデメイア二年目、グレイスの新生活は本格的に始まりを迎えた。
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