第十三幕

第52話 苦学生の算数

 静かな教室で、角張った顔つきをした四十歳代後半の男性が教壇に立ち、数式を黒板に書きながら学生達を前に講義を開いていた。


 前列には座高がやけに高く赤茶の長髪が映える女子学生エミリエンヌ、隣には短髪黒毛で彫り深く目つき鋭い男子学生シュヴァリエが座っていた。いつも気の抜けた笑顔でいるシャンポリオンの姿はない。彼は考古学や言語学が専門だ、この講義は取っていないであろう。

 中央列には真剣な表情で講義に聞き入るベルチェスタが見える。グレイスは後列に座っており、すぐ隣ではアンリエルが講義とは無関係の本を読み耽っていた。


 アカデメイア二年目、始まった講義は一年目と比べてより応用を利かせた内容へと段階が上がっていた。

 ちなみに現在聴講中の内容は、アンリ・ナヴィエ教授による粘性流体の運動方程式について、というものだ。

 グレイスにとっては難易度の高い講義で、現象論的には想像できるものの、実際に数式を用いて計算してみると辻褄が合わず、どうやら計算過程の間違いがあるようだと何度も計算をやりなおすはめになっていた。


「うーん……駄目だよねこれじゃ……。そうだ! ここは出来る限り省いて、その差し引いた分をこっちに……。ああ、これも駄目かぁ……別の切り口で攻めないといけないのかな……? よし、今度はもう一つ別の仮定を立てて計算してみよう。希望的観測になるけど……」


 簡単な演習問題を学生に提示して、彼らが様々な切り口で解答を求める姿を教授はゆっくりと教室を回りながら観察していた。特に後列で必死に頭を悩ませているグレイスの姿は教授の目に留まったようだった。

(ほうほう……。随分、考え込んでいるようだ。しかし、諦めずに様々な角度から挑戦を試みる姿勢……素晴らしい。真実の解答は一つだがそこに至る道は無数にある。どれ、彼女はどんな道を模索しているのかな?)

 教授がグレイスの計算用紙を覗くと、そこには独特な行列式が書かれていた。



一ヶ月の収入

 父様からの仕送り:四〇フラン

 ……父様、ありがとぉー!


一ヶ月の支出

 家賃(食事、洗濯込み):二〇フラン

又は……、

 家賃(洗濯は自分でやる):一〇フラン

 食費(自活、切り詰めて):七フラン

 ……パンの内わけは三フラン。パンはベルチェスタの店でまとめ買いとして、おかずは……ひもじいよぉ。

 衣服:一〇フラン

 ……女の子だもん。これくらいは……。洗濯に出すと下着も靴下も生地が痛むし、さすがに穴の開いたものは着られないよね……。

 雑費:五フラン

 ……ノート用紙が高い……インクも……。だけどこれ以上、文字は小さく書けない……。



 家計簿の収入から支出を差し引いた結果を書き記しながら、グレイスは頭を抱えていた。

「うわぁ……。全然余裕ない……。自活にしても食費はこれ以上削れないし、家賃も安くならないよね……。これじゃ、実験器具はおろか新しい参考書も買えないよぉ……」

「……ベルトレット嬢、君は一所懸命に何の計算をしているのだね?」

「はい。今月の生活費を計算しているところで――」

 はっ、と顔を上げてみれば、そこには剣呑な空気を漂わせたアンリ・ナヴィエ教授の姿があった。


「……君、いっそ経済学でも専攻してみてはどうかね? クールノー教授補の講義など打ってつけだろう。彼は若くて君ら学生と歳も近い。……きっと理解を得られるだろうねぇ……」

 どろどろと渦を巻くような、粘性を帯びた空気がグレイスを追い詰めていく。弁解の一つもできないまま、呼吸もままならず口をぱくぱくと開け閉めする。

「授業を再開する!」

 教授は踵を返して教壇へと戻り、やや不機嫌な様子で講義の再開を宣言した。



「まーったく、本当にお馬鹿さんですこと。授業中にお金の勘定をしていたなんて。注意を受けても仕方ありませんわね」

 講義が終わった後、前列から振り返って身を乗り出したエミリエンヌが、大きな声でグレイスを馬鹿にする。隣に座っているシュヴァリエも、グレイスに向ける視線がどことなく冷たい気配だ。


「だって……本当に差し迫った問題なんだもの……」

 グレイスにとっては今後、アカデメイアで無事にやっていけるかどうか本気で死活問題なのであった。

 父親から受け取った仕送りをひとまず一年間で月ごとに分割して生活設計を立てたのだが、正直に言って苦しい。特に家賃と食費が生活費の半分を占める現状では、生活に必要な消耗品を買ってしまえば他に参考書や実験器具を買うだけの余裕はない。


 参考書は可能な限り図書館で借りるしかないだろう。

 実験器具はアカデメイアの実験室を使わせてもらうことができれば、どうにかなるかもしれない。

 ただ、学院の実験講座以外で器具を借りた場合、誤って壊してしまえば弁償の責任がある。自分が迂闊な性格であると自覚するグレイスとしては器具を壊さない自信がない。


「あー、貧乏って悲しいねベルチェスタ……」

「あたしゃ、貴族のお嬢様にそんな同意を求められる日が来るとは思いもしなかったよ」

 何と言って返して良いかわからないベルチェスタであったが、グレイスが困窮する理由ははっきりしていた。

「どう考えても、学院の寮を使わせてもらえないってのが一番つらいわけだけど……ま、自業自得だしね」

「うわーん! それ言わないでぇ~」

 学院寮はやはり今年も使わせてもらうことはできなかった。おそらく、卒業まで可能性はないとみられる。


「そういうことでしたら、グレイスに良い物件を紹介しましょうか?」


 助け舟は意外なところから出された。

 それまで黙って話を聞いていたアンリエルが、グレイスに空き家を提供すると言い出したのだ。


「アカデメイアからは少し離れていますが、グルノーブルの街外れにちょうど使っていない空き家が一軒あるのです。今は私の物置となっていますが、それでも十分に空いている部屋はあります」

「そ、それ、本当!? そこ使わせてもらえるの!? ちなみに……おいくらで?」

「お金は取りませんよ。その代わりに家の掃除だけやってもらえれば結構です。人の手が入らない家というのはすぐに廃れてしまいますから、グレイスが住んでくれるのなら私も助かります」

「私の方こそ助かるよ! 掃除でも何でもするから、お願い! そこに住まわせて!」

「では、契約成立ですね」

 アンリエルが差し出した小さな手を、グレイスは両手で握り上下にぶんぶんと振って感謝の意を表した。


「でも……なんかうますぎる話だよねぇ……」

 順調に交渉を進める二人の姿を眺めながら、ベルチェスタはやや訝しげな表情をしていたが、グレイスの問題が解決して誰も損をしない話にそれ以上口を挟もうとはしなかった。


「では早速、今日の夕方にでも話の物件を見に行きますか?」

「うん! 行こう行こう!」

 こうして、グレイスはアンリエルと一緒にグルノーブルの街外れにあるという空き家を見に行くことにした。




 ――そう、このときはまだ誰も、後に起こる惨劇の気配など微塵も感じてはいなかったのだ。


 話を持ち出したアンリエルも、

 当事者であるグレイスも、

 訝しげに思ったベルチェスタも、

 全く興味を持っていなかったシュヴァリエや、

 その場にいなかったシャンポリオンは当然として、

 傍で聞いていたエミリエンヌも、


 誰にも予想できるはずはなかった。

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