第50話 新たな隣人

 王立学士院付属学校アカデメイア、その学院寮には今年も続々と新入生が入居し、少し遅れて在校生も講義再開を前に戻り始めていた。

 学生達が帰郷している間に、去年の寮室爆発事故で燃えてしまった学院寮の一一一号室も、すっかりと修繕が済んで新たな住人を迎え入れる準備ができていた。


 他の学生達に比べるとやや早い時期に、アカデメイア二年目となる学生シュヴァリエ・ベルヌーイは学院寮へと戻ってきていた。


(……早めに戻ってきた分、研究の準備を進めておこう。今年もまた、確実に星の評価を取らねばならないのだから……)


 休校期間中であっても開放されている図書館で、シュヴァリエは早速、次の研究題材に取り組むための参考書類を借りてきていた。必要なことの下調べを行い、年間の計画を立てておくのは研究の基本である。



 本を抱え図書館から寮へと戻り、自室の一一〇号室に入ろうとした時点で、隣室一一一号室から戸を開けて誰か人が出てきた。

(人が……? 焼失した後は空き部屋になっていたはずだが、修繕が済んでもう新しい学生が入ったのか?)


 隣室から現れたのは、薄い頬肉と尖った顎、意思の強さを主張する鋭い目つきが印象的な少年。

 彼は入口から出てきてすぐシュヴァリエの存在に気がつくと、挑みかかるように真っ直ぐな視線を向けてくる。


 隣室の人間なら初めくらい挨拶を交わすのが当然だろうが、厄介ごとの気配を感じたシュヴァリエは咄嗟に目を逸らし、素早く自室へ引っ込もうとした。だが、隣室の少年は「おい」とシュヴァリエに声をかけ、ずかずかと歩み寄ってくる。

「待てよ、君。……君は、あの有名な数学一族、ベルヌーイ家の人間だろ?」

 整髪油で固めた短い黒髪を神経質そうに撫ぜながら、芝居がかった口調でシュヴァリエに話しかけてくる。厄介ごとの予感は的中した、と内心で辟易としてしまったが、シュヴァリエは努めて冷静な対応を取った。


「確かに、俺の名前はシュヴァリエ・ベルヌーイ。一族の名はそれなりに知られているようだ」

「ふん、まあそんなに謙遜するなよ。シュヴァリエ、君の実力はベルヌーイの名に恥じない、本物なんだろう?」


 やたらとベルヌーイという家名を強調してくることが、シュヴァリエは気に障った。実力はそれなりに備えているつもりだが、それと家名とを無条件で結び付けられることに酷く不快感を覚えたのだ。

「……ベルヌーイ、ベルヌーイと、家名が何か問題なのか?」

「いやなに、僕も数学にはかなりのこだわりがあってね。是非とも君の数学に関する話を聞きたいと思ってさ」

 どこか人のことを小馬鹿にしたような態度だった。


 ベルヌーイなら数学ができて当たり前、ベルヌーイなら優秀で当たり前、ベルヌーイなら……その実力を示してみろ、と暗に目の前の少年は言いたい様子だった。

 こういった難癖をつけてくる輩は少なくない。

 皆、自分の実力に自信があって、いつでもそれを証明したいと思っている。自尊心の強い連中が多いのだ、この学問の最高峰たるアカデメイアには。


(くだらない……自分と比べ優れているか劣っているか他人の実力を測って、時には優越感を得て、また時には劣等感を抱く。煩わしい、そんな暇があったら少しでも自身を高めることに時間を費やせば良いんだ)

 そんな連中をまともに相手するつもりはシュヴァリエにはなかった。ベルヌーイの家名が絡んでくるとなれば尚更だ。


「……悪いが机上の理論には興味を持てない性質たちなんだ。数学はあくまで物事を測るための道具だと思っている」

「冗談だろう? ベルヌーイの人間がそんなことを言うなんて!」

 大袈裟に驚いて見せる隣室の少年。

 いや、大きく目を見開いた表情は、本気で驚いているようにも見えた。

 確かにベルヌーイ家の嫡男が数学をただの道具だなどと、自分の一族を侮辱しているとさえ思われる発言だ。理解に苦しむのだろう。

 だが、これがシュヴァリエの本音なのだった。


 ただ、目の前の少年はシュヴァリエの発言を本気とは捉えなかった。

「はぁん? そうか、僕みたいなのとは議論にならないと思っているんだろ? さすが、優等生は違うな!」

 どうも悪い方に解釈してしまったようだ。

 別にシュヴァリエは彼を侮っているわけではない。

「だけどな、自分が何でも一番だと思うなよ! こと数学に関して言えばだ……」

 そう、むしろ数学について語るというなら――。


「アカデメイアにおいてエヴァリスト・ガロワに並ぶ者はいない」「この僕に――はあ!?」

 シュヴァリエは、ガロワの言葉を遮って彼自身が言おうとしていた台詞を口にする。

 台詞を奪われたガロワは口をもがもがと開け閉めして、何とも言えない微妙な表情で眉をしかめた。

「……君。今、なんて言った?」

「一年目前期の研究発表において、エヴァリスト・ガロワの非凡は確認済みだ。おそらく、あの内容を理解できたのは、アカデメイアの教員でも一人か二人……」


 ガロワが頬を引き攣らせて、僅かに笑った。

 口の端が吊り上がるのを必死で抑えているような、そんな表情でシュヴァリエから視線を逸らし、尖った顎をしきりに撫でている。

「へ、へえ? あの発見の重要性に気づくなんて、やるじゃないか。で、そう言う君は内容まで理解できたのかい?」

 ガロワの問いにシュヴァリエは素直に答えるべきか逡巡した。

 アカデメイアの教員でさえ理解できていたかも怪しい内容だ。正直、自分でも正しく理解できている確信はない。

 それでも、ガロワの数式が何を示唆しているのか、その斬新で挑戦的な内容をシュヴァリエは否定しきれなかった。


「全てではないが、あの数式が意図するところは理解できた。ただ証明が簡略化されすぎていて、あれを見ただけでは真偽の確認が難しい……」

「はは、言うじゃないか。だけど、あれ以上、細かくだらだらと説明を付けるのは御免だね。せっかく美しく整っているものに、何で余計な装飾を加えなければならないんだ? あれが一目見て美しく、真実の証明であることは明白だ! わかりきった説明を途中に挟んでは、数式の美しさが損なわれるというものだろ?」

 傲慢な理屈。けれど、共感もできた。

 無駄のない、あの数式の美しさは、内容を理解できている者にとって余計な装飾を施すのは許しがたい真理への冒涜であろう。


 だが、それでは駄目なのだ。

 ほとんど多くの凡人には理解されないのである。


「……それが充分に検討のなされた証明についてなら問題ない。だが、ガロワ。お前のは発想自体が新しく、それに関して言及のなされていない部分が多い。あれでは他人の理解は得られない」


 これ以上、何を言ってもガロワには通じないだろう。

 自分が絶対に正しいと証明されている事柄に関して、持論を曲げはしまい。

 数学者とはそういうものだ。

 シュヴァリエは言うだけ言って、その場を立ち去ろうとする。だが、ガロワは部屋に入ろうとするシュヴァリエの肩を掴み、引き止めた。


「…………待て。まあ待て待て、シュヴァリエ。そんなに知りたいなら君だけに、僕の特別講義を聞かせてやろう!」

「いや、別に……」


 全くそんなつもりのなかったシュヴァリエは、ガロワの手を引き剥がして自分の部屋に戻ろうとした。すると今度は、ガロワがシュヴァリエの肩へと強引に腕を回して、どういうつもりか一緒に部屋の中へ入ってくる。

「遠慮するなよ。特別だって言っているだろ! そら、とりあえず君の部屋に入ろう。紙とペンを借りるぞ」




 隣室に、またしても変な奴が住むことになった。

 自分の安住が確保されることはこの先ずっとないのだろうか、とシュヴァリエはひどく憂鬱な気分になるのだった。


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