第十二幕
第49話 悪夢の次年度始まり
「お父様、お母様。私、グレイスは、アカデメイアで一年間の学業を修了してまいりました。こちらが成績表です。星一つの特別な評価も貰ったんです!」
アカデメイアで一年間の学業を修了し実家へ戻ってきたグレイスは、星一つという高評価を得たことを両親に報告した。
満面の笑みでグレイスを迎える父クロード、そして母ナージュ。成績表はクロードからナージュへと渡され、笑顔をこぼしながら中身を読んでいく。
するとどうだろう、ナージュの笑顔は途端に凍りつき、表情は見る見る内に憤怒の形相へと変わり、彼女は震える手で成績表をグレイスに突き返す。
「これはいったいどういうことなのかしら……? 説明してもらえる、グレイス?」
「お、お母様? ですから私はアカデメイアで一年間勉強してきて、試験では星一つをもらって……」
突き返された紙を改めてみると、それは成績表ではなかった。
母ナージュに渡したアカデメイアの成績表は、どういうわけか壊した学校の備品に対する請求書に置き換わっていた。
グレイスが顔を上げて両親の顔を見ると、クロードは引き攣った笑顔を浮かべ、ナージュは真っ赤な顔で怒り狂っていた。
「グレイス……!! ……あなたの一年間の成果はよ~くわかりました!! 罰として鞭打ち五百回です! それから来年度はもうアカデメイアには行かせません! 明日からは家で花嫁修業です、覚悟なさい!?」
言うが早いか、ナージュの手には乗馬用の鞭が握りしめられており、いつの間にかグレイスは木馬に括り付けられて、お尻を丸出しにされていた。
「ひゃあぁあっ!! ゆ、許して、お母様!」
「お仕置きです!!」
頭上高く振り上げられた鞭が大きくしなり、グレイスのお尻めがけて飛んでくる。
「わあぁっ!! ……あ、あ? あー……あ。なんだ夢かー……」
目覚めればそこは広い部屋の一室で、グレイスは簡素な寝台に身を横たえていた。
窓越しに差し込んでくる朝の日差しは眩しく、だがそれは決して清々しいものでもなく。朝の目覚めと共に、グレイスは今朝見たばかりの悪夢を思い出して、底冷えのする胸を掻き抱いた。
その不安を煽るかのように、階下からナージュの甲高い声が響いてきた。
「グレイス! グレイス、まだ起きていないのですか!? 今日は、午前中に礼儀作法のレッスンがあると伝えておいたでしょう!」
あの悪夢は決して大げさな夢ではなかったのだ。
アカデメイアへ入学を果たしてからの一年間、一言では言い表せないほどに充実した生活を送ることができた。
同じ年代の友達がたくさんできた。新しいことを多く学んだ。心躍る冒険もあった。
しかし、この先、何年も続くと思われた生活は、帰郷とともにその望みを絶たれてしまった。
◇◆◇◆◇
「背筋を伸ばしてー、はい一、二、三。一、二、三、そこで振り返って!」
午前中、礼儀作法のレッスンをみっちりと仕込まれた後、軽い昼食をはさんですぐ、午後は歩き方の基礎から入りダンスのレッスンを受けていた。
(……うう、つまらない。こんなこと学んだって、年に数回の社交パーティーで使うかどうかっていうのに……)
一時は、「夢だったアカデメイアに一年間は通えたのだから、親の言う事を聞いて、結婚して腰を落ち着けようか……」とも考えたのだが、日増しに厳しくなる母ナージュの花嫁修業にグレイスは耐えがたい苦痛を感じ始めていた。
アカデメイアでの生活は苦労もあったが刺激的で楽しく、飽きはしなかった。しかし今の生活はグレイスにとって退屈で疲れるばかりの毎日だった。
今日も今日とて眼前に押し付けられる縁談相手の肖像画にグレイスはうんざりしていた。
そのやり取りは一年前、グレイスがアカデメイア入学の意思を表明したことで口論になった時の再現のようであった。
「この方はどうかしら? 子爵位で領地を管理してきた経験もあるみたいよ」
「年齢高すぎます。はっきり言って不細工だし」
肖像画でこの水準では、実物がどれほどか知れるというものである。アカデメイアで大勢の同年代男子に囲まれていたグレイスとしては、二回りも年齢の離れた中年男性など魅力を感じられなかった。
「じゃあ、この方は? 男爵で領地は小規模の荘園ですけど、若くて年齢も近いわ」
「……教養が低くて、頭悪そうです。性格は強気で一度決めたことはやり通す、って情報ですけど、他人の意見に聞く耳持たない性格なのでは? そんな相手と、とてもうまくやっていけません」
領地も大して持たないのに、学がなく、他人の助言も聞けない性格では将来が危うい。
若いだけでいいのなら、教養に優れて、それなりに容姿の良い人物は大勢いる。
領地や爵位に拘らなければ、例えば……。そこまで考えて、グレイスの脳裏にはふとシュヴァリエやシャンポリオンといったアカデメイアで出会った男子学生が思い浮かんでしまう。
(いやいや! シャンポリオンにはエミリエンヌがべったりだし、シュヴァリエなんて私に興味もないだろうし、実際にはあり得ないんだけど! ……でも、この縁談よりはねぇ……)
グレイスは大机の上に散らばった縁談話の書類を見て溜め息を吐いた。その様子を見たナージュがぴくりと眉を吊り上げる。
「……グレイス……。あなたは、あなたはね、夢を見すぎです!!」
ぴしゃりと、激しい口調でグレイスを叱咤するナージュ。この剣幕にグレイスは自身の不満も忘れて母親の目を見た。
ナージュの目は……涙に濡れていた。
「……やっぱり、アカデメイアになんか行かせるべきではなかったんだわ……」
か細い声で呟くナージュの言葉に、グレイスは表情を凍りつかせた。唇を
「それは……どういう意味ですか? お母様……?」
聞き捨てならなかった。
今回の縁談とアカデメイアに一体何の関係があると言うのか。いや、グレイスにもわかっていた。大いに関係がある。しかし、認めたくはなかった。
「……アカデメイアの一年があなたに未練を残しているのでしょう……?」
結婚をしてしまえば、アカデメイアに戻ることはできない。女は家に入り、夫の為に尽くすのだ。
アカデメイアで友人と笑い、勉学に勤しむ。
――そんな機会は、今後一切ない。未練が残らない筈はなかった。
「でもね、アカデメイアで勉強をするなんて……最初から夢だったのよ? 一時の夢。もう夢を見るのは終わりにしなさい」
(……終わり? たった一年で? また会おう、って約束したのに)
アンリエルやベルチェスタと、シュヴァリエやシャンポール、エミリエンヌにだって会いたい。
……グレイスの思考は支離滅裂になっていった。
「運良く入学試験に合格はしたけれど、この先、あと何年アカデメイアに通うつもりなの」
(――そんなの決まっている、卒業するまで)
そう思ったグレイスが何か言う前にナージュは続けて言葉を被せてくる。
「仮に卒業したとして、あなたその時には年齢が幾つになっていると思うの? 順調に卒業できても五年後……。その時になって、取り返しのつかない無駄な時間を費やしてしまったと、後悔して欲しくはないのよ……」
…………。
「後悔なんて……しない。……そう。私、後悔はしたくない。……未練も残したくない。だから、五年後の将来なんてわからなくても! それでもアカデメイアに行きたい! アカデメイアに行く!!」
「グレイス……」
ナージュに向けて、思いの丈をぶつけた。黙って、想いを呑みこんでこの先を生きていくことなどできなかった。
「やっぱり……そうだったのね……。アカデメイアに強い未練を残していて……だから縁談にも乗り気じゃないのね……」
あきらめきれない未練なら当然のようにある。
妥協しようとしたけれど駄目なのだ。
「わかって! お母様!! 私はっ、夢を夢のまま終わらせたくない! やっと希望が見えたの! アカデメイアでの勉強は大変で、この先もどうなるかわからないけど! その先には必ず、私の未来があると思うの!!」
「ええ……グレイス。わかってはいたわ……あなたの気持ち。それでも目を覚ましてもらいたくて、未練を断ち切ってほしくて、わたくしは縁談を薦めていたの……。でも、無駄だったようね……」
「母様……わかってくれた?」
がっくりと肩を落としたナージュの姿に、グレイスは一片の期待を見出した。だが、ナージュは悲しげに目を細めると、娘に向ける目にしては酷く冷たい視線を送ってくる。
「ええ、わかりました。よくわかりましたよ、グレイス。――そうなると、あなたには別の方法で自分の立場を自覚してもらうしかないのね……残念だわ」
「?」
「来なさい、グレイス。お父様の書斎へ」
ナージュの後をついて、父クロードの書斎へと足を踏み入れる。
そこには所狭しと積み上げられるようにして、古今東西の貴重な文献の数々、高価で高度な専門書の類、仕事に必要な医学書や化学書や諸々の書物等が……なかった。
「あ……れ?」
確かに以前、書斎を覗いたときは床に足の踏み場もないほど本が積み上げられていたのに、今の書斎には所々空白のある棚に並べられた程度の本しかない。
「あなたがアカデメイアで起こした事故の賠償金。そのお金を立て替えるのに、あなたのお父様は、クロードは……ご自分の大切な蔵書を何十冊と売ることになったのですよ?」
「……え」
「事は単純にお金の問題というだけではありません。数々の貴重な本、一度売ってしまえばもう二度と手元に戻ってくることはないのです。全てを買い直すのは不可能でしょう。既に絶版となっている書籍もあったでしょうから」
ナージュは残された数少ない本を手に取りながら、棚の空白を寂しげに見つめていた。
グレイスは何も言葉にできず、立ち尽くすことしかできない。不意に振り返ったナージュと目があって、グレイスは思わず一歩後ずさってしまった。部屋の壁にとんと背中がぶつかった。
「これだけの責任……あなたに取れますか? グレイス?」
「わ、私は……。私、には……」
目の前の閑散とした風景がグレイスに現実を突きつける。悪い夢なら醒めてほしい。
……だがこれは、夢などではない。グレイス・ド・ベルトレットは事実、取り返しのつかないことをしてしまった。
彼女はようやくそのことを、本当の意味で自覚したのだった。
◇◆◇◆◇
クロードの書斎を見てしまってから、グレイスは花嫁修業以外の時間はずっと部屋の中で塞ぎ込んでいた。
もうすぐ、アカデメイアでは次年度の始業式だ。しかし、グレイスはアカデメイアへ行くことはできない。アンリエルとベルチェスタに約束を破って申し訳ないと伝えなければいけなかった。手紙が涙で滲む。
「嫌だよ……。もう一度、皆に会いたい……。アカデメイアで一緒に勉強したいよ……」
仲良くなった友人と会いたい。
アカデメイアで学びたいこともたくさんある。
まだ、全然足りていない。それなのにたった一年で――。
深夜、枕を涙で濡らしていたグレイスは、深い悲しみのあまり寝付くこともできずにいた。
ランプに火を灯して、ただじっと揺れる炎を眺める。
断ち切らねばならないとわかっていても、アカデメイアへの未練が消え去ることはない。火を消すように一度抑え込んだ感情は、それでも心の奥底で
(また黙って出ていく……? 駄目、父様にあんな迷惑をかけておいて……)
グレイスが思考の闇に沈み、ベッドに腰かけ
「……グレイス。……グレイス、起きているかい?」
「父様……?」
戸を開けると、そこにはやや緊張した面持ちのクロードが立っていた。
「静かに、大きな声を出さないで……」
「父様? こんな夜更けにどうしたの?」
「グレイス、旅装に着替えて荷物をまとめなさい。なるべく静かに、手早くね」
部屋の廊下に立ったままのクロードは注意深く戸を閉めると、「早く、早く」と戸の外から小声でグレイスを急かした。
グレイスはクロードの真意がさっぱり掴めなかったが、荷物をまとめるとは家出したときのように準備をすることだろうとは思い至った。考えがまとまらないままグレイスは着替えを済ませ、一年前に家出した時と同じ荷物を抱えて廊下に出た。
「ねえ、父様これは……」
「今は声を出さないで。外に出るよ」
グレイスはクロードに促され、一緒に屋敷の外へと出る。時間は深夜、外はまだ暗く月明かりが辛うじて足元の道を照らしている程度だ。
「いいかい? 馬は使わずに、できるだけ静かに家を離れるんだ。東へ、林の中を少し進んだ場所に馬車を用意してあるからね。そこまで一緒に行こう。それで、その馬車に乗って……後は一人でグルノーブルまで、行けるね?」
クロードの言葉にグレイスは息を呑んだ。驚きと同時に一瞬の喜び、そして耐え難い罪悪感が後から襲ってきた。
「でも……そういうわけには……」
「いいんだよ無理しなくても。グレイスの好きなようにしていいんだ。まあ……元々、グレイスがアカデメイアに興味を持ったのも僕の話がきっかけだったわけだし、それにグレイスが自然科学に興味を持ってくれたことが僕は素直に嬉しいんだ。応援したいんだよ」
そう言ってクロードは、アカデメイアの学費と、とりあえず一ヶ月分の生活費を渡してくれる。
こんなお金をどこから用意したのか。
決まっている、蔵書を売るなりして用意してくれたのだ、グレイスの為に。
林の中へ少し入ったところに、一台の馬車が停まっていた。
クロードはグレイスを馬車の中へ押し込むように背中を押す。
グレイスはまだ今の状況が信じられず、クロードに何も言葉を返すことができないでいた。
「出してくれ」
馬車の扉が閉められ、クロードが御者に出立をお願いすると、馬が静かに歩きだして馬車は林の中の小道をゆっくりと進み始める。
徐々にクロードの姿が遠ざかっていく。
クロードはいつもと変わらない優しげな表情で見送ってくれていた。
グレイスは思わず馬車の窓から身を乗り出して、遠くなっていく父の姿に精一杯の声で呼びかけた。
「お父様! ごめんなさい!! 私の所為で大切な御本を……!!」
クロードはグレイスが窓から身を乗り出したことに一瞬だけ慌てた様子を見せたが、すぐに元の優しい笑顔に戻ると馬車を追いかけるように走りながら、グレイスに向けて声をかける。
「心配しないでグレイス! 親というのはね、子供に対して責任を負うものなんだ! だから、僕は平気! グレイスがアカデメイアで、自分の夢を実現してくれるなら、僕は喜んで自分の私財を投げ出すからね!」
嘘偽りのないクロードの本心が伝わってきて、グレイスは救われた気持ちになった。申し訳ないけれど、ここは素直に甘えさせてもらおうと思った。
「思う存分、アカデメイアで勉強して来るんだよー!! 頑張って、そして何より楽しんで――!」
走り出した馬車はクロードをあっという間に引き離していく。
深い闇に沈んだ林の中では、すぐにクロードの姿は見えなくなってしまった。
だが、それでもグレイスは、暗闇の向こうからいつまでもクロードの暖かな眼差しが向けられているのを感じていた。
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