第35話 カジミールの手紙(4)

 前期研究発表会の日。発表会場の一角に机が一つ設けられ、蓋のついた小さな鍋が幾つも並べられていた。その一番左に置いてあった鍋を手に取って蓋を開けると、途端に食欲をそそる好い香りが会場の一角に漂い始める。


 隣で発表をしていたカジミールは、ちらちらとそちらに視線を送っては生唾を飲み込む。

(……そういえば、発表の準備が忙しくて昨日の晩から何も食べていなかった……)

 ベルチェスタは『クリームポトフの腐敗過程に関する考察』と題して、化学と物理学に精通したドルトン教授を前に発表を行っていた。


「実験用として分量は少なくしてありますが、クリームポトフの材料は一般的な肉、野菜類の使用を想定して作っています。牛乳、バター、小麦粉で作ったソースの中に、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、豚肉を一欠け入れてあります」


 突然始まったベルチェスタの家庭料理講座『美味しいクリームポトフの作り方』に、カジミールは思わず、自分の発表のことも忘れて涎を垂らしていた。

 だが、ベルチェスタの発表は徐々に方向性が怪しくなってくる。いや、本題に入ったというべきか。


「こちらはまず、特に手を加えずに放置したクリームポトフです……。一日目、三日目、五日目と時間を置くに従い、カビの発生とその増殖が見られるようになります。……あー……あ! え……と、特に、七日目以降のカビの増殖には著しい進行が見られます」

 並べられたポトフの鍋を次々と開けていくに従い、美味しそうだったポトフは黒い点のようなカビに侵されていく。


「え、えーと……一方、これらの隣に並べたものは同じ鍋で作られたポトフで、一日毎に火を通しています。こまめに火を通したものは七日を過ぎてもカビが発生しませんでした。あ、ちなみに何も手を加えなかった、放置されたポトフは三日目でカビが発生しています!」

 おいしそうに作られたクリームポトフが勿体無い、と感じてしまう。


「その後の腐敗速度も定期的に火を通しているクリームポトフはカビの増殖が遅かった、です。えー……、こ……ここでっ、一五日目のものについて二種類のポトフを比べてみますと……」

 一方は、やや大きな黒い斑点が見える。これは、火を通していたものだ。逆に火を通していなかった方は……。

「ぬう……。これはまた……」

 ドルトン教授は顔を歪めて唸り、目の前の物に対して体を引いた。ポトフのソースや野菜の上に、もっさりとしたカビの集合塊が青緑色の花を咲かせている。


「更に、二〇日なりますと……!」

「ぬぬっ……!」

 火を通している方もさすがにここまで来ると、黒い斑点に加えて、白かったソースが黄ばんでしまっていた。しかし、火を通さず放置したポトフの方は、そんなことすら問題としない程の異様な変貌を遂げ、かなりきつい酸味の利いた臭いを撒き散らしている。


 当然、隣で発表を行っていたカジミールの元にも酸味の利いたきつい臭いが漂ってきた。

(……あうぐっ! き、きつい、この臭いはちょっと……た、耐えられな――)


 カジミールは、こみあげる吐き気を抑えきれず、「うっ……」と口元を手で押さえながら試験会場の外へ飛び出す。会場の入り口で耐えられなくなったカジミールは、吐き出す物も何もない空っぽの胃から、喉を焼く胃酸を吐き出してしまうのであった。

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