第36話 カジミールの手紙(5)
前期研究発表会では今ひとつの成績であったカジミールは、挽回を目指すべくネヴィア鉱山へと動植物や昆虫の野外調査に出向いていた。
山へと分け入るに従い、木々の密度が濃くなって、生い茂る草木も湿気を帯びてくる。遠くで獣の遠吠えが聞こえてきて、カジミールは体を硬直させた。
「ど、どうしよう、獣とか出るのか……。何の対策もしてこなかった……」
一旦戻ろうか、そう考えた瞬間に藪の中から幾匹もの野犬が飛び出してくる。
「うわぁ! わぁあああ!」
みっともなく叫びながら、カジミールはその場にしゃがみ込んだ。だが、野犬の群れはカジミールには見向きもせず通り過ぎていく。
「へ? な、何だよ脅かして。ふん、あいつら臆病だな。一体、何から逃げ出して……」
一体、何から逃げ出してきたのだろう。
あれだけの数の野犬が、わき目も振らず逃げ出す相手とは?
「く、熊かな? それとも何か別の……」
野犬の群れが尻尾を巻いて逃げ出す相手である。何者であろうとカジミールが一人でどうこうできるものではないと思われた。
恐怖で足が竦む。それでも、早くこの場から離れなければいけない。きっと、その何者かはすぐそこまで迫ってきているのだろうから。
――ふしゅ。と、乾いた音を立てて何かがカジミールの首筋に巻きついてきた。
真っ黒で、長い物体。先端はやや丸みを帯びて、親指くらいの太さを持った紐状のそれは、カジミールの首を絞めようとゆっくり巻きついた輪の直径を縮めていく。
「――う。うあぁああああ!」
大蛇だと思った。無我夢中でそれを引き剥がし、方向も確認せずに森の中を走り出す。枝に頬を引っ掛けても、樹木の根っこに躓いても、がむしゃらに走り続けた。とうとう大木の一つに顔面をぶつけ、走るのを止めたとき、辺り一面はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
二、三日ほど森の中を彷徨い続け、ようやく自分の位置が把握できる地点まで辿り着いたカジミールは、遅れていた野外調査を本格的に始めていた。
その最中、カジミールの顔面に小さな虫がぶつかってきた。
「あ、痛い! なんだ? 顔にぶつかって……ん、カナブンか――あれ?」
確かにそれはカナブンだったが、妙なのはそれが羽も広げず空中に浮いていることだ。よく見れば木の枝に紐で吊るされている。
(
周辺を見渡せばあちこちに、生きたまま紐でぶら下げられた昆虫がいた。
(こんな器用なことできるのは人間くらいか……。だけど、何の為に……? ま、まさかこれ……呪いの儀式とか!?)
一体何の目的でこんなことをするのか、カジミールには呪術の儀式とか突拍子もない発想しか思いつかなかった。
「とりあえず、かわいそうだから逃がしてあげよう」
不気味ではあったがそのままにもしておけず、カジミールは昆虫たちの紐を丁寧に解いてやるのだった。
紐で括られていた昆虫の最後の一匹を逃がした直後、藪から飛び出してきた小さな影が紐から開放されたばかりの虫に飛び掛り、一口で丸呑みにしてしまった。弱肉強食、これが自然の掟というものである。
しかし、いきなりの闖入者に、カジミールは全く別の点で驚いていた。それは金属光沢を帯びた青緑色の鱗を持つ動物、ホウセキオオトカゲの幼獣であった。
「こいつは! め、珍しい! この山に生息していたのか! よ、よーし、に、逃げるなよぉ~」
じりじりと間を詰めながら、トカゲを捕獲せんとするカジミール。けれども、勘のいいトカゲは素早く森の中に身を躍らせ、走り去っていってしまう。
「ま、待て待てー! 逃がさないぞ!」
その日は暗くなるまでトカゲを追い掛け回したが、日が落ちてから見失ってしまっては再度見つけるのは困難であった。結局、次の日は雨が降り出してしまい、野外調査はできず。それでも諦めきれずに、雨上がりの森をトカゲを求めて彷徨っていた。
そして、迷った。
「ど、どうしよう。ここ、どこなんだろ? どこで、位置を確認できなくなったんだ?」
半泣きになりながら、何か目印になる地点に辿り着けないかと、山の中を登ったり下ったりして、とにかく前へ進み続けた。その日は丸一日迷い続け、日が落ちても自分の現在地を把握することはついにできなかった。
「絶望だ……。僕はここで遭難して死ぬんだ……」
日の落ちた森の中を、力ない足取りでただ闇雲に歩いていた。山を下っていたつもりがいつの間にか上り坂に囲まれていたり、完全に迷っていた。
もう終わりだ、と諦めて近くの岩に腰掛けたカジミールは、風のやんだ静かな森の中に微かな人の声を聞いた。
「……おぉー……ぃ……。……おぉー……ぃい……!」
一歩も動けないと思っていた足で立ち上がり、声のする方向へ全力で駆け出す。すると、登り坂を上がったその眼下に
「人だ! おーい! 頼む! 気がついて! 僕はここにいる! 遭難者がいるんだ!」
明かりに向かって駆けていったカジミールは、森の中から不意に浮かび上がった橙色の顔に驚き、腰を抜かした。
「ぎゃあ! 化け物!」
「あんだってぇ! 誰が化け物だ! ん? んん!? あんた、カジミール?」
「ベルチェスタ? や、やあ、こんな所で奇遇だね?」
夜の闇に顔だけ浮かび上がって驚いたが、正体は学友のベルチェスタであった。親しい友人とまではいかないが、半年以上も経てばそれなりに交流も生まれる。
「あんた、何でこんな所にいるのさ? 捜索隊に加わっていたわけでもないだろうに?」
「捜索隊に加わる? え? あ、僕を探しにきたわけじゃないのか……」
考えてみれば、森へ来ることは他の誰にも言っていない。一週間程度、学院で姿が見えないからといって、それで森まで捜索隊が来るとは考えにくい。
「え、と……捜索って、誰を探しに来たんだい?」
心に余裕の生まれたカジミールは、自分が遭難していたという恥ずかしい事実は伏せて、あくまで山を下りる途中だったのだと自分の立場を置き換える。
「グレイスとアンリエルの二人を探しに来たんだよ。予定の日を過ぎても帰ってこないからさ。心配で、学院長に相談したら、捜索隊を出してくれたんだ」
「へえ。何だか大変なことになっているね」
「他人事じゃないだろ。カジミール、あんたも気をつけな。ここいらの山ん中には、猛獣が出るらしいからね」
「猛獣!?」
「ああ、さてはあんたも知らないで山に来たね? 学院で猛獣注意の掲示が出ていたんだよ。ま、実を言うとあたしも知らないで、二人を送り出しちまったし……。無事でいてくれるといいんだけど」
学院の掲示では『猛獣注意:ネヴィア鉱山へ野外調査に行く学生は、予定を二カ月先まで延期するように』との報せが出ていた。そんなこととは露知らず、カジミールは山奥へと足を踏み入れていたのだ。
「猛獣……」
「とにかく、危険だからさっさと山を下りな。あたしはこのまま捜索隊と一緒に山の中腹辺りまで行くからさ」
「あ、うん……。気をつけるよ」
ベルチェスタを見送ってからしばらく、松明の火が徐々に遠ざかるのを見てカジミールは慌てた。捜索隊に出会って安心していたが、カジミール一人では帰り道もわからなければ、猛獣に遭遇しても対処できない。
「ま、待ってくれ! 僕も捜索隊に参加するよ!」
それから夜明けまで捜索が続けられ、遭難していた二人の女子学生は発見された。そして、カジミールもまた無事に山を下りることができたのだった。
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