第25話 真っ暗な穴の奥底で

 ふぅ……っ……と、アンリエルは力を抜き、洞窟の壁に背を預ける。


「先へ行ってください……。このままでは二人ともアレの餌食になってしまいます……」

 諦めた。その決断は早かった。元より、未来を諦めた人生だった。この先どこかで死ぬにしろ、ここで命尽きようと、アンリエルには大差ないと思えたのだ。


(……獣の牙で噛みつかれるのは痛いのでしょう。けれど、この先ずっと緩やかに苦痛を味わいながら死んでいくのも、一時の強烈な痛みを受けて死ぬのも、痛みの総量で言えば同じなのかもしれません。ならば私は……)


 もう、すぐそこまで例のオオトカゲは迫ってきていた。


「アンリエル!? 早く! 立ち上がって走って!!」

 グレイスは悲痛な叫びを上げながらも逃げ続けていた。とにかく走って逃げることに精一杯で、振り向く余裕もないのだろう。


 ――いや、彼女はもう振り向いてはいけない。振り向けば見てはいけない光景が見えてしまう。無抵抗の乙女を、その柔肌を、服の上から爪で引き裂き、凶悪な顎でもって骨ごと噛み砕くその光景が。


 ……アンリエルは気丈にも悲鳴はあげなかった。迫りくる死の瞬間を、目をつぶって待っていた。だが、一向に訪れない死の痛み、永遠にも近く感じる間。


 だから気になって、アンリエルは目を開けてしまった。


 オオトカゲはアンリエルから二、三歩程の距離にいた。思わず呼吸が止まる。


 そして、アンリエルが悲鳴を上げる間もなく、オオトカゲは彼女の目の前を通り過ぎていった。坑道の壁にもたれて座り込んだアンリエルには見向きもせず、蛇行しながらもオオトカゲはグレイスに向かって突っ込んで行った。


「あ、あれ? 私の方に向かって来る? ななななな、何でー!? ええええぇ……!!」

 薄暗く、細くて長い坑道にグレイスの絶叫が響き渡った。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 オオトカゲが走り去った後、アンリエルは壁に寄りかかりながら、消えてしまったランプの炎を再び灯した。

「生きているのですね……私は」


 アンリエルはポッケの中から胡椒の入った小さな袋を取り出して見つめる。

「嗅覚を潰されても暗闇の中で私達を追うことができたのは、音を頼りに動いていたわけですか……。グレイスにも伝えられれば良かったのですが……」


 グレイスを猛追して、はるか遠方に走り去っていくトカゲの尻尾を眺めながら、アンリエルは呆然と座り込んでいた。しばらくして、自分の頬が水で濡れていることに気付く。

(あ……涙。これはどういう……?)

 砂埃で白く汚れた膝に、ぽつぽつと滴り落ちる雫。


 何も見えない暗い坑道を眺め、その涙の理由に思い至ったアンリエルは酷い自己嫌悪に苛まれた。

「私は……本当に薄情な人間です。グレイスが死の危機に瀕しているというのに――」

 アンリエルの心を満たしていたのは、一人助かった罪悪感でもなければ、友への心配でもなかった。これまでの人生で、ただの一度も思わなかったこと。


(――今、生きていることが嬉しいなんて――)


 体は死の恐怖に晒され震えていた。なのに、顔には自然と笑みがこぼれていた。

 坑道の闇は深い。あるいは洞窟で迷って、脱出叶わず力尽きるかもしれない。だが、今更になって絶望はしなかった。望みなど疾うに捨てている。

 それでもまだ、意地汚くも生きることに執着しているこの足は、痛みに耐えて立ち上がり、歩き出そうとするのだ。


「死ねません。まだ、まだ……」

 自分の中に、はっきりと見出した生への渇望。


 自分勝手な我が侭で廃坑に潜り、巻き込んでしまったグレイスには悪いと思った。しかし、人生で初めて『生きる』ということを学んだアンリエルは、坑道の出口に向かって一歩一歩進み始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る