第21話 穏やかな山麓

 森を抜け、開けた場所を見つけた二人は、日が沈む少し前には野営地を決め、テントを張り終わって一息入れていた。


 ――カッ、カッ……。石と石を打ち鳴らす音。

 川原から拾ってきた白い半透明の石。石英の一種であるその石は、打ち合わせるたびに火花を散らし、やがて掻き集めた枯れ草に火をともす。


 闇に沈んでいた森の風景が、炎の明かりに照らし出される。陰影色濃く浮かび上がったのはアンリエルの横顔。焚き火の方に向けられた目は、今にも閉じてしまいそうなほど眠たげだった。

「アンリエル、紅茶飲む?」

「……あ。紅茶ですか……? ええ、頂きます……。……お湯はあるのですか?」

「その為に火を起こしたんだよ?」


 くすり、と笑って、火の上に湯沸し用の鍋を置く。鍋の中には川の清流から汲み上げてきた水が入っている。一応、川砂と植物繊維セルロースの濾紙を使って濾過した水だ。後は煮沸してやれば飲み水としても問題ない。


「……それで、明日からはどうするのです? 例の物を探す当てはあるのですか?」

 紅茶を飲んで目が冴えたのか、アンリエルが明日の予定を訊いてくる。

「とりあえず明日はこの近辺で探してみようと思っているよ。一日、探してみて駄目だったら……、もう少し森の奥にテントを移して探すつもり」

「そうですか。では私も植物の観察ついでに、グレイスの探し物を手伝うとしましょう」

「うん! ありがとう、助かるよ! 明日はよろしくね。さ、もうそろそろ寝ようか」


 火を消して、二人はテントの中にある寝袋にもぐりこむ。狭いテントの中、二人並んで横になると顔がすぐ間近にあって、やや気恥ずかしさを感じた。

 テントの中は真っ暗だったが、目が闇に慣れてくると隣で寝ているアンリエルの顔もうっすらと見えてくる。生地の薄いテントなので月明りが差し込んでいるのだ。


 隣からは、すぅー……っ。すぅーっ……。と規則正しい寝息が聞こえてくる。

(――ふふ、もう眠っている。よっぽど疲れたんだなぁ……)

 夜の森は不気味なほど静かで、虫の音が遠くに聞こえてくる他は、木々の葉が風で揺れて擦れ合う音が不定期に聞こえてくる程度である。そして隣ではアンリエルが可愛らしい寝息を立てている。


 すぅー……。すぅ……。す――。す……。………………。


 いつの間にやら、寝息が聞こえなくなっていた。ちょうど虫の音も、風の音も聞こえなくなって、長い沈黙と静寂が訪れる。長い、あまりに長い、息の詰まるような沈黙。


 ――違う。比喩ではなくて、これは本当に息が詰まっている。


 グレイスは以前にアンリエルが話していた持病の事を思い出した。


『……持病の水妖精呪縛症候群オンディーヌ・カース・シンドロームです。睡眠時において呼吸不全に陥ることがある疾患です。私の場合、生命の危機へ至る前には大抵、目を覚ましますが』


 前にも似たような事があって、その時は本人も大丈夫と言っていた。しかし、あの時と今では環境も状況もだいぶ違う。それに息の止まっている時間が、前に見たときと比べ少し長すぎるような気がした。

「ちょ、ちょっと、アンリエル! 起きて! 呼吸が止まっているよ、呼吸が!!」

 くっ、という鼻を鳴らす音。アンリエルの小さな胸がぶるっと震え、肺は規則正しい上下の運動を再開した。


「……ん。グレイス……? どうしたのです……? まだ朝ではないでしょう……」

「いや、そのね……。アンリエル、平気なの……? 呼吸が止まっていたけど……」

「……問題ありませんよ……。いつものことです……。それより……静かに寝かせてください……」

「本当? 本当に大丈夫!? 朝、私が起きたら隣で死んでいたりしない?」

「大丈夫……大丈夫ですよ……。大……丈夫……」

 それきり返事をしなくなり、再びアンリエルは眠りについた。


 グレイスもそれ以上、騒ぎ立てるわけにもいかず、注意深くアンリエルの様子を見ながら自分も寝ることにした。

「す――っ。く――っ……。くーっ……。ぅくっ……………………」

「ひぃ……!?  ……ま、また……」

「………………。……ぷふーっ…………。ふー……。すー……。く――っ……」

 その後も断続的に呼吸の停止と再開は繰り返され、ネヴィア山麓の森の夜はゆっくりと穏やかに過ぎていくのだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 空が白み、テントの薄生地を通して朝の光が差し込んできた。テントからのそのそと這い出し、ほのかに霧のかかった森の中で大きく伸びをする影が一つ……。


「心地よい、清々しい朝です。昨晩は思いのほか気分よく寝られました。野宿など初めての経験でしたが、グレイスはしっかりと眠れましたか?」

「……うぅ……。私は結局、一睡も出来なかったよ。いつ、アンリエルの呼吸が止まるかと心配していたら朝に……」

 もう一つ、テントから這い出してくる人影は、目の下に隈を作ったグレイスだ。


「本当に心配性ですね。大丈夫ですよ、一度や二度、呼吸が停止したところで死ぬことはありません」

「一度や二度じゃないんだもん! あれから朝までに十回は呼吸停止していたんだから! ちなみに最長記録は一分四五秒だったよ!?」

「……数えていたのですか? どうやら本当に一睡も出来なかったようですね……」


 アンリエルが呆れ顔で溜め息を吐く。元凶は彼女だというのに、当の本人は昨日の疲れも吹き飛んだ様子で、今は火打石ひうちいしを使って火起こしに挑戦しようとしている。

「……もう少しっ、ん。寝ていては、どうです、かっ……? ……ふん? 火が点きませんね……。枯れ草が湿っているのでしょうか……」

「うーん……。じゃあね、あと一時間だけ……くあぁ……寝させてー……」


 グレイスは大きくあくびをしながらテントの中に戻っていった。既に辺りは明るくなっていたが、朝になってようやくグレイスは一時の安眠を得ることができたのだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇


「……く、か――……。んう。……ん? はっ……!! 今、何時!?」

 一時間、と言ってすっかり寝こけてしまった。慌ててテントから飛び出すと、外は既に真昼の様相。漂っていた霧は晴れ、太陽は天辺まで昇りきっていた。


 木々の葉をすりぬけた日差しが、森の中に小さな日溜りを幾つも形成している。その中の一つに、風変わりな少女の姿が照らし出されていた。

 画板を膝に乗せ、植物を前にアンリエルがデッサンをしている。いつの間にか探検帽がベレー帽に変わっていた。帽子を変えたのは単に気分の問題なのだろうが、意外とそれらしい雰囲気を漂わせながら、黙々と石墨を紙の上に滑らせている。


 こっそりとアンリエルの後ろに回り込み、デッサンの様子を見学してみる。

「……わ、上手い……。それに……早っ……」

 アンリエルの石墨を握った白い指が、細かく左右に振動しながら移動していく。その華奢な指が通過した後には、美しいまでに精密な植物の絵が出現していた。


 背景は真っ白。ただ、目標と定めた植物単体が、まるで白い土の中から生えてきたかのように、紙の上で活き活きと躍っている。

 この作業にグレイスは感心して、思わず見惚れてしまっていた。同じ紙にニ、三本、草や花の絵を更に描きたし、一区切りついたところでようやくアンリエルは手を休めて後ろを振り返った。


「どうやら睡眠は十分に取れたようですね。さて……ちょうど正午になりましたから、行動を起こす前に食事としましょうか?」

「あっはは……。早く起きたのに二度寝して、お昼になっちゃった。ごめん!」

「気にすることはありませんよ。グレイスはよく寝ていましたので、敢えて一時間で起こすこともないだろうと声をかけなかったのです。ほら、このように涎を垂らして実に幸せそうな顔です」

 そう言いながら差し出された一枚の画用紙には、口を半開きに至福の表情で涎を垂らすグレイスの寝顔が描かれていた。


「はひぃー……!? は、恥ずかしすぎる、この顔! だ、駄目! それ没収!!」

「そうはいきません。これは傑作です。後でベルチェスタにも見せなくては」

「ううぅ……やめて~……、笑われちゃうよぉー……!」

 あまりに現実味溢れるタッチで描かれている為、それが本物の顔であると認識させられる。必死に自分の寝顔を取り戻そうと、耳まで真っ赤にしながらアンリエルを追いかける。


「……仕方がありませんね。そんなに欲しいのならば『もう一枚』描いてあげますよ」

「え? わ! わー! 嘘! 何描いてるの!? ああ!? 同じ顔がもう一枚……!」 

 アンリエルはさらさらと指を動かして、グレイスの寝顔の絵を複製してしまう。

 よもや、これほどまでの腕とは。アンリエルの画才は十中八九、天才と言って良い水準にあった。


「あうう……信じられない……。なんでこんな絵が描けるの? これだけ絵の才能があるなら、芸術アカデミーの学校エコール・デ・ボザールに入ればいいのに……」

 更に脚色をつけて描かれる、あられもない寝姿の絵を手に、グレイスはがっくりと膝をついてアンリエルの前に屈したのだった。

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