第8話 水妖の呪縛
深く、深く、沈んでいく。闇の広がる水底へと。
青い腕が喉へと絡みつき、呼吸を阻害する。
それはさながら呪詛のように、怨嗟を伴って生者を死の淵へと引きずり込む。
(……ここは……どこでしょう……? どこへ、向かうのでしょう……)
酸欠が意識の覚醒を妨げ、朦朧と夢現を行き来させる。息苦しく、しかし決して目が覚めることはなく、どこまでも深く沈んでいく。
(……息ができません。水の中……? ……溺れてしまう……。……早く、水面へ……)
目の前には確かに、光の揺らめく水面が見える。しかし、手を伸ばしてもがけど一向に体は浮き上がらず、青い腕が喉と腰とに巻きついて放さない。
(――ああ、駄目なのですね……。今度こそ、この腕は私を逃してはくれない……)
何の根拠もなく不意に死を悟ってしまい、抗う努力をやめてしまう。いつまでも苦しみが続くだけの人生なら、このまま死んでしまうのも悪くない。
ぼんやりとした意識の中で、徐々に遠く離れていく水面を眺めながら考えていた。
(…………。あの水面の先には、何があるのか……。いつもながら気になりますね……)
もう一度だけ水面に向かって手を伸ばした。
途端に揺らめく光は消え去り、辺りが真っ暗な闇に閉ざされる。代わりに、それまでの息苦しさは全てが夢であったように消え失せていた。
「いえ……いいえ……。夢、でしたか……」
暗い部屋の中でベッドから身を起こす。
頭が重く、鈍い痛みがじんわりと伝わってくる。しばらく深呼吸を繰り返していると、時間の経過と共に頭痛は引いていった。
持病の発作が出た後は、いつもこんな不快な気分に悩まされる。一度、目が覚めてしまうとしばらくは寝付けなくなるのだ。
部屋の中には夜の冷気が満ちており、毛布を被っていても震えを止めることができない。
アンリエルは火の落ちた暖炉に新たな薪を入れ、ランプから火を移した。二度、三度、点火を試みたが火は燃え上がらずに消えてしまう。面倒くさくなって油を少し垂らしたら今度は勢いよく燃え始め、ほどなく部屋の中は温まった。
燃え盛る暖炉の炎を見つめながら、アンリエルは先ほどの夢を思い返していた。
(……今回の悪夢は長かった。毎回、悪夢を見る時間は長くなっている気がします……)
その度に、目覚めの時の頭痛も酷くなっており、いつかは目覚めることなく永遠の眠りにつくか、あるいは頭痛で気が狂ってしまうか、いずれにせよ病魔が自身を確実に蝕んでいるのは疑いようがなかった。
(今更ですね……。全ては死を迎えるまでの退屈しのぎ。その為に、無理を承知でアカデメイアへ来たのですから)
死の恐怖も、生への執着もない。ただ今を快楽的に過ごせれば良かった。その点で、今の日々は何もかもが新鮮で、愉快で、退屈はしなかった。
机の上に積み上げられた本へと手を伸ばし、暖炉の火を明かりに頁を捲る。アンリエルは次第に本の世界へと没頭していった。
◇◆◇◆◇◆◇
夜の学院寮は静かだった。
この時期、アカデメイアはまだ休講期間中で、在学生は冬の終わりまで故郷で過ごすのが一般的である。一方で、この期間は新入生にとっては準備期間となっている。
幾つかの部屋には新入生が既に入居しているはずだったが、皆寝静まっているのか物音一つ聞こえない。その中で唯一、扉の隙間から光の漏れている部屋がある。一〇九号室、アンリエルの部屋であった。
その部屋の前に人の立つ気配がして、アンリエルは本から顔を上げた。
――やや間があってから、遠慮がちに戸を叩く音。
深夜の時間帯に部屋を訪ねられるというのは、常識ある淑女であるなら警戒を厳にするところだろう。しかし、アンリエルは深く考えもせず扉を開いた。ここアカデメイアで、自分を訪ねてくる可能性のある人物には一人しか思い至らなかったからだ。
「……どうしたのです、グレイス? こんな夜遅くに訪ねてきて」
扉の隙間から漏れ出る光が暗い廊下を満たす。グレイスは就寝用の薄着の上に毛布を巻きつけた格好で現れた。学院寮の中とはいえ、あまり部屋の外をうろつく服装ではない。
当のアンリエルも部屋を暖かくした後は下着で寛いでいた。貴族のお嬢様としては目も当てられない姿だったが、お互い様であるようだし別段気にすることもなかった。
「ごめんね、まだ起きていたみたいだから声かけてみたの。あの……良かったらお話し相手になってくれないかな?」
グレイスは遠慮がちにアンリエルを雑談に誘ってきた。昼間とは違い、彼女の表情にはどこか陰りが見えていた。
「構いませんよ。本を読んでいただけですし、まだしばらく眠るつもりもありませんでしたから」
アンリエルはグレイスを部屋の中に入るよう促した。暖かで、柔らかな甘さの漂う部屋の空気にグレイスは表情を和らげた。
◇◆◇◆◇◆◇
「早くに就寝して、今になって目が冴えてしまいましたか?」
「うん……そんなところかな……」
それならば、とアンリエルは紅茶の道具を一式出してきて、ミルクをたっぷりと混ぜたテ・オ・レをグレイスに用意した。
「……美味しい……。アンリエル、紅茶の中に何か入れた?」
「新鮮なミルクと、甘みが強く表れない程度に蜂蜜を少しだけ入れました。葉も上質のものですから、混ぜ物なしでも美味しいですよ」
アンリエルは特に砂糖も入れず紅茶を飲んでいた。しばらく寝るつもりはなかったので、眠気を誘う甘い紅茶よりはすっきりとしている方がいい。
「ふぅ……。紅茶入れるの上手なんだね……。いくら葉が上質のものでも入れ方次第で味が変わるって、お母様に聞いたことがあるよ」
「特技の一つでしょうかね。使用人に頼んでもいいのですが、いつも代わり映えのしない入れ方で面白みがないので、これだけはいつからか自分で用意するようになりました」
参考書を読んで紅茶の入れ方を学び、実際に自分で工夫し始めたのは、館の本を読みつくして暇になった時期だった。初めて入れた紅茶はとびきり渋く、しかし自分で入れた紅茶だとわかっていたからか、怒りよりも何故だか楽しさを感じた。思えば本以外のことに興味を持ったのは、それこそ初めてのことだったのではないだろうか。
赤々と炎が燃える暖炉の前で、グレイスは冷えた手を温めるように紅茶の入った器を包み込んでいる。やがて気分が落ち着いたのか、彼女は自然と胸の内を話し始めた。
「アカデメイアの入学が決まって一安心したはずなのに、なんだかまた急に不安になってきちゃって……」
「不安、ですか。まあ、環境が変わって落ち着かないというのは仕方ないことでは?」
「んー……何て言えばいいのかな……。そういうことじゃなくて、この先アカデメイアでやっていけるのか、何をすればいいのか、そんな感じの漠然とした不安というか……」
視線を床に迷わせ、沈んだ表情で静かに紅茶を口にする。アンリエルも紅茶を一口飲んで、ふとグレイスが何に対して不安を抱いたのか思い至る。
「あの無礼な平民に言われた事を気にしているのですか?」
「あ~はは……。考えてみたらね? 結婚が嫌で家を飛び出して、勢いでアカデメイアに入ったものの、ここで何をするのか具体的には何も考えてなくって……」
さらりと重い話題も混じっていたが、アンリエルはあえて言及するのは止めた。それよりも、何故グレイスがアカデメイアを『逃亡先』に選んだのか。そこに本人も気がついていない根源的な意思があるように感じられた。
「グレイスは何か目的があって、アカデメイアに入ったのではないのですか?」
「うぅ……、おかしいかな? 目的もなくアカデメイアに入ったのは……」
「……目的はなくとも理由はあるのでしょう?」
「え? 理由? それなら無料で入れる寮があって、当面は生活に困らないと思ったから」
「……そ、それだけですか? 他に何かあるのでは?」
「後は学費も安いし、一人でも生きていけるよう手に職をつけたいと思ったかなー」
自分にしてみれば『本が読みたい』という程度でアカデメイアに入ってきたのだから、グレイスの動機について批難はできない。むしろ、前向きに今後の人生設計を考えているという点で、グレイスはよほど現実的であった。
(何とも……うまく言えませんね。人生相談など柄ではないのですが……)
グレイスに対してどのような助言をすれば良いのか、そもそも助言などしても余計に彼女を混乱させるだけではないか? アンリエルは言葉を選んだ結果として、もう少し探りを入れてみることにした。
「ふむ……手に職を。ちなみにグレイスは何の仕事をしたいのです?」
「ううぅ、それが決まらなくて悩んでいるんだよー。研究者として仕事ができれば面白いかなぁ、とは思っているんだけど……。何を専門に研究したいとか決まってなくて、これから始まる講義なんかも、どれに出席すればいいのやら……」
「具体的な方向が見えないのなら、とりあえず興味のある講義に出てみてはどうです? 学院生活は長いのですから、好きなことがいずれ自分の研究目標となるかもしれません」
「好きなこと……か」
グレイスは何が好みなのだろうか。どのようなことに関心があるのだろう。
宙に視線を漂わせ、あれこれ思い浮かべている様子のグレイスを見ながら、アンリエルは自然と興味が湧いてくるのを抑えられなかった。
「そうか……そうだよね! せっかく自由を手にして、アカデメイアに入れたんだもん! 好きなことして、楽しまなくちゃ損だよね!?」
「ええ、何事も楽しまなくては損です」
何とも快楽的な結論だが、自分の身に置き換えて考えてみても、アンリエルはそれが一番の選択だと思えた。
「うんうん! ありがとうアンリエル。私、これからの学院生活を楽しくやっていけそうだよ!」
憂鬱に沈んでいた気持ちは晴れやかに、グレイスの不安が期待へと昇華して、感激が最高潮に達したときだった。突然戸が叩かれ、隣の部屋の住人であるシュヴァリエの声が、ややくぐもって部屋の中に伝わってくる。
「……静かにしろ、今は深夜だぞ。大声を出すな……非常識だ」
それだけ言うとすぐにシュヴァリエは自分の部屋に戻っていき、隣の部屋からは荒々しく戸を閉める音が響いてきた。
「怒られちゃった……」
一転して沈鬱な表情に戻るグレイス。一一〇号室の住人との関係だけは、今後も悩みの種となりそうである。
「少々、騒ぎ過ぎましたか」
「反省……。調子に乗って浮かれるのも良くないよね……」
「そうですね、ふふふ……」
心底おかしくて笑ってしまう。自然にこぼれた笑顔は、少々意地の悪い笑みになってしまった。
「……そういえばアンリエルはアカデメイアに来て何かやりたいこととかないの? アカデメイアを出た後のことも何か考えている?」
心の整理がついて安心したのか、途端にグレイスは他人のことに話を向けてくる。
正直に言って、アンリエルとしては自分の身の上話などするつもりはなかった。しかし、この時はお喋りに夢中になっていたのだろう。何とはなしに話を繋げてしまった。
「私ですか……? この前も言ったように、図書館の本を読むことが当面の目的ですよ。可能なら文献にある珍品、珍獣を探しに出掛けたいぐらいですが……。あまり先のことは考えていません」
「でも、将来の不安とかないの? 私は変な相手と結婚させられないか、それだけは不安だよ」
「将来ですか。いえ、そもそも私には……」
調子よく、そこまで喋ってしまってから言葉が途切れる。
喘ぐようにして口を開こうとしたアンリエルだったが、その先は喉の奥につかえて言葉にならなかった。
口を噤み、再び紅茶に口をつける。
「……? どうしたの?」
「――もう、夜も遅いですから、そろそろ切り上げましょう。また、隣の住人が怒鳴り込んでくるかもしれません」
言われて、はっと口を押さえるグレイス。小さな声で「良い夜を」と就寝の挨拶をして自室へと戻っていく。
静かになった部屋の中で、グレイスの去っていった戸の向こうを眺めていた。ちろちろと燃え続ける薪の火が爆ぜて、不意にアンリエルを現実へと引き戻す。
「私は……何を浮かれていたのでしょうね……」
見る物全てが珍しく、毎日が新しい発見に満ちていた。グレイスとの語らいも愉快だ。だからこそ、この輝かしい日々が永遠に続くかのように錯覚したのかもしれない。
(そもそも私には……)
一人になったアンリエルは先程口にしようとした言葉を心の中で思い返す。
(――私には、不安を抱く未来さえないのですから――)
呑み込んだ言葉は重く冷たく、臓腑の奥底へと沈んでいく。
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