第7話 目に映る全てが

 シャワーを浴びて身支度を整えたアンリエルは図書館へと行ってみることにした。


 国内最多とも言われる蔵書量を誇るアカデメイア中央図書館。王立学士院のアカデミー・フランセーズ会員メンバーもよく訪れるという。

 現在はまだ休校期間なので人も疎らにいる程度。それでも静けさはあれど閑散とした雰囲気はまるで感じられないのであった。


(ここが中央図書館……。本の数が半端ではありません。ここまでの蔵書量とは……)


 ――見渡す限り本の山――。


 図書館内部は二階、三階と吹き抜けの建築構造になっており、大量の本が一望できることから所蔵量の多さがいっそう際立っている。整然と並べられた本の背表紙が、あらゆる方向から迫ってくるようでアンリエルは軽い目眩と興奮を覚えた。

(これだけの本……これだけあれば、きっと一生分の退屈しのぎにもなりますね……)


 アンリエルは受付にいる司書に声をかけ、貸し出し用のカードを作ってもらった。

 本は十冊までなら借りられるとのことで、早速、館内を素早く且つ音もなく歩き回りながら、面白そうな本を探し求めた。


(……本はたくさんあるのです……選り好みも許されるというものでしょう……)

 なにやらお腹の辺りがむずむずして落ち着かない。

 こんな気分を味わうのは、父に初めて本を買ってもらったとき以来であろうか。


 ざっと本を見て回る中、ふと目に入った本の背表紙にアンリエルの目は釘付けになる。

(……! この本は!? 『プリニウス博物誌』の三十三巻ではありませんか!)

 紀元一世紀の大昔に著された、珍しい自然界の事物について取り上げた図鑑の類である。

 写本は数多く印刷されているが全三十七巻と巻数が多く、アンリエルの実家にも全て揃ってはいなかった。

(……この巻は確か、鉱物に関する内容が載っているはず……。出入りの書籍商の話では、美術書としても一読の価値ありとか……楽しみですね、これは)


 なんとも贅沢な気分に浸りながら一冊の本を引き出したアンリエルは、本の抜けた棚の向こうに、偶然にも知った顔を見つけた。

 肩口まで伸びた金色の髪と、美しく澄んだ青い瞳の少女。本棚の向こうを通り過ぎた彼女は、別の棚へと歩いていき最上段の本へ手を伸ばそうとしていた。

(おや、あの少女は……グレイス、でしたね)

 アカデメイアに入学して初日、顔見知りになった人物である。


 アンリエルはこれまで同年代の人間と接する機会は皆無であったので、周囲の人間と何を話せば良いのか見当もつかなかった。正直なところ、合格発表の掲示板前で勘違いをしていたグレイスに声をかけた時も、アンリエルにとっては大きな冒険だった。


 幸いにもグレイスは気さくな様子でアンリエルと言葉を交わしてくれた。自分の口が悪いことに多少の自覚があったアンリエルとしては、まともに会話の成り立つ相手がアカデメイアにいることが驚きだった。


 自然と、彼女個人に対して興味も湧いていた。

(……どんな本を読むつもりなのでしょう?)


 この辺りは事典の類が集められた一角だ。グレイスが手に取ろうとしているのもやはり事典のようである。背表紙の題名は『図解・珍しい薬草』と、いかにも挿絵が入っていてわかりやすそうな本だった。

 だが、最上段にあるその本は高い位置にあって、グレイスの背丈では若干届かない様子だ。あいにくと近くには踏み台も見当たらない。


「う……くくっ……もう少しなのに……。ふっ……、ほっ……!」

 全く手が届きそうになければ無理に取ろうとはしなかっただろう。しかし、ぎりぎりで届くか届かないかの距離というのは、人間の心理としてはどうしても挑戦したくなるもの。

 グレイスはその場でぴょこぴょこと飛び跳ね、本を掴もうとしている。


(――あー、あれは。昔、私もやったことがありますね。止めるべきでしょうか……)

 アンリエルが本棚の影から見守る中、グレイスはとうとう目標の本に手を付け、勢いあまって見事に奥へと本を押しやる。

 向かい合わせた数冊の本が押しやられ、連鎖的に均衡を崩して落下する。

 そして棚の向かい側では、床に落ちた本とその下敷きになった学生が――。


「わわわ……すいません! 大丈夫ですか!」

 本の下敷きになった学生はどうも身を屈めていたらしく、顔面を床に突っ伏した状態で倒れている。すぐ傍らには学生の頭を上から直撃したと思われる本が転がっていた。


 『改訂・植物大全』……大判二〇〇〇頁以上はあろうかという超重量級の本だった。


「ああぁ~……。だ、駄目かな、これ……死んじゃったかなぁ……?」

「う……うー……」

 倒れていた男子学生が呻き声を漏らしながら立ち上がる。起き上がった学生は肩まで伸びた髪をくしゃくしゃにしながら、あちこち頭を触ったりして首を傾げている。


「よ、良かったー……とりあえず生きているみたい……」

 ほっと胸を撫で下ろすグレイスと頭を抑えた学生の視線が交錯する。その学生の顔には見覚えがあった。

「あ、えーと、確か……シュヴァリエ?」

「む……?」

 一拍ほどの沈黙が流れた後、

「お前か! 犯人は!」

「あうっ! ごめんなさい……!」

 グレイスは怒られた。


「くそ……昨日といい、今日といい、散々な目に……ああ、おい! 落とした本はお前が片付けておけよ……! ……ん? ……く、首がおかしいな……?」

 シュヴァリエは忌々しげに捨て台詞を残して、階下へと降りていった。残されたグレイスは半泣きになりながら自分がばら撒いた本を元の場所に戻している。


(なんとも悲哀を感じさせる光景です……ま、自業自得と言えばそれまでですが……)

 思いも掛けず知人の失態を垣間見てしまったアンリエルは、場都合の悪さから話しかける機会を逸してしまった。


「ああ……落ち込むなぁ……ううん……」

 グレイスはその後、本を片付け終えて一階の閲覧用テーブルで突っ伏していた。誰に聞かせるでもなく独り言を呟いている。


 そう言えば初めて会った時にも似たような状況だった、と思い返しながらアンリエルは彼女の背に声をかけた。

「浮かない様子ですね、グレイス」

「うわぁ!? あ。アンリエル? あ、あはは……実はちょっと失敗しちゃって……聞かないで……」

「そうですか。他人の失敗には興味がありますが、ここは追及しないでおきましょう」

 素知らぬ顔でグレイスの隣に座り、抱えていたプリニウス博物誌を机の上に降ろす。グレイスはこの博物誌に何かしら興味を抱いたのか、虚ろな視線をじっと注いでいる。


「この本に興味がありますか?」

 部屋へ戻る前に少し中身を見てみようと考えていたアンリエルは、その場で博物誌の頁を捲ってみせた。

 博物誌には奇妙な形の石や、母岩に成長した美しい結晶などの絵がたくさん描かれていて、確かに美術書としても鑑賞に堪える充実した内容だった。

「うわ、うわー! 何この石! すごい、自然にできた形とは思えない!」

 目を輝かせて博物誌を覗き込むグレイスには、先程までの鬱々とした雰囲気は欠片もない。かく言うアンリエル自身も、その美しい図画に魅せられていた。


「……本当に、存在するのなら私も見てみたいです。叶うならば、この目で直に……」

「そうだね。今度、探しに行こうか? 近くの山なんかに転がっているかもしれないよ」

 あまりに自然なグレイスの物言いに、アンリエルは軽い衝撃を受けた。


「身近にあるのですか? このような物が?」

 だとしたら、是が非でも見てみたい。グレイスに勢い込んで尋ねると彼女は慌てて手を振った。

「わ、私も実物は見たことないよ! でも、この辺りの山は鉱物の種類も豊富だって聞くから、鉱山で探せば見つかるんじゃないかな?」

 本を読んで夢想するしかなかった事柄の数々が、今なら手の届く距離にあるのかもしれない。改めて、アンリエルは館の外へ出た決断が正しかった、と思えた。


「私はきっと見つけます。いつか必ず、本物を……」

 博物誌を胸に抱き、アンリエルはグレイスと共に図書館を後にした。学院寮に戻る道の足取りは軽く、アンリエルは今までの人生では抱いたことのない高揚に不思議な満足感を覚えていた。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 中央図書館を出た二人は学院寮へと戻ってきた。

 学院寮は同じアカデメイアの敷地内といえども、図書館から普通に歩いて十分近くかかる。寮に着く頃には、アンリエルの腕は本の重みで痺れていた。


「……次からは背負い鞄ルックザックを持って行こうと思います……」

「ははは……。本をたくさん借りるつもりなら、その方がいいかもね」

 図書館から学院寮へと戻り、アンリエルとグレイスはそれぞれの部屋の前へ立った。


 ちょうどその時、目の前にある部屋の戸が急に開いた。一一〇号室、アンリエルとグレイスの間に位置する部屋だ。隣人がもう入居していたのだろう。

 挨拶でもした方がいいだろうか、とアンリエルが考えたとき、部屋の中から顔を出したのは誰あろう、シュヴァリエ・ベルヌーイだった。


 この突然の登場人物に慌てたのはグレイスだ。

「わ。え……え、と。……さっきは、ご……」

 グレイスが挨拶をする間も与えず、シュヴァリエは部屋を出て足早に歩き去っていった。ただ、すれ違いざまに、じろりとグレイスを一瞥していく。

 怒っていた。彼は間違いなく怒っていた。


 不機嫌な顔で立ち去るシュヴァリエを見送りながら、グレイスが情けない声を上げる。

「あぁ~……。どうしようアンリエル? ものすごく、嫌われちゃったみたい……」

「そのようですね。まあ、隣人ということもありますし、ああいう手合いと悶着を起こすと面倒です。これからは十分に気をつけるとしましょう」


 人間関係の機微に疎いアンリエルに、適切な助言など出来るはずもなかった。

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