第二幕

第6話 檻の中の書庫

 ……キュー……キュキュキュキュッ……。


 一風変わった鳥の囀りが聞こえてきて自然と目が覚めた。小さな窓からは朝の日差しと思われる白い明かりが差し込んできている。


 目覚めるとそこは、いつもの自分の部屋とは微妙に異なる空間だった。


 部屋の中には甘ったるい香りが立ち込め、内装は明るい色調の絨毯と壁紙によって覆い尽くされている。壁際には高級家具の衣装棚や化粧台などが所狭しと並んでいた。

 その中心――天蓋付きベッドの上に腰を掛け、まるで違和感なく存在する貴族の少女。あまりに自然で美しく、それはさながら一枚の絵画のようで――。


 化粧台の鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺め、自身の置かれた状況を思い出す。

「ああ……そういえば、アカデメイアに来ていたのでしたね」

 彼女、アンリエルの呟きに応える者は誰もいない。それもまた、彼女にとって常ではあり得ないことだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 王立学士院付属学校アカデメイアの学院寮の一室。その事実がまるで嘘であるかのように、一〇九号室の室内は改装されてしまっていた。僅か一晩のうちに、連れてきた人足八人掛かりで自分好みの部屋へと仕上げたのだ。


 しかし、これまでの生活とは違って今、この部屋には使用人の一人も居ない。

 普段であれば病弱な彼女に付き従って誰かしら部屋の中に常駐しているのだが、ここでは彼女一人だ。

(――本当に、私は外へ出てきたのだ……)

 その事実を再認識して、アンリエルは密やかに微笑を浮かべた。


「さて、今日からは何でも自分でやらねばなりませんね……」

 鏡台に写った自身の姿を見て、アンリエルはまず一つ仕事を見つけた。


 起きて間もないアンリエルの髪は、まさに伝説にあるメドゥサそのもの。何の手入れもしないまま横になったが為に、自慢の長い髪はあちこち跳ね回り光沢を失っている。

「失敗しました……櫛を入れただけでは元に戻りません……」

 悪戦苦闘はしてみたものの元々が癖毛の上、さらに寝癖のついた髪はどうにも解きほぐす事が出来ない。仕方が無いので一度水に濡らして直すことにする。


 アカデメイアは建物全体に浄水と汚水を流す水道管が敷設されており、各部屋の手洗い場には水がきている。油や金属粉末、薬品などの汚れ物を扱う人間には、この洗い場は非常に助かることだろう。

 更に、これはアンリエルも今朝になって気づいたことなのだが、一番奥の部屋にはどうやらシャワーで身体を洗うことの出来る場所があるようだった。

 汚れ作業の後に、すぐシャワーを浴びられるように配慮されているのかもしれない。この部屋だけは煉瓦造りの武骨な壁のままで、床板だけ大理石に張り替えられていた。


 アンリエルはこれ幸いと服を脱ぎ捨て、早速シャワーを浴びることにした。バルブをひねると、さあぁっ、と赤い水が降り注ぎアンリエルは全身赤錆だらけになった。

「うっ……錆びついているではないですか……。にが……ぷぇっ……にがい……」


 数十秒ほど水を流し続けるとようやく透明な水が出始めた。アンリエルは冬場の冷たい水に身体を震わせながらも、丁寧に髪と体に付着した赤錆を洗い流していく。赤錆が取れて、寝癖が抜けきる頃には体は凍えるほどに冷え切ってしまっていた。

「……さ、寒い。凍えてしまいます……。タオルは……タオル……」

 アンリエルはぶるぶると体を震わせながら、裸のままタオルを探し回る。実家の館であれば体を拭くタオルも替えの下着も、脱衣場に誰かが用意してくれている。脱ぎ散らかした服も、シャワーを済ませる頃にはいつの間にか綺麗にたたんである……。


 当たり前だと思っていたことが、ここでは何一つ通用しない。これからは全部、自分でやっていかなければいけないのだ。アンリエルは棚の一つからようやくタオルを見つけ出し、身体を拭いて新しい下着を身に着けた。

 身支度を整える。ただそれだけのことではあったが、アンリエルは大いに満足していた。


「意外と一人でも出来るものです。やはり使用人など連れてくることはありませんでした」

 いざという時に、自分の『持病』に対処できる人間がいないのは心細く、何よりも身の回りの事で不便なのは間違いない。それでも、館に居た時の陰鬱な空気をここへは持ち込みたくなかった。


 持病に関しては発作が出たからと言って即、死に至るようなものではない。

 それよりも退屈な館の中で生かされるだけの毎日に、死んでしまいたくなるほど飽き飽きしていたのだ。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 アカデメイアへの入学を決めるまで、アンリエルは生家である館から一歩も外へ出たことはなかった。

 朝から夜まで館の中で本ばかり読んで一日の時間の大半を過ごす。

 生まれながらに病弱で、館の庭先へ出ることも辛く億劫であったから、そんな生活に疑問も不満も持たず生きてきた。


 館には古今東西の本を集めた書庫があったから暇を潰すには困らなかった。本さえあれば、外に出なくても自分の世界を楽しむことができた。


 ――だが、アンリエルの世界は彼女の成長と共に崩れ始めた。


 館の本をあらかた読み尽くしてしまったのだ。


 その事を彼女の父親ミゲイルに告げたところ、彼は黙って新しい書籍を数百冊も取り寄せてくれた。書籍は印刷の写本と言えども、物によっては一冊で人一人が一ヶ月ほど食っていけるだけの価値があった。

 貴族でもこれほど大量の本を一度に買い求めるのは贅沢な散財に違いない。しかし、そんなことはミゲイルもアンリエルも気にしてはいなかった。何しろ彼らラヴィヤン家は、貴族の地位と官職さえも金で買った法服貴族なのだから。


 ……そうしてアンリエルの世界は安寧を取り戻した。しかし、しばらくしてそれらの本も読み尽くしてしまい、それ以後も新しい本を定期的に取り寄せてはいたが、次第にアンリエルの知識欲を満たせる本を探し集めてくるのも難しくなってきた。


「新しい本が届くのはいつでしょう?」

「次に届くのは月末になるそうだ。退屈だろうが本は我慢しなさい」


 ミゲイルにそう言われると、アンリエルはあからさまに落胆した様子で自室へと戻った。わがままを言ったところで本がすぐに届かないのは理解している。ただ、有り余る時間をどう過ごすか、それが問題だった。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 激しい運動こそできないものの、しばらくの間アンリエルの体調はよかった。ただそれ故に退屈が最大の敵となった。


 相変わらず彼女の退屈を埋めるだけの新しい本は、手に入り難い状況にあった。そうすると必然的に読書の時間よりも空想に耽る時間が長くなっていく。

 そのうちに彼女の興味は少しずつ、これまでに読んだ本の知識から、実世界の事物へと移り始めた。


 父のミゲイルも娘の変化に早い内から気がついていた。

 本だけを買い与えたところで、アンリエルが満足することはないだろう。経験の乏しさを埋めるため、余計に机上の文字列を貪り食うだけだ。故に、知識だけではない、経験も得られる環境を与えるべきだと彼は判断した。


「アカデメイアという学院には、国内最大の図書館があるらしい。そして、その学院では日夜あらゆる研究が行われ、世の事象について真偽を検証しているそうだ」


 次に本が届くのはいつか、尋ねに来たアンリエルにミゲイルが返した言葉は、全く脈絡のない話であった。それでもアンリエルには父の言いたい事が理解できた。


「その気があるのなら、身を以って全てを経験してくるといい。死ぬまでの退屈しのぎには充分なはずだ」

 例えそれが、アンリエル自身の寿命を縮めることになっても構わない、と彼は言った。アンリエルもまた同じ考えだった。


 彼ら親子の関係は一種異様ではあるが、互いを真に理解し、尊重していた。

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