第5話 志は高く
講堂を出て、建物の裏地に走りこむ。距離はそれほど走っていないはずなのに、グレイスの心臓は激しい鼓動をしばらく打ち続けていた。
「……どうして、ああいう事を言うのかな……アンリエルは……」
ああいう事とはつまり、エミリエンヌに向けて言った『怪力大女』という言葉である。
「事実を言ったまでです」
「確かに、背丈は大きかったけど……首を折るほどの怪力は余計だよ?」
「実際に折られてからでは、文句が言えません」
「それはそうだけど根本的な誤解と偏見があるような……」
エミリエンヌの体格を思えば、アンリエルの細い首など軽く圧し折ってしまいかねない。しかしながら、実際にそんなことを貴族の娘がするかといえば――。
(……あながち否定できないのが怖い……)
ついさっき見たエミリエンヌの怒り狂った姿を思い出す。もっとも、怒らせたのは「首が折れる」と言い出した当のアンリエルなわけだが。グレイスは、アンリエルを糾弾するだけ無駄だろうと、それ以上の追及はもうしなかった。
「ふー……、それにしても驚きだなー、あの二人。入学試験順位が一番、二番って……」
そういえば合格発表の掲示で真っ先に目についた名前だったかもしれない、とグレイスは思い返した。
いったいどういう人間がアカデメイアの超難関の試験を上位で通過していくのか興味はあったが、まさか初日でそんな人間に出くわすとは思ってもみなかった。
「私達とは対極に位置する人間です。あまり良い関係を築けるとは思えませんね」
「……やっぱり、そうなのかな? アカデメイアに居れば何かと顔を合わせるだろうし、仲良く出来るといいんだけど……」
彼らだけでなく、数少ない同性であるベルチェスタとエミリエンヌの二人には親しみを感じていただけに、いきなり険悪な関係となってしまったのは残念であった。
グレイスがまさにそんな想いを抱いていた所へ、ざっ、ざっ……、と草を踏みつける音が背後から近づいてくる。その場にやってきたのは――。
「あ! ベルチェスタ……」
「や。外にも聞こえていたよ、あんた達のやり取り。有力貴族のお姫様に喧嘩を売るなんて、大した度胸だね」
講堂で別れたベルチェスタだった。外で会うと余計に素足をさらした下半身が寒そうに思えてならない。
「喧嘩を売るなどと野蛮な。私は事実を口にしただけで、あれは言わば不可抗力です」
「……気をつければ避けられた事態だと思う……」
アンリエルには反省の色も見えなければ、全く悪びれた様子もない。グレイスの非難は力なく、あきらめが混じっていた。
「……でもさ、あたしはともかく、あんた達は姫さんと同じ貴族でしょ? まずいんじゃないの。シャトレ家って言ったら、パリじゃあ宮廷貴族の中でも随分と高い地位につけているみたいだから……」
「宮廷貴族のシャトレと言えば、侯爵家ですね。革命の際に一度没落していますが、その後、過去の功績を認められて復権したとか」
「侯爵かー……凄いなー……お屋敷とか領地は広いんだろうなー……」
「いや、だから敵に回したらやばいんじゃないの?」
思ったほど驚かない二人にベルチェスタの方が辟易してしまう。
「別に権力など恐くはありません。実力の無い者が地位を笠に着て振りかざす鉄槌に中身などありませんから」
「うーん。私の家は権力争いとは無縁の田舎にあるから、相手にすらされないと思う……」
ベルチェスタの貴族像からすれば、上級貴族に無礼を働くと領地没収とか、国外追放だとか、そのような印象があるのだろうが、グレイスにしろアンリエルにしろ、そういったことには無頓着であった。
「はは! こいつはいいや。面白いね、あんた達。本当に貴族? 親近感あるなぁ……」
貴族らしからぬ態度にベルチェスタは好感を抱いたのか軽い口調で二人に話しかける。だが、アンリエルは彼女の親しげな態度に明らかな嫌悪の表情を見せる。
「あのような品位に欠ける貴族と一括りにされては困ります。もっとも、あなたのような下賤の民に親しまれるのはもっと不快ですが」
「うわあわ、アンリエル……またそんなことを――」
ここでやはりというか、余計な一言をアンリエルが口走る。おかげでそれまでの楽しげな雰囲気はぶち壊しになり、代わりにびりびりと帯電したような空気が辺り一帯を支配する。ベルチェスタも、もはや親交を求めようとはせず、その表情からは敵意しか感じ取れなくなっていった。
「……言うじゃない、補欠合格が……。まぐれでアカデメイアに入れたような大馬鹿貴族様が、ここ学問の街グルノーブルで大きな顔をできると思ってるわけ?」
「……すみません……私も補欠合格です……。小さくなっています……」
ベルチェスタの皮肉はアンリエルよりも、グレイスに精神的痛手を与えたようだった。
それに引き換え、アンリエルはこの皮肉を小さな鼻息であしらってみせる。
「くだらない。そもそも、私は学問になど興味はないです」
「なんだって……?」
思いもかけない、切り返しの発言にベルチェスタの顔が強張る。グレイスもこの予想外の発言にはひどく驚いた。
「……そうなの? じゃあ何でアカデメイアに……?」
「単なる娯楽ですかね。私は読書が唯一の趣味ですから。ここには大きい図書館があると聞いていたので、それが目当てで入学したのです」
「え、それだけの理由で――」
「あんた、ふざけてんの!?」
グレイスの言葉を遮って、ベルチェスタが怒鳴り声を上げる。本気で、怒りに満ちた声だった。ベルチェスタの怒鳴り声にグレイスは腰を抜かした。
「今のは、聞き捨てならないよ……!! 学問に興味が無い? 娯楽だって? あたしは、いや、アカデメイアに来る人間は皆、何らかの志を持ってやってきているんだ!」
ベルチェスタは怒りの形相を浮かべた。握り締めた拳が、彼女の精一杯の思いを代弁しているようだった。
「あんたのような物見遊山のお気楽貴族とは違う。アカデメイアに入りたくても入れなかった奴らは、本当に悔しい思いをしているんだ。それなのに、補欠合格とはいえ、曲がりなりにも入学できたあんたが……その価値を否定するようなことを……」
ベルチェスタの声と表情には、それまでの険悪なものとは違って、どこか悲痛さが漂う。最後の方は言葉にならず、ベルチェスタは俯きながら、小さな声で毒づいた。
だが、ベルチェスタの剣幕に対して、アンリエルは表情一つ変えずに話を切り返した。
「……入学できなかった人間は、所詮その程度の実力だったまでです。私のようなお気楽貴族に席を奪われている者に、高い志があるとは思えません。努力が足りなかったのではないですか?」
「それは……! 本一冊だってまともに買えない、あたし達の苦労を知らないから言えるんだろ……!!」
ばちっ……と、肉と肉のぶつかり合う音が響く。
ベルチェスタがアンリエルの頬を手の甲で叩いたのだ。グレイスには止める間もなかった。叩かれたアンリエルは、その勢いのまま地面に倒れ伏す。
ベルチェスタは、ふぅふぅと息を荒げながら、倒れこんだアンリエルを睨みつける。
アンリエルは倒れたまま、いつまで経っても起き上がってこなかった。
「アンリエル?」
グレイスが近づいて声をかけても動かない。ぐたりと仰向けになって転がっている。
「はん……。どうしたのさ、それくらいで! 下手な芝居なんかして……そんなに強く叩いてないだろっ……」
倒れたアンリエルの胸元を掴んで揺らす。乱れた着衣の襟元からは、真っ白な肌と薄青い血管が浮き出て見えた。「うん?」と、ベルチェスタが口元に耳を近づけて呼吸を探る。
そうして今度は、ベルチェスタの顔が色を失っていった。
「ちょ、ちょっと、この子……。息、してな……い」
喉が引きつって言葉がうまく出てこないベルチェスタ。グレイスと顔を見合わせて、しばし呆然と立ち竦む。
「嘘!?」「本当だって!」
グレイスがアンリエルの腕を取り、脈を診る。
………………。
「脈がない!!」
「そんなっ!」
「どうしよう!?」
「わ、わかんないよ……。あたしにも……ああ、あ……」
貴族の娘に手を上げて死なせてしまうなど、平民の彼女にはどんな言い訳も立たない。待っているのはギロチンの処刑台か――。
恐慌状態に陥ったベルチェスタは胸の前で手を組みながらその場に座り込んでしまう。その様子を見たグレイスはあることを思いついた。
「そ、そうだ……!」
――膝を折り、顔の前に組んだ手を掲げ――。
「……迷わず逝ってね、アンリエル……」
祈った。
「ああ、違った! そうじゃなくて! 失敗しても怨まないでね……。えええい!!」
横になったアンリエルの胸元目掛けて、組んだ両手を振り下ろす。
――心臓へ衝撃を与えて、再起動を促す――。
どふっ……。勢いよく振り下ろされた両拳は、寝返りをうったアンリエルにかわされ地面に深々とめり込んだ。
「ああっ……! いったーい……」
「……私を殺すつもりですか……? グレイス……」
むくりと起き上がったアンリエルが、冷やかな目で陥没した地面とグレイスを交互に見る。グレイスは涙目になって拳をさすりながらアンリエルを見返した。痛みと疑問の浮かんだ微妙な表情になった。
「……ちょっと、あんた……無事……なわけ?」
突然、動き出したアンリエルを死体か何か見るような目つきで、ベルチェスタが遠巻きに話しかける。
「無事ではありません。あなたが唐突に野蛮な行為に走るのでショックで気を失いました」
「でも息だって止まって……」
「それは持病の『
「なんなのさ……! そのややこしい病気は……!」
「ででで、でもでも……! 脈だってなかったよ!?」
まだ両手が痛むのか、グレイスが手をさすりながら二人の間に割って入る。アンリエルは大きく嘆息し、どの部分で脈を測ったのかグレイスに問いただす。
グレイスはアンリエルの腕を取り、ここ、と指差す。
「あのですね、グレイス。そこは確かに私の血管ですが、脈を測る事ができるのはもう少し横です」
「あは、間違えた」
にっこり笑ってごまかすグレイス。
他にどうしようもなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
ひとまずアンリエルが命を繋ぎ止めた事に安心したのか、ベルチェスタはくだけていた腰を持ち上げて立ち上がる。
「あー、あ……阿呆らしい……。これ以上、相手していられない。あたし、もう行くわ。どっ、と疲れたよ……」
アンリエルに抱いていた怒りもどこへやら、ベルチェスタは力ない足取りで二人の前から去っていった。
グレイスはまたしても引き止める機会を逸してしまい、少し残念な気持ちでベルチェスタの後ろ姿を見送った。
「とりあえず、私達は学院寮へ行きましょう。部屋の整理をしなければなりません」
「あー、そうだったね。荷物もあるし……。アンリエルは荷物とかどうしているの?」
グレイスは街の宿に荷物を置いてある。アカデメイアの入学試験を受け、合格発表が出るまでの仮の拠点としていたのだ。
「合格した時の為にと、既に実家から必要なものは持ってきてあります。今は荷馬車で学院の外に待機させてありますが、部屋を確認次第すぐに私物を持ち込む予定ですよ」
「へえ、準備がいいんだね?」
ほどなく、取りとめもない会話を交わしながら歩く二人の目の前に、石造りの立派な学院寮が見えてきた。学院寮の管理人に挨拶をして、それぞれ部屋の場所を確認できると二人は別々に動き出す。
「では私は早速、荷物を運び入れる指示を出しに行きます。遅くなる前に部屋を整えたいものですね……」
「あ、待ってアンリエル! 部屋は見ておかないの? 確か、私の部屋とは一つ空けて隣だったよね?」
「ええ、私達の部屋は近くですね。知り合いがすぐ近くに居るのは頼もしい限りです。部屋は荷物を運ぶ人足に直接見せれば良いので、その時に私も部屋を見て持ち込める荷物を選別することにします」
それだけ言うとさっさと学院の外へ歩いていってしまった。
「それにしても荷物の選別って……一体どれだけの私物を持ってきたんだろ……?」
興味はあったが、自分は自分で少なからず部屋の整理がある。人の事ばかり気にしてもいられない。グレイスは管理人に確認した部屋番号の前までやってきた。
「……ここが、私の部屋……」
それなりに年季の入った木製の戸を前にして、ごくり、と緊張で喉を鳴らす。部屋番号は一一一号室。鍵を差し込み、やたらに滑りのいい錠を外して、戸を開ける。
……軋む戸を開けて中を覗くと、奥の窓から部屋の中を通して赤色の西日がグレイスの目に飛び込んできた。床と壁は剥き出しの煉瓦造りになっていて、部屋の隅には暖炉と、もう一つ別に大きな窯がある。
簡素な机と椅子。古い棚と鏡台に、洋服掛け。一つ区切られた小部屋には、殊のほか立派なベッドと小綺麗に整えられたシーツ、掛け布までが用意されていた。
しばらく、部屋の真ん中に佇む。物寂しい部屋を見渡して、椅子に腰掛ける。ぎしっ、と音がなったので慌てて飛び退くが、それは椅子の足が削れて傾いていただけだった。
部屋の中をゆっくりと歩きまわり、奥の方にもう一室、作業場のような小部屋があるのを見つけた。床や壁が黒ずんでいるのは、何らかの薬品か火を使った後だろうか。
部屋の中を一通り見てまわると、グレイスはベッドのある小部屋へと向かい、小さく備え付けられた窓を開けてみる。東側に位置する窓からは、陽の光ではなく、夜を迎える冷たい空気が入り込んできた。せっかく、西日で暖まった部屋の中が冷えてしまう。グレイスはすぐに窓を閉めた。
薄暗い寝室。真っ白なシーツの敷かれたベッドに身体をぽん、と投げ出して寝転がる。不思議なことに、初めて入ったこの部屋にはどこか心安らぎ落ち着く雰囲気があった。
(……今日からここが、生活の場になるんだ……)
家族と離れ、知らない土地で一人寂しい部屋に居るはずなのに、それが何だか……当たり前のような感覚になってくる。微睡みながら、グレイスはこれまでの出来事を振り返っていた。
実家から逃げだしてきたこと、補欠合格のこと、そして、アカデメイアで出会った人達。そんな中でも、とりわけグレイスの心に強く刻み込まれたのはベルチェスタの言葉だった。
「……アカデメイアに来る人間は皆、何らかの志を持っている、かぁ……」
あの言葉はアンリエルだけでなく、グレイスにも向けられていたように思える。
結婚が嫌で飛び出してきた。そのことが、アカデメイアを逃げ場所にしている感じがして後ろめたく、胸が苦しくなる。
「興味があったから……。それだけじゃ、足りないのかなぁ……」
誰とはなしに独り言を呟く。
「疲れた……。今日はもう何も考えられないや……」
体を横にしていると疲労が表へと出てきた。
「荷物……明日、取りに行けばいっか……」
微睡みは心地よい睡魔となり、抱いていた不安はぼんやりとした不確かな感情に変わっていく。無意識に掛け布を体に巻きつけたグレイスは徐々に胸の苦しさを忘れ、そのまま深い眠りへと落ちていくのだった。
――とん、とん、と。軽く二回、部屋の戸を叩く音がした。
部屋の主は熟睡していて、戸を開けようと動く気配はない。
やがて一通の手紙が戸の隙間から差し込まれる。
手紙は部屋の中に落ちると、床を滑って鏡台の下へ入り込んだ。
部屋の主が、その手紙に気がつくことはなかった。
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