第4話 上層と下層

 入学の説明会が終わって、後は各自が入寮の手続きを済ませるようにと報せがあり、この場は解散となった。すぐに外へ出て行く者や、近くの人間と閑談する者など、講堂は途端に騒がしさを取り戻す。


「んあ――っ! やっと、終わったぁー! お話が長くて疲れちゃった」

「同感です。祝辞など一言で済ませればいいものを、冗長ですね」

 腰に手を当てて大きく伸びをするグレイスと、同調するように席を立ち上がり、首をこきこき鳴らすアンリエル。そんな二人にベルチェスタが非難の眼差しを向ける。


「あんたら人の話、全っ然、聞いてないでしょ? いいかい、フーリエ男爵は……」

「まあ? 偉そうに。平民に先程の高尚な演説がお解かりになるのかしら?」

「なんっ……え?」


 てっきりアンリエルの口から出た言葉だと思ったのだが、今のは席の後ろからだ。声の上がった方にベルチェスタが向き直るとそこには――。


「失礼。この場に迷い込んだ浮かれ気分の平民さんが、あまりに知ったかぶりの発言を繰り返すので、つい口を挟んでしまいましたわ」

「う……、なに、この女……」

 ベルチェスタが身を引いたのも頷ける。突然、話に割り込んできたその女性は、背丈が異様に高く、グレイスやベルチェスタより頭一つ分大きかった。それが後ろの席からベルチェスタを見下ろすようにして立っているのだ。


 長身に見合うだけの長さを持った赤茶色の髪。濃い眉に、黒く大きな目。そしてどこか挑戦的な微笑を湛えた口元――。

 背丈に釣りあった肉付きの良い体は美しいまでに均整が取れており、肩口の肌をさらした大胆なデザインのドレスをその身に纏っている。


 赤と黒の入り混じった暗色のドレスは、無駄なレース編みを省いた極めて機能的なデザインであるにも関わらず、決して地味な印象を与えることがない。彼女の存在感は周囲の眼を否応なしに惹き付けていた。


「どんな間違いでアカデメイアに入学できたか存じませんけど、あまりみすぼらしい格好でいますと、掃除婦と間違われて摘まみ出されてしまいますわよ? マドモワゼル?」

 あからさまな嫌味にベルチェスタの顔が怒りに染まる。だが、見下すような女の視線に射竦められて反論が出ない。そこへ、

「その辺にしておいてあげなよー、エミリエンヌ。あまり苛めちゃあかわいそうだよ」

「シャンポリオンの言う通りだ。ここは誰もが等しく学問を探求する場。身分や貧富の差を問題にすべきではないだろう」

「うーん、そうそう。いいこと言うよね、シュヴァリエは」

 すぐ近くに座っていた男子学生二人が立ち上がる。


 シャンポリオンと呼ばれた方は、どこか気の抜けたような表情の少年だ。ふわふわの髪に童顔で、柔らかな笑みを浮かべている。

 一方、厳しい言葉でエミリエンヌと呼ばれる女性を諌めたのは、一見して女性かと思われるくらいに、肩先まで髪を伸ばした少年であった。彫りの深い顔に陰影が生じて、怒っているような表情にも見える。シュヴァリエという名前らしい。


 どちらもきちんとした服装をしているが貴族というわけではないだろう。立ち居振る舞いと身なりからして、上流階級のブルジョワジーと言ったところか。


「そんな、フランソワ! わたくしが苛めるだなんて……。わたくしはただ世間知らずな平民のお嬢さんに、こういった場に相応しい振る舞いというのを教えていただけですわ」

「うん、そうだよね。エミリエンヌは優しいからねー」

 エミリエンヌはシャンポリオン(=フランソワ)に向かって、大きな体をくねくねと器用に動かし、ご機嫌を取った。その後すっくと立ち、態度を改める。


「それからシュヴァリエ。確かにあなたの言うことは一々、もっともなご意見ですけれど、こういった場に来る以上は最低限、それなりの服装で来るのが常識というものではありませんこと? 間違っていて?」

「それを言うならシャトレ。君だってそんな肩の開いたドレスを着てきて、ここは舞踏会場ではないんだからな。そっちのと比べても、上か下かの違いじゃないか」

 そっちの、ベルチェスタの足元と、エミリエンヌ(=シャトレ)の肩口を見比べて大雑把な批評をするシュヴァリエ。

「…………」「…………」

 二人の女から放たれる無言の圧力で場の温度が上昇した。


「すまない、今のは失言だった。しかしどちらの服飾も季節に合わず奇抜ではないか? 今日は初日だから良いとして、明日からはもう少し控えめな服装にするべきだろう」

「お断りです。……あなたには女性が少しでも着飾りたいと思う気持ちがわかりませんの? これ以上、地味になど出来ませんわ」

「それに関しては同感だね。あたしだって、自分に似合う服くらい自分でわかっているんだ。文句を言われる筋合いはないよ」


「服装の事ならシュヴァリエ、あなたこそ上下黒服に暗色のタイなんて、それは正装ではなく、葬儀用の喪服というものではなくて? わたくし達は祝うべき門出の席にいるのであって、お悔やみに来ているのではありませんのよ? 加えて言うなら……」

「もういい。好きにしてくれ。俺はこれ以上口出ししない」

 喧嘩の構図が複雑になりそうになったところで、シュヴァリエは撤退を宣言した。


 シュヴァリエが戦線を離脱し、シャンポリオンが気の抜けた笑顔で傍観していると、再びエミリエンヌとベルチェスタが睨みあう。

「言い忘れていましたわ。世間知らずの平民さん。わたくしはね、あなたが御自分の無知をさらしていましたのを、憐れに思ってご忠告差し上げたの。わかりまして?」

「馬鹿にしないでよ。誰が無知だって?」

「あら、まだお気づきでないの? それとも、間違った情報を正しいものと誤認してしまっているのかしら。ねえ、教えてあげてはどう? フランソワ……」


 気の抜けた笑顔を難しそうに歪めてシャンポリオンが答える。

「えーとですね。先程の演説中に前の席の皆さんが話していたフーリエ男爵のことですけど。男爵のアカデミー・フランセーズでの座席番号は、第十席ではなくて第五席ですよ。それと、確かに男爵は数学の分野で大きな功績をあげているんですが、どちらかというと物理学者として高く評価されているんですよね……」


 シャンポリオンの指摘にベルチェスタが「あ……」と軽く声を詰まらせる。全く知らなかったわけではないのだろうが、得意気にグレイスとアンリエルに説明していたことを思えば恥ずかしいことだ。

 ベルチェスタはグレイスとアンリエルをちらりと見やると、足早に二人の間を抜けて講堂の外へ出て行ってしまう。グレイスはベルチェスタに声をかけることも出来ないまま、彼女を見送った。


「……やれやれ、ようやく邪魔者が消えましたわ。貴女方も迷惑でしたわよね? 平民に絡まれて。ああいう相手には強気で言って、立場を弁えさせないといけませんわ、ねえ?」

 同意を求められたグレイスとアンリエルの二人は、同時にエミリエンヌの顔を見る。

 いや、見上げた。

「はっ……! あまりの展開に我を忘れていたみたい……!」

「……同じく。不覚です」

 何が不覚なのか、アンリエルは痛恨の表情を浮かべる。


 間の抜けた二人の反応を特には気にかけず、エミリエンヌは長椅子の列から出て、ちょうど講堂の中心部に位置する所に立った。

「改めまして、わたくしはエミリエンヌ・デュ・シャトレと申します。以後、お見知りおきを」

 ベルチェスタと言い争っていた時とは別人のように優しい笑顔で自己紹介をするエミリエンヌ。


 続いてシャンポリオンが前に出る。

「僕は、ジャン=フランソワ・シャンポリオンと言います。ジャン=フランソワなんてありきたりの名前だから、シャンポリオンと呼んでください」

「まあ、そんなことないですのに。フランソワ……いいじゃありませんこと……」

「シュヴァリエ・ベルヌーイだ。一応、名乗っておく」

 恍惚とした表情でいるエミリエンヌを無視してシュヴァリエも自己紹介を済ませた。


 やや気後れしながら、グレイスと、アンリエルも揃って自己紹介をした。

「グレイス? アンリエル? あら……、おかしいですわね。掲示板で見た名前の中には見かけませんでしたけど……? 女性の名前でしたら目に付くはずですのに……」


「あー……はは……それは、たぶん私達二人とも掲示板の上隅に名前があったからじゃないかなぁ……」

「上隅ですの? それなら尚更、目に入ると思うのですけど……?」

 エミリエンヌは何もない中空を眺めながら、掲示板に載っていた名前を思い出そうとしている。背の高い彼女がこういった仕草をすると、天井から何か降ってきそうな雰囲気である。


 と、傍らにいたシュヴァリエが、何かに気づいたような顔をして呟いた。

「先程、掲示板を見に行ったら補欠合格者の名前も貼り出してあったな。追加で三名。後になって貼り出されたようだし、これはシャトレも見ていないだろう?」

「当たり前でしょう! 何故このわたくしが番外位まで気にかけねばなりませんの!?」

 ――何を馬鹿な事を、と強い口調でエミリエンヌが叫ぶ。


 折しも、講堂にはもうほとんど人が残っておらず、静まりかえった空間にエミリエンヌの大きな声だけが響き渡る。番外位、という言葉が殊更グレイスの耳には響いて聞こえた。

「……ちょっと、お待ちになって……まさか貴女達……補欠……合格者ですの……?」

 ぎぎぃっ……と、音でも鳴りそうなぎこちない動作で、エミリエンヌは信じられないモノでも見るように、グレイスとアンリエルの二人へ視線を戻した。

「はい……まあ、二人とも……」

「補欠合格です」


「まあ! 何てことでしょう! では……、わたくしはひょっとして『補欠人間』に声をかけてしまったということ……?」

「ほ、補欠人間……?」

「まるで、人間であることに欠陥でもあるような言い方ですね」

 エミリエンヌの造語に、蔑むような印象を受けたのは二人の思い違いではなかった。自分の行為を悔いるように、大きな身体をねじ曲げ、両腕で抱きしめながらエミリエンヌは侮蔑の言葉を吐き出した。


「ああ、嘆かわしい! そんな知能水準の低い人間とは見抜けずに、自分の方から声をかけてしまったなんて!」

「そ、そんな言い方……! 確かに勉強はできる方じゃないけど……」

「エミリエンヌ……さすがに今のは言いすぎじゃあないかな……」

 グレイスを慰めようとシャンポリオンが動くと、エミリエンヌはすかさずこれを阻止するように回り込む。

「いいえ! 低俗な人間に関わると自身もまた低俗に染まって、人間は堕落するものですのよ? フランソワも、そんな補欠人間に近づいてはいけません。補欠が感染しますわ! しっしっ!」

「いやー、補欠が感染するってことはないと思うけど……」

 それでもエミリエンヌの大柄な体に阻まれて、シャンポリオンはその場を動けなかった。


 シュヴァリエはこのやり取りを呆れ顔で眺めていたが、会話が途切れて沈黙が訪れると静かに口を開いた。

「……今の発言は浅はかだぞ、シャトレ。アカデメイアの入学試験には様々な分野の人間が、それぞれの得意科目で挑んでいるんだ。それらを一括りにした学院側の評価基準は曖昧。それで決定した順位など当てにはならないだろう……」

 これに続いて間延びした声が、エミリエンヌの巨体の後ろから聞こえてくる。

「そうだよー。僕とシュヴァリエにしたって、専攻分野が全く違うから、どちらが優秀かなんて比べられないもんねー」

「そ、それは……そうかも知れないですけれど……」

 シュヴァリエの正論にシャンポリオンも賛同し、エミリエンヌは途端に気弱になる。


「いえ、むしろ入学試験ごときに本気を出して、高い順位を取る人間の方が馬鹿なのではないでしょうか?」

 そして何故かここで反論を入れるアンリエル。収まりかけた火事場に新たな火種を起こそうというのか。案の定、グレイスはもう顔面が真っ青になり、逆にエミリエンヌは顔を真っ赤にして――。


「あっはっはっ! そうすると僕が一番の大馬鹿になっちゃうね? 二番はシュヴァリエだよー?」

「そうだな。安全圏を狙ったばかりに、無駄な労力を費やしたかもしれない」

 入学試験順位一番、二番が揃って軽い冗談にしてしまう。これでは、二人より順位の低いエミリエンヌも本気にはなれない。エミリエンヌは場都合が悪そうに咳払いした。


「まあ、それも……そうですわね。わたくしが大人気なかったかもしれません。見たところ彼女など年少のようですし……、補欠合格でも仕方がないのかもしれませんわね」

 そう言いながらアンリエルの小さな頭を優しく撫でてやる。背の高いエミリエンヌと背の低いアンリエルが並んで立つと、母親と小さな娘のような身長差になり、実に微笑ましい光景である。


 なでなで……。ぺしっ! アンリエルの手がエミリエンヌの手を払う。

「触らないでください。『怪力大女かいりきおおおんな』のあなたに撫でられては、首の骨が折れてしまいます」


 ……エミリエンヌはぐらり、と一歩退いた。そして引きつった様に大きく深呼吸をする。同時に、――ぶつり――と、例えではなく何かの切れる音がした。

 エミリエンヌの衣服の下、胸の辺りで蠢いたものがあることから、おそらく切れたのは女性の身体を締め上げているコルセットの布地か。


「……け……」

 肺一杯に空気を詰め込み、過呼吸に陥ったような表情。間近にいたグレイスの目にも、一瞬にしてエミリエンヌの胸が盛り上がっていくのが見えた。

「――決闘っ! 決闘ですわー!!」

 乱心、エミリエンヌ・デュ・シャトレ。


「まずいよっ! シュヴァリエ、止めて!」

「応!」

「わ、わ、わたくしが一番、気にしている事を……!!」

「うわわわわ……ア、アンリエル! 謝って、謝って! 今のは絶対悪いってば!」

「それは、怪力のことでしょうか? それとも大女と評したことでしょうか?」

「一度ならず、二度までもっ!! 赦しません! ええ、赦せませんとも!!」

「どちらも事実ですが?」

「お前達! もういいから何処か行け!」

「うあーん! ごめんなさぁい!」

 シュヴァリエが暴れるエミリエンヌを取り押さえながら、グレイス達に退避命令を下す。火に油を注ぐだけのアンリエルを引っ掴んで、グレイスは言われた通り講堂を後にした。

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