アカデメイア1年目

第一幕

第2話 少女は脱走して

 記憶もおぼろげな原風景。

 長く伸びる田舎道を父に抱え上げられながら、幼いグレイスは遥か遠くを眺めていた。

 あれはいつのことだったか、近くの湖へ散策に出かけた帰り、父、クロードはアカデメイアという学校の話をしてくれた。


「……この村からずっと南に行くとグルノーブルという街がある。そこでは国内各地から優秀な学者達が集まって研究をしているんだ。特にアカデメイアの周辺地域には、研究者達の工房や腕利きの職人達が集まる職人通りと呼ばれる界隈かいわいがあってね? それはもう首都のパリでも見られない、一種独特の賑わいがあったものさ」


 クロードは楽しげに、そして誇らしげに語っていた。どうやら昔グルノーブルに居た時期があるらしい。

「とにかく自由で、活気があったなぁ。誰もが自分の夢や目標を懸命に目指していた。そうしてあの街からは、幾人もの偉大な学者が輩出されたんだ……」


 クロードの話で好奇心をかきたてられた幼いグレイスは、一度その街を観てみたくなった。だから、グルノーブルには戻らないのかと訊ねたが、

「それは……ないだろうねぇ……。僕としてはアカデメイアに苦い思い出もあるし……。ああ、それに……ははっ……今はここが気に入っているからね」


 クロードは医者で、少しばかり科学の教養があったものだから、グレイスも子供の頃からそういった類の話を聞かされて育ってきた。アカデメイアの話もそんな話の一つに過ぎなかったが、幼い心には強く印象付けられた。

 そしていつしかグレイスは、グルノーブルのアカデメイアに思いを馳せるようになっていた。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 ――グレゴリオ歴、1827年。秋の葡萄月ヴァンデミエール――



 それなりに広い部屋の一室で、簡素だが質の良い寝台に身を横たえていたグレイスは、夜が明けて薄っすらと差し込んでくる朝の日差しを受け、目を覚ました。


 ……昔の夢を見ていた。


 美しい湖畔を背景にした過去の記憶は、今も鮮明にグレイスの脳裏に焼きついている。あの風景はグレイスにとって自由の象徴だった。幼い頃は、ただ日々を好き勝手に楽しく過ごして幸せだった。毎日が冒険で、心躍らせる新しい発見に満ちていた。


 そんな好奇心旺盛なグレイスを傍らで見守りながら、父は笑って「グレイスは優秀な研究者になれそうだね」などと言ってくれた。グレイス自身もその気になって、将来は学者さんになる、などと夢見た時期もあったのだ。


(――けれど、今の私はどうなんだろう?)


 年頃の娘となったグレイスには歳相応の悩みがあった。ロマンなどありはしない。そこにあるのは夢も希望もない現実、己の未来を決定付ける選択のみ。

 朝の目覚めと共に感じる憂鬱。

 それは何度も繰り返されてきた、日常の幕開けを意味した。


 ◇◆◇◆◇◆◇


「ねえ、グレイス? 今日は貴女の為にとっても良い縁談の話を持ってきたのよ?」

 今日も今日とて、眼前に押し付けられる縁談相手の肖像画に、グレイスはいい加減うんざりしていた。


「少しばかり年齢は離れているけれど、優しそうで紳士的な方だと思うの。一度、会ってみてはどうかしら? 先方もあなたのことにとても興味をお持ちよ。ほら、見てごらんなさい、これがその方の肖像画。ロクナ・デ・シャロー伯爵家の御長男なのよ!! 御長男!!」


 描かれた肖像画は何の冗談のつもりか、やや小太りの美男子がピンク色をしたヒナゲシの花を口にくわえている。

「おかあ様……。私、これはないと思うの……」

「あら、そう? それなら……、こちらの方はどうかしら?」

「…………」


 グレイスは西欧の国フランセーズの片田舎に領地を持つ地方貴族の末娘である。年頃にもなれば先に嫁いでいった三人の姉達同様に、結婚を考えねばならなかった。

(……結婚なんて気乗りしないのに……)

 ――一度だけ、一度だけと言われて、グレイスはとうとうある一枚の肖像画の人物との縁談に赴くことになった。


 肖像画には艶のある金髪の若い子爵が、凛々しい顔立ちで描かれていた。

 ところが、実際に会ってみれば相手は既に若いとは言えない中年で、脂ぎった黒髪をさらに整髪油で撫でつけて髪に異様な光沢を出しているのだった。

 幻滅したグレイスとは逆に、先方の中年子爵は若いグレイスにいたく興奮した様子で、すぐにも結婚の話を持ち出してきた。


 当然の如く、グレイスはその場でこの縁談を断った。

 帰宅してすぐ、グレイスは母、ナージュに対して激しく非難を浴びせた。


「……酷いです母様。あんなの騙し討ちです!! 肖像画と違う、全くの別人なんて!!」

「落ち着いてグレイス、それは確かに……肖像画とは印象の異なる方でしたけど。その代わり、ほら! 立派なお屋敷だったでしょう? あの方のお屋敷なのよ? あんなお屋敷を所有しているなんて立派な方じゃない……。領地だって、子爵のお父上である伯爵の土地がそのままあの方のものになるのよ? 将来も有望だと思わない?」

「思いません! 立派なのはお屋敷だけです! 母様は気が付かなかったんですか!? あの……何とかって子爵! ずっと私の顔ばかり見ていて、一言目にいきなり『結婚しましょう!』なんて……」

「何を怒っているのグレイス? 一目で気に入っていただけたのだから、それは喜ばしいことでしょう?」

 いったい何が気に入らないのかわからない、本気でそう思っている様子だった。


「嫌です! あんな男と結婚するくらいなら私……、家を出ます!」

「ま……っ! い、家出だなんて! 考え直しなさいグレイス。財産も才能も特技も何も持たない娘が、一人で生きていけるほど世の中は甘くないのですよ!?」

「うぐっ! ……で、でも、好きになれそうもない人と結婚なんて……」

「あら、もちろんこの方に限る必要はないのよ? 若いうちなら、相手は選び放題なんですから。さ、グレイス! 気に入らないのなら、もっと良縁の家を探しましょう。大丈夫よ、何と言っても貴女は自慢の娘なんですから! きっと良いお相手が見つかるわ!」


(――もう、駄目……。母様には何を言っても通じない……)

 浮かれた様子で次の縁談を進めるナージュの姿を見て、グレイスは密かに溜め息を吐いていた。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 秋の葡萄月ヴァンデミエールが、冬の霜月フリメールへ変わりゆくまで、ナージュは女としての幸せが如何なるものかを、グレイスに延々と二ヶ月以上も説いて聞かせ続けた。


 縁談の話を幾つも持って来ては結婚を勧め、若いうちに良家の男性を捕まえておくのが得策なのだと毎日のように力説する。そして、ナージュの説得がついに三ヶ月目に入り、真冬の雪月ニヴォーズを迎えた頃。

 縁談の話がちょうど百を数え、グレイスの我慢はついに限界へ達した。


「私はっ、お母様のような生き方はしたくありません! もっと外に出て、世の中のことわりを知りたいんです! ……無知で世間知らずな母様にはわからないんです。狭い屋敷の中で、自分が生まれた世界の本当の姿も知らないままに老いて死んでいくなんて、そんなの全然幸せじゃない!」


 グレイスの剣幕にナージュは一瞬たじろいだ様子だったが、気の強い彼女はすぐに平静を取り戻し、逆にグレイスへと詰め寄ってくる。

「……それで? 母とは違う生き方をしたい貴女は、具体的に何がしたいと言うの?」

「わ、私は……私……」


 気圧されてはいけない。ここ数ヶ月で答えは出ているのだ。ここで自分の意見をはっきり言えないようなら、この先の人生も、何も変えることはできない。

 一度、深呼吸をしたグレイスは毅然とした態度でナージュに言い放った。


「グルノーブルに行って……王立学士院の付属学校、アカデメイアに入ります! そ、そこで、自然科学を学んで……研究者になるんだから!」


 グレイスの決意表明がなされた後、二人の間に長い沈黙が流れた。

 ただ、自分の人生を娘に否定された時でさえ冷静であったナージュの表情が、見る間に真っ赤な怒りの色へと染まっていく。


「グレイス!! いったいどうしてそのようなことを言い出すの! 科学なんて、男性の学問でしょう? 確かにあなたは昔から男の子のように、元気よく外を走り回るような子でした。……それでも、母は貴女を男として育てた覚えはありません! さあ、わけをおっしゃい! どうしてなの! 誰かに吹きこまれたわけでもない……で、しょうに……」


 一息に、そこまで喋ってナージュは息を切らした、わけではなかった。グレイスにつまらないことを吹きこんだ『誰か』に彼女は心当たりがあったのだ。そのことに思い当たったナージュはドレスの端をつまむと、身を翻して長い廊下を駆けていく。


「あーなーたっ! あなたですね! グレイスにおかしなことを吹きこんだのは!」

 書斎で文献を読みふけっていたクロードに、ナージュの癇癪が炸裂する。不意打ちを受けたクロードは驚いて、分厚い書籍を足の上に落としてしまう。


「え? どうしたんだ? 何があったんだい?」

「グレイスにアカデメイアの話をしたのはクロード、あなたですのね!?」

「ああ……それなら確かに僕が以前、話をしてあげたことがあったけど……」

「やっぱり! ああもう……何てことでしょう……。あなたがアカデメイアの話などするから、グレイスがグルノーブルに行きたいなどと言い出すのです……」

「グレイスがそう言ったのかい!?」

 驚きと、やや喜びの混じったようなクロードの反応に、ナージュは悲鳴ともとれる甲高い声をあげた。

「何を嬉しそうにしているんです! あの子は女の子ですよ!? もうお嫁に出しても良い時期に来ているというのに、今からグルノーブルへなど行ってどうするのです!!」

「あ……いや、そうだね……。グレイスが科学に興味を持ってくれたのかと思って嬉しくてつい……。あ、でも、どうだろう? グレイスが自分で言い出したことだし、この際だから好きなようにやらせてあげたら……?」


 柱の影から二人のやり取りを聞いていたグレイスは、クロードに心の中で喝采を送った。

(さすがとう様! もっと言ってやって!)

 しかしナージュは、クロードの思わぬ擁護に怒りの度合いを益々強めていく。


「つい、ではありません! あなたはグレイスの幸せを本気で考えていますの……? うっ……ううう……」

 ナージュの癇癪にはついに泣きが入り、いっそう手が付けられなくなってしまった。

「あああ……すまなかったよ……ナージュ……。でも大丈夫! グレイスは研究者として立派にやっていけるよ。その素質は僕が保証する」

 妻を気遣い優しく抱擁するクロード。だが、その首に手を回して締め上げるナージュ。


「いいえ、いいえ……あなたの魂胆はわかっていますのよ……。御自分が果たせなかった夢を、子供を使って叶えようとしているのでしょう?」

「ぐぇ。く、くるしいよ、ナージュ……」

 ナージュはクロードを放り出し、ゆっくり立ち上がって服装を正すと、きっ、と目を見開いて敢然と言い放つ。

「もう結構です。グレイスはわたくしが説得いたしますから、あなたは口をお出しにならないでください」

「けど、グレイスにも考えがあってのことだろうし、あまり頭ごなしに否定するのは……」

「口をお出しにならないでください!!」

「ご、ごめん!」

 平民出身のクロードは、この貴族生まれでやたらに気の強い妻ナージュには、まるで頭が上がらないのであった。

(父様の意気地なし……)


 ◇◆◇◆◇◆◇


 夜明けにはやや早い時間帯。深々と雪の降る枯れた草原を、グレイスは大きな荷物を背負って小走りに進んでいた。

(母様がわからずやなんだもの……! 仕方ないんだから……)


 馬を使えれば楽だったのだろうが、嘶きで家人に気付かれてしまうのは避けたかった。

 沁み入るような冬の空気も今のグレイスには心地よい。背負った荷物の重みを忘れるほどに、開放感に満たされ心は軽く弾んでいた。


(やっぱり家を出てきて良かった! こんなに気分が良いのは久しぶり!)

 息の詰まる屋敷の中に居ては感じることの出来なかった喜び。グレイスは久方ぶりに本来の自分を取り戻せたように思えた。

 二度とあの鬱屈とした日々に戻りはしない。


「私はこれから、自由になる……! 一人でも立派にやっていくんだから!」

 誰も居ない白い草原を走り抜け、小高い丘を一つ越えると目前に湖が広がる。陽が昇り、凍りついた湖面には眩い光が反射していた。グレイスは湖畔の風景を前に決意を固めた。

 そして再び、長く伸びる田舎道を走り始めた。

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