アカデメイアノーツ

山鳥はむ

序幕

第1話 抜け落ちた頁

 ――グレゴリオ歴、1837年。春の芽月ジエルミナール――


「本読んで、お母様ー。ねえお母様ー、この本ー!」

 来月の誕生日で三歳になる娘ルシフェラは最近、しきりに本の朗読をねだるようになってきた。


 私もこれくらいの年頃には本をよく読んでいた。娘もその気質を受け継いだのかもしれない。

 血は争えないということか。

 きっと本が大好きな少女へと成長していくに違いない。

 

 幼い娘が小さな両手で抱えてきたのは、分厚い辞書だった。

 背表紙には『アカデミー・フランセーズ辞典(第六版)』。

 よりにもよってこれを選ぶとは、やはり血は争えない。


 とは言え、いくら読書が好きでも三歳の子供にはつまらない読み物だ。

 保証できる。なにしろ私が学生時代に、卒業研究として編纂を手伝った辞書なのだから。


 とりあえず娘が飽きるまでは読み聞かせてやろうと、辞書を開く。

 娘は読み上げられた文章へ熱心に耳を傾け、意味もわからないままに挿絵を指さしてはしゃいでいた。



 この辞書を開くと、まるで昨日のことのようにアカデメイアでの学院生活の記憶が蘇ってくる。

 六年もの長い期間、毎日が新しい驚きに満ちた日々だった。


 頁を捲る内に、他の頁とはやや趣の異なる、人物や事件の固有名詞が単語として載せられている頁が出てきた。

 その頁は冊子として綴られておらず、かと言って本体の辞書から落丁した様子も見られない。

 何故そんなものが挟まっていたのか、事情を理解していた私はそれを見て思わず口元を緩めてしまった。


「お母様、この人だぁれ?」

 娘がその紙片に描かれたある人物の挿絵を指さした。

 その人物は学生時代の同期生だった。

 若かりし頃の肖像画。戯れに描かれたのはもう九年前になるだろうか。

 娘も会ったことのある人物だが、昔の姿とは結びつかなかったようだ。


 ふと懐かしさに胸が苦しくなり、半ば衝動的に私は昔の友人達に手紙を送りたくなった。

 また昔のように皆で集まって、茶会でも開こうか。

 娘の誕生日会とも合わせてやれば盛り上がることだろう。

 そして、この辞書を話の種にくだらないお喋りに興じるのだ。




 幾人か顔と名前を思い浮かべ……その内の一人に手紙が届かないことだけは少し寂しく想った。

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