27.

 サウビ自身が振り払われて、ノキエが自分を見失っていることを知る。意外によく笑う頬には、今何も浮かんでいない。ツゲヌイは呻き声を上げるだけで反撃できずにいるのに、投げ出された足を踏みつけている。ノキエの視線がツゲヌイの頭部に向けられて、サウビはツゲヌイの頭の上に覆い被さった。

 ツゲヌイを救おうと思ったのではない。ただ、ノキエに殺させるわけにはいかないと思った。サウビを引き剥がそうとするノキエの手を掴み、名を呼んだ。


 ノキエの力が緩み、サウビを見返す。それから自分の足と拳を交互に眺め、手を開いたり握ったりした。自分のしたことは理解しているのに、相手にぶつけた力に戸惑っているように見える。

 倒れたツゲヌイの横に尻をついて座るサウビをもう一度見て、ノキエは力無く首を横に振った。


 サウビが立ち上がるのを助けるために手を差し出したのだと、わかってはいた。それなのに掌を上に向けたノキエの手が目の前に来ると、サウビは竦んだ。

「悪かった。あんたには何もしないから、立ってくれ」

「助けてもらったのよ」

 おずおずとノキエの手に自分の手を重ね、サウビは立ち上がった。腰を痛めていないのは幸いだが、身体全体が鉛のように重い。よろめくと胸に抱きとられ、先刻には恐ろしかった男が懐かしくなる。

「ライギヒの家に運ぶ。イネハムは在宅のはずだから、ゆっくり怪我を癒してきてくれ」

 繋いだ馬の縄を外し、サウビを乗せようとする。

「待って。ツゲヌイをどうするの?」


 ノキエは薄く笑った。

「あれくらいでは、人間は死なない。あんたを送ったあと、僧院にでも連れていくさ。バザールまで連れてってやる気はないんでね」

 動けなくなっているツゲヌイをそのままに、サウビを抱えたノキエは馬に乗って、マントをふたり纏めて巻いた。身体が冷えていたらしく、サウビの強張りは少しだけ軽減されたが、その分痛みのある場所が際立ってくる。

「ライギヒの家はすぐ先だ。森に入る前に間に合って良かった」

 普段の声に戻ったノキエが言う。まるで自分が何もしていないかのように。


 自分を助けてくれた手は、対峙した男を傷つけた手だ。馬の腹を蹴る足で、男の頭を蹴ろうとした。腫れて熱を持った顔や肩の痛みとは別の恐怖が、サウビの中に芽生えてくる。もしもノキエが来なければ、自分がどうなっていたのか知れないというのに。

 イネハムに渡されたときにはサウビはすっかり混乱していて、言われるがままに着替えて顔に冷たい布を当てて横になった。

「あの男とロバを村に運ばなくてはならない。悪いが手伝ってくれ」

 ノキエの声が聞こえる。

「サウビは傷が癒えるまで、ここに置くのかい?」

 いつの間にかライギヒが帰っているらしく、男の声がする。

「それも頼む。マウニに見せるわけにはいかないから」

 男が二人出て行った気配があり、代わりのようにイネハムがサウビの休む部屋に入って来た。


 サウビの顔に軟膏を塗りながら、イネハムは小さく溜息を吐いた。

「おまえさんが運ばれてくるのは、二度目だねえ。こんな目に遭う人ってのは、何の廻り合わせなんだろうね。可哀想な子だよ、おまえさんもノキエも」

 ノキエの母の話は、おぼろげに聞いた。けれどノキエもそうだったのだろうか?

「大旦那さんが生きてらした時分には、あの男も猫を被ってたからね。ノキエの母親は嫋やかなお嬢さんで、おそらくあの男はすぐに自分の思い通りになると思ってたんだろ。だけどノキエの母親は、継承者の証を絶対に渡さなかった。私ら小作を守ってくれたのさ」

 イネハムはもう一度小さな溜息を吐く。

「ノキエは自己主張しないことで身を守ってたよ。マウニも可愛い盛りには、言葉を使わなくなってた。酷いもんだったよ。ノキエの背中に大きな傷があるのを知っているかい?」

 それは見たことがある。頷くサウビに、イネハムは続けた。

「あれはね、父親が泣いているマウニに振り上げた燭台を、ノキエが背中で庇った傷さ。それから一月も経ってなかったねえ」

 そんなノキエが、ツゲヌイに対してあんな暴力をふるう。サウビはますます混乱し、その夜はまんじりともせずに明かした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る