26.
ロバが止まり麻布が退けられると、日差しは遅い午後だった。
「用を足せ。借り物の荷車を汚すと、また余計な金がかかる」
まだ農地が続いている。木が数本並んでいて、おそらくこれは土地の管理の境目だ。
「見ているところでとは言わない。俺は優しいからな。そこの木の陰に入って、終わったらすぐ戻れ。逃げようとしやがったら、わかってるな?」
後ろで結ばれていた手が自由にされ、一定の姿勢を強いられて強張った身体がギシギシする。よろけながら指された場所に行って、足したくもない用を足した。そのときにやっと、自分の髪が下りていることに気がついた。
いつ解けたんだろう。荷車に放り込まれたときだろうか。簪は? 簪はどうしたろう。慌てて髪の中を手で探っていると、ツゲヌイの怒声が響いた。
「何をしてるんだ、グズ!」
腕を引かれたと思ったら、枯れた草の上に押し倒された。
「ずいぶん肉付きが良くなったじゃないか。商売女ばっかりで、飽き飽きしてたんだ」
スカートを捲りあげようとする手を蹴りつけると、圧し掛かられた形のままで顔に平手が飛んだ。
「この躾の悪い売女! 躾け直してやる!」
もう二度と、こんな男のカエルになどなるものか。ツゲヌイの顔に手を伸ばし爪を立てながら背中で下がり、身体の下から抜け出そうと藻掻く。爪の中に皮膚がめり込む感触があり、顔を覆ったツゲヌイの力が緩んだ。その隙に身体を起し、走り出そうとした瞬間に足首を掴まれ、引き摺られた。
腹の上に馬乗りになったツゲヌイの顔には、何箇所も血が滲んでいる。サウビを見下ろすのは悪鬼の表情だ。右、左と平手が振り下ろされ、乱れた髪が鷲掴みになる。
「この性悪女が。二度と逆らえないようにしてやるから、楽しみにしておけ」
拳を正面から受けなくて済むように、サウビは顔を背けた。
馬の息遣いが近くで聞こえる。それに、草を踏む足音。気がつくと同時に、ツゲヌイの身体が横向きに傾いだ。腰が自由になり、サウビは横に転がってツゲヌイの下から逃れた。
「俺の土地で何をしている」
低い声が上から聞こえた。体勢を立て直したツゲヌイが振り向く。
「何をする!」
「こちらが質問している。何故俺の土地に断りもなく入り、勝手な狼藉を働いているのか」
声の主の片手には、鞘がついた状態の剣鉈が握られていた。
サウビを庇うように立つ男のマントは、風に靡いている。対峙するツゲヌイは、後ろから殴られたことに腹を立てているようだ。
「俺はバザールから来た商人だ。女房があまりに言うことを聞かないから、躾けてやっている最中だ」
男にいきなり殴りかからない程度には、ツゲヌイは相手を見ている。が、ノキエはそれを鼻で嗤った。
「商人なら、許可証を持っているだろう。誰の許可で村に入った?」
「買い付けに来たんだ」
「ほう。荷車には何も積んでいないようだが」
言うなり、ノキエは剣鉈でツゲヌイを払った。
「何故この女は、こんなに傷だらけになっている? 馬よりも酷く打つほど、力があるようには見えん」
「それは俺の女房だ。殴ろうが殺そうが俺の勝手だ」
ツゲヌイの言葉が終わらぬうちに、また剣鉈が横に動く。鞘のままとはいえ、重さは充分にある。
「では、俺の土地を穢した男を俺が始末するのは、俺の勝手だろう」
今度は拳がツゲヌイの腹に入った。呻きながら崩れるツゲヌイを、次は蹴りあげる。そして仰向けに倒れた腹を踏みつけようとしたとき、サウビがそれに飛びついた。
「ノキエ、ノキエ! 殺してしまう!」
ノキエの表情は、完全に消えていた。
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