25.
頭の中が空になるというのは、あながち比喩でもないのかも知れない。硬直した身体は逃げ出すこともせず、声を出すことすらできなかった。
「やっと見つけたよ。叱らないから一緒に帰ろう」
その言葉も表情もサウビが森にいたころに訪れたツゲヌイのもので、一瞬夢を見たような気がする。離れた場所から手を差し出され、もう一度ツゲヌイの顔を見た。その途端、笑ったような表情でサウビを蹴りつけるツゲヌイの姿が蘇った。
逃げなくてはと心は焦るのに、花壇の通路の先にはツゲヌイがいる。枯れた花を踏み散らして逆方向に逃げると、一緒に庭に入ってきた男が待ち構えている。
せめて玄関の扉まで、中に入って閂を下ろすまで。動かない足を懸命に動かし、もうじき玄関前の煉瓦敷きに差し掛かるところで足が縺れた。
「逃げなくてもいいじゃないか。ここまで迎えに来たんだよ」
言葉だけは優しげだが、転んだサウビの手首を握る力は強い。
「酷い目にあっていないか、心配していたんだよ。さあ、おいで」
立ち上がって振り払おうとすると、逆に強い力で引っ張られた。声を出すことはできず、口から出せるのは荒い呼吸音だけだ。声は穏やかに聞こえるが、連れの男がサウビの後ろにまわり、逃げ出せないように退路を塞いでいる。
言葉での拒否の代わりのように頭を強く振ると、結った髪が解けて散る。ツゲヌイの手が振り上がったのが見え、次の瞬間に目の奥が赤くなって地面に倒れていた。
荷車の中に投げ込まれ、両手首を後ろでひとつにされる。
「逃がすか、このアバズレ。家の中に女がいなけりゃ外で買うにも金がかかる。北の森の布を買い叩けるように、手紙も出してもらわなくちゃならねえ。飯炊きと洗濯しか能がない田舎女を嫁に貰ってやったってのに、恩を仇で返しやがって」
身体の上におそらく麻だろう布が掛けられ、外から見ればツゲヌイは村の外の商売人が帰るように見えるだろう。
「勘弁してくださいよ、ツゲヌイさん。私は女が殴られるのを見るのは、好きじゃない。母親が散々殴られてたもんでね」
連れの男はノキエ以外の許可で商売をしているのだろう。この家がどんな家か知らず、ただ嗅ぎつけた場所にツゲヌイを案内してきただけのようだ。
「なんにせよ、下手に男が出て来なくて良かった。じゃ、私はここで」
連れの男は徒歩で庭を出て行ったのだろうか。荷車がゴトリと動き、ロバが歩き出したようだ。
この時間に村を出ても、夜までに街には帰れない。冬の草原の風を、毛織とはいえショール一枚で凌げというのか。口の中が鉄錆臭い。腫れてきた頬がズキズキ痛む。
あの時、姿を見た瞬間に走り出せれば。竦んでしまった足が縺れなければ、逃げられたかも知れない。まさか家にいて、庭で捕まるなんて。
街に連れ戻されたら、必ず以前よりも酷い仕打ちが待っている。頬を打たれただけで荷車に投げ込まれたのは、幸運としか言えない。馬乗りで殴られると思っていたのに。
幸運? ふとサウビは自問した。死ぬのを待つばかりだった自分が助け出されて、やっと感情を取り戻しかけていたのに、殴られただけで済んだことが幸運ですって? 違うわ。普通人間は、相手が言うことを聞かないからと殴ったりしない。子供のころ父さんに叱られて頬を打たれたことはあっても、それは自分が悪かったから。
私はツゲヌイに殴られるようなことなんて、何もしていないわ。家のことはすべてやったし、商売の手伝いもした。カエルだってとても嫌だったけれど、足をバタつかせて抗っていたわけじゃない。そうよ、殴られる理由なんて何もなかったのよ。
身体の上に乗せられた重い布が、息苦しい。何かが入っている布袋なのか、やけに圧迫される気がする。道を曲がった気配はないから、これはまだノキエの土地の中だ。日の傾きが見えないから、どれくらい時間が経ったのかがわからない。わかっているのは、このまま連れ帰られてしまうということだけ。
黙っていなくなったことを、ノキエとマウニはどう考えるだろう。せっかく助けて優しくしたのにと、がっかりするだろうか。それとも恩知らずと腹を立てるのか。
やっと連絡ができるようになった妹の、婚礼の報告は受け取れるのか。頭の中がとりとめなくなり、サウビは酷く混乱した。
幸福な景色を思い出すことができるようになったのに。大切な人の喜びを、共に喜べるようになったのに。また感情を失くしてしまうのは、嫌。
殴られるのなんて、罵声を浴びせかけられるのなんて、もう嫌!
殺されるくらいなら、殺してしまえ。ノキエの声が、泡のようにサウビの中に浮いた。
殴られたら、殴り返してみよう。たとえ敵わなくても、何もせずに壊れていくのは、もう嫌だ。
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