23.

 まだ身体の怠そうなマウニのためにマルメロの甘露煮と野菜スープを届けると、調度客があったようだ。籠を置いてすぐに出ようとしたら、呼び止められた。

「サウビ、あなたはバザールから来たの?」

 マウニの友人のその娘とは、何度か顔を合わせたことがあった。

「父がバザールに行ったとき、サウビという娘が草原の村にいないかと訊かれたらしいの。父はあなたの名を知らなかったから、若い娘を雇った家があると答えたって。誰かがあなたを探しているんじゃない?」

 誰かが私を探している。しかもバザールの中の誰かが。手が震え、机の上の蝋燭立てを落とした。金属の音が響き渡ったが、それはサウビの耳に聞こえない。足に力が入らない。

 急に蒼白になったサウビを、マウニが椅子に導いて座らせた。娘が、何事かと目を見開く。

「ねえ、あなたのお父様は兄の家を教えたりした?」

 マウニの質問に、娘は不機嫌そうに首を振った。

「知らないわ、そこまで聞かなかったもの。一体何があるの?」

 娘の質問の答えは、マウニの中にもない。


「悪いけど、今日はもう帰っていただいて良いかしら」

 マウニの言葉に娘は不本意そうに頷いて家から出て行ったが、それに対して申し訳なく思うこともできなかった。サウビの中には今恐怖が渦巻いていて、自分のことだけしか見えていない。

 あの男は街に戻ってから、やはりツゲヌイにサウビの居場所を告げたのだ。男と逃げたと探しているツゲヌイに。ツゲヌイの中では、ノキエはサウビの間男にされてしまっているのだろう。

「この前の市の日に、あなたは様子がおかしかったわね。あのときに何かあったのでしょう?」

 責める口調ではなく、心から自分を気遣ってくれるマウニには、今度こそ話さなくてはならないだろう。外面の良いツゲヌイに、うっかり騙されたりしないとも限らない。サウビの長い話がはじまった。


「兄さんがサウビを連れてきた理由がわかったわ。母さんと同じなのね」

 冷めたお茶がサウビの喉を通るころ、マウニはそう言った。もう夕暮れ近い。

「私は本当に覚えていないの。冬の悪魔に魅入られて死んだはずの母さんの遺体は、十四歳の兄さんが抱えて歩けるくらい軽かったと。元の肌の色がわからないほど痣だらけで、積み重なった傷跡が服の中にたくさん隠されていて」

 背筋がぞくりとした。自分の身体に傷の痕がないのは、ツゲヌイがケチだからだ。おまえを打つために壊したりしたら金の無駄だ、と言われた記憶がある。もしも人間を叩いてもビクともしないものが手近にあれば、間違いなくそれを使われたろう。

「母さんは逃げられなかった。ここは母さんの土地で、母さんがいなくなれば、たくさんの人が困窮することをわかっていたから。父を継承者にしないためにだけ、生きていたようなものよ」

 マウニはサウビの手を握った。

「だからサウビ、私はあなたを守るわ。人間を拳で従わせることを許しては駄目」

 力強いマウニの瞳に勇気づけられ、サウビも顔を上げた。ここに自分を大切に思ってくれる人がいる。


 暗くなった道を急ぎ、灯りのついている食堂に入ろうとすると、マントを纏ったノキエが出ようとしていた。

「こんな時間からお出掛けですか」

「あんたがあまりに遅いんで、探しに行くところだった」

「マウニの家にいましたのに」

「あんな近くに出て遅くなったら、何かあったのかと思うだろう」

 自分は何も言わずに遅くなったり作業場に籠ったりするのに、同居している人間の動向は心配するらしい。

「こんな穏やかな村ですもの。何もありません」

 人々は穏やかで、暮らしぶりは静かで豊かな村なのだ。それでもノキエとマウニの父親のような人間は、どこかで育つ。

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