19.

 ライギヒの上の息子がバザールで店を持っていると知ったのは、冬になってからだった。ギヌクとマウニの婚礼の宴に出席しなかったのは、その日に自分の商売上の大きな取引があったかららしい。玄関のタイルが割れているとサウビが気にしていると、新しいものが数枚届いて、それがライギヒの息子の商売品だった。

「家の仕事を息子たちに手伝わせないの、ライギヒ?」

 持ち込んだタイルを降ろしているライギヒに、マウニが質問する。ギヌクの嫁になると決めたときに、ライギヒの家の近くに家を建ててもらうつもりだったと。それなのにギヌクは間借りしていた場所の近くに家を持ってしまったので、結婚してからイネハムに家のことを教えてもらうつもりだったマウニは、驚いたのだと言った。

「自分の土地を持っていないってのは気楽なもんさ。子孫に残すものがなければ、好きな場所に行かせることができる。俺も流れ者だった」

 ライギヒはノキエの土地を耕しているだけで、ここに自分の根はないと言っているのだ。それを気楽と考えるか不安定と思うかは、本人次第だ。


「火の村を出てきた俺の息子が、火の村で作ったものを売るようになったっていうのも、何かの巡りあわせかも知れないな」

 火の村の場所を、サウビは知っている。北の森の西に位置する、同じように寒い場所だ。

「ライギヒは火の村で育ったの?」

 サウビが質問すると、マウニが驚くような言葉を発した。

「私は十二になるまで、兄さんとその村にいたのよ。ライギヒの弟さんが、空いている家を貸してくれたの。兄さんが土地を継承できる年になってここに戻って、父を追放したんだわ」

 驚いたサウビの顔を、マウニが微笑んで見返す。ライギヒは何も言わなかった。

「母さんの葬式の晩にライギヒが手引きしてくれて、私と兄さんは逃げ出せたのよ」

 母の葬式の晩に逃げ出し、父を追放する。たくさんの想像がサウビの頭の中をめぐり、言葉が出ない。瞳に光がなくなった顔とイネハムが言っていたのは、マウニとノキエの母親だったのか。


 詳しく訊ねることもできずに、ライギヒが置いて行ったタイルを玄関の隅に積んだ。職人を呼ぶのかノキエが作業するのかは、まだ確かめていない。ライギヒが帰った後にしばらく留まったマウニも、できあがった食事を籠に収めると帰ってしまった。

 サウビは植物が雑然と植えられている庭に立って、冬の風を身に受けた。自分が知っている世界は狭い。そして狭い中にも、更に知らないことがある。

 たくさん咲いていたはずの花はもう終わりなのに、赤い色が目の端に映った。確かめるために頭を巡らせると、季節を間違えた薔薇の蕾が、開こうとしている。冷たい風に揺れる茎に、盛りより小さな赤が解けようとするさまが、とても健気に見えた。


 食事の支度が済んだころ、作業場に灯りが見えた。ノキエがまた籠ってしまったらしい。森にいたときも新しい織柄を考えついた母が、やはり夢中になって機に向かうことがあった。ものを作るという意味では、同じことなのかも知れない。母の機の技術を受け取らず、ただ街の贅沢な暮らしを喜んだ娘は、愚かだったのだろうか。


 籠に夕食を詰めて作業場の扉を開けると、ノキエは手前の部屋の机の上で何やら絵を描いていた。集中した横顔の邪魔にならぬように机の横の置台に籠を置くと、ノキエは今気がついたように顔を上げた。

「ああ、ありがとう」

 それだけ言ってペンを握りなおすと、また絵の上に向き直る。ペンの色だけで描かれているのは、花のような形に見える。これは何かの飾り物になるのだろうか。見ていたい気はするが、ノキエがそれを喜ばないことは、考えなくてもわかる。なるべく音を立てないように場を離れ、ドアを開けた。

「サウビ」

 背を丸めたまま、ノキエは声を掛けた。

「北の森の春には、どんな花が咲くんだ」

 ああ、春。北の森の春は。

「大きな木の枝に、葉に先駆けて薄紫の花が咲きます。天を覆うように咲き誇ったあと、落ちた花が地を覆う。数日間の夢を見て、春が訪れます」

 美しい夢のあとに木々が芽吹き、作物が育ち始める。待ち望んだ春の風景。目蓋の裏にうっとりと、暖かい日差しが満ちてくる。ふと我に返れば、ノキエがこちらを見ていた。

「あんたは幸福な記憶を持ってる。それを忘れなければ、また幸福になれる」

 ノキエが発した言葉の意味は、ノキエにしかわからない。曖昧に頷き、サウビはドアを開けた。

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