10.
家の中を案内されたあと、マウニとサウビはまた食堂で向かい合った。
「忘れるところだったわ。ボロ布と黒いスカート!」
マウニは頓狂な声を上げる。
「女なら大切なことですものね。黒いスカートは何枚かあるけれど、私が使っているものでは気持ちが悪いかしら」
言われてからはじめて、自分の月経が止まっていることに気がついた。もう一年以上、ボロ布を当てることも黒いスカートを穿くこともなくなっている。あとで部屋に届けるというマウニの言葉に生返事をして、記憶を覗き込む。そして覗き込んだ記憶の中に見るのは、部屋の隅に逃げようとする自分の髪を掴む、笑ったようなツゲヌイの顔。途端に息が苦しくなり、胸を押さえた。
「真っ青よ、どうしたの」
慌てて差し出されたマウニの手に縋り、座った姿勢を保つ。大丈夫、ここにはツゲヌイはいない。
「疲れちゃったのね。夕食まで休んでて」
自分にあてがわれた部屋に連れていかれ、寝床に腰掛けさせられた。
「お手伝いは」
「明日からにしましょうよ。兄さんだって、今日は出てこないわ」
マウニの言葉と共に扉が閉まり、サウビは部屋に取り残された。
ポツンと部屋に座って見るともなしに外を見ていると、ロバと荷車があらわれ、ライギヒが家に入っていくのが見えた。挨拶に出ようかと逡巡しているうちに、何かを抱えてまた出ていく。
私を置いて帰ってしまうのか。たった数日の滞在だったのに、竈の前に立つイネハムが恋しい。捨てられてしまった気分になることは間違っているのに、胸が締め付けられる。
母さんに会いたい。見栄っ張りのツゲヌイは、私を売ったなんて言わないだろう。愛想よく元気にしていますよなんて言って、また母さんが私のために用意したものを、喜んで受け取るに違いない。母さんが織った布で、母さんが仕立ててくれた何かを。
自分の身に着けているスカートを、サウビは見下ろした。母と自分だけの刺繍を指でなぞり、小さく呻き声を漏らす。幸福で豊かなはずの生活は、虐げられ蔑まれる日々に代わり、今度は知らない土地に買われてきた。
秋の陽射しは傾きはじめ、サウビは動けないままそこに座っていた。
「動ける? 食事は摂れるかしら」
ノックの音で眠っていた自分に気がつくなんて、なんて不用心なんだろう。イネハムの家にいたときから、自分でも驚くくらい眠っている時間が長い。夜遅くに酔って帰宅したツゲヌイに寝床の世話をしても、朝は鶏が啼く前に起き出して家の中と店の支度をしていたのに。手が離せないときに言いつけられたことができないと蹴られるからと、できることはすべてツゲヌイの眠っているうちにしなくてはならなかった。
ドアを開けると、マウニが笑顔を見せた。
「暗くなる前に、食事しちゃいましょ。今日は私じゃなくてイネハムの料理だもの、美味しいはずよ」
支度してもらったことに礼を言い、一緒に食堂に入る。整えられた食卓は、香辛料で柔らかく煮込んだ肉や青々とした野菜が並んでいるが、ふたり分だ。もうひとりは、とキョロキョロ見回すと、マウニは横に除けてある籠を手に取った。
「これが兄さんの分。食事が終わったら場所を教えるわ」
わざわざ火にかけて温めたらしい料理は、素晴らしく美味しかった。なるほどこれは昨日、イネハムが何度も竈の火を確認して煮込んでいたものだなと、サウビは嬉しく口に運ぶ。
「サウビ、お料理は好き?」
「……好き?」
鸚鵡返しに返事をしても、自分の中に答えが見つからない。好きとか嫌いではなく、しなくてはならないものだった。気に入らなくて鍋ごと投げられたことはあっても、料理をしないなんて選択肢は見当たらなかった。
「私は苦手なの。だから兄さんはいつも、塩漬け肉とパンとチーズしか食べてないわ」
マウニはくすくすと笑う。
「だから私の夫になる人は、可哀想。サウビがお料理を好きなら、教えてもらおうかなって」
それからふっと真面目な顔になって、マウニは言う。
「四つの歳から、兄さんとだけ暮らしてきたの。普通の娘が母親から受け継ぐ料理も針の技術も、何も知らないんだわ。ねえサウビ、嫁入りのスカートを縫いたいの。兄さんが街で買って来てくれた刺繍のスカート地を仕立てられる?」
そういえば、薄れる意識の中でスカートという言葉を聞いたような気がする。
「普段の服はどなたが?」
「イネハムが。でも今回は特別な布だから縫えないって。仕立て屋は街に行かないといないのに、兄さんは私に布だけよこして、作業場に籠っちゃったのよ」
ぷっと膨れた顔が、北の森の妹を思い出させた。
「明日、布を見せてください」
サウビの言葉に、マウニの瞳が輝いた。
「いけない! 兄さんに食事を届けなくちゃ。サウビも来て頂戴」
籠を持ち上げたマウニが、食堂から外に通じる扉を開けた。木を何本か隔てて、石造りの建物がある。窓がときどき赤く映るのは、火でも扱っているのだろうか。その建物の扉を開けると、ガランとした部屋の中に古いテーブルと椅子が置かれており、棚には至る所に色ガラスで作られたランプや置物が乗せられている。奥の扉からは、何か鋭い音が聞こえる。
机の上に籠を置き、代わりに空になった籠を引き上げる。
「作業小屋に籠っているときは、食事はここに置くのよ。ときどき食べ忘れて、前のものが残っていることもあるけど」
首を竦めて、場所だけを指示する。
「声を掛けてはだめ。気が済んだら、自分から出てくるから」
そう言って、そっと作業場を出る。もうじき、日が暮れる。
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