6.
辛うじて一本の腕でノキエに縋っているだけだが、後ろからサウビを抱える胸が身体を安定させた。暗くなり始めた森の中の気温は低い。ランタンが必要になる前に抜けなくてはならないと、臆病な馬を宥めながら進む。どこかで夜の鳥が鳴きはじめ、不安が募るころに木が薄くなった。
「間に合ったな。もうじき休ませてやれる。腹は減っていないか」
腰の痛みが背中にまでまわり、口を利くことができない。サウビの苦悶の表情に気がついたか、ノキエは灯りをつけた小さな家の前で馬を止まらせると、大きな声で中の人間を呼ばわった。出てきた男にサウビを渡し、馬房に向かう。
サウビを受け取った男が年配の女に指示し、狭い部屋に寝床が作られる。その間サウビは、苦痛のあまりなされるがままだった。失神するほど殴られたり蹴られたりしたことは、何度もある。腫れあがった顔のまま髪を掴んで振り回されて、それでも翌日には立ち上がらなくてはならなかった。こんな風に丁寧に寝床に横たえられるなんて、想像すらしたことはない。
「ノキエは今、馬の汗を拭いてやってる。何があったんだか知らないが、とりあえず休んでおいで」
食事のできる家だとは聞いていたが、ここはノキエの知り合いの家らしい。部屋の中を見回す余裕もなく、サウビは目を固く瞑り、歯を食いしばった。
声を出して呻いてはいけない、ツゲヌイにまた殴られるから。ツゲヌイはここにいないのに、身体の中に染みついた怯えが血液のように循環する。ドアが開いて誰かが入って来た気配があるが、そちらを確認する余裕なんてなかった。
「これで足りるかどうか。男がいてはまずいだろうから、俺は向こうにいる。頼む」
草原で嗅いだ匂いが部屋の中に入ってきて、ノキエの声が聞こえたあとにまたドアが閉まった気配がした。サウビの肩に手が掛けられ、女の声がする。
「肌寒いかも知れないけど、ちょっと服を持ち上げさせとくれ。具合がどんなだか、見なくちゃいけない」
スカートを緩めてブラウスを引き出し、肌着を持ち上げられる。
「ああ、こりゃひどい。赤黒いのと紫のと。よく草原を抜けて来たねえ」
そう言いながらサウビをゆっくり俯せにし、腰から背に薬草を乗せて布で巻いた。
「ずいぶん痩せてるね、胸なんかぺったんこじゃないか。スカートを二枚重ねるのは街の流行りなのかい」
母のスカートを重ねたことを、すっかり忘れていた。母から贈られたものだけは持ち出せたのだと、心の中で溜息を吐く。またゆっくりと身体が戻され、冷たさが心地よく呼吸が少し楽になる。
「この軟膏は傷に効く。ちょっとピリピリするだろうけど、我慢しとくれ」
顔にも強いにおいの油が塗られ、サウビは目を開いた。
「ありがとうございます」
絞りだした声に、女が微笑んだ。
「ノキエの客人は、私らにも客人さ。そして客人は、丁寧にもてなすものさね」
客人ではない、買われた女だ。ノキエがどんな風に言ったのかは知らないが、弱った女を担ぎこんだのは確かで、急に部屋を用意させたのだって迷惑でないはずはない。それなのにこの甲斐甲斐しさはどうだ。まるで北の森にいたときのようではないか。
街ではみんなサウビに同情の目を向けて、こっそりと助けてくれようとはしていたが、表立って庇ってくれる人はいなかった。それはツゲヌイがいたからだ。サウビを庇おうとすればツゲヌイを批判することになり、そうなると責められた理由であるサウビが余計憎くなる。そこで身を挺して守ろうとしても、金を持っているツゲヌイに対立すると親族まで巻き込むことになる。
目を閉じてそこまで考えを巡らせると、ツゲヌイから離れることができた安堵が、深い吐息になった。今だけでも、少し夢を見よう。明日になればまた、同じように虐げられる日が来るとしても。
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