5.
丈の高い草の中には、ときどき数本の樹木が日陰を作っていた。冬になる前に咲く黄色い花が連なり、黄金の海のようだ。旅人だけが歩く一本道を、男は黙々と歩く。どこへ行くのかと訊ねたくとも、サウビは北の森と街以外は知らないのだから、答えを聞いた所でわからない。それに、と思う。ツゲヌイにそんな質問をしようものなら、余計なことを答えさせるなと頬を打たれただろう。この男がそうではないと、誰が証明できるだろう。金で女を買った男が、女を人間扱いしないのは当然ではないか。馬に揺られながら、サウビは風に揺れる花を見ていた。ミツバチがせっせと蜜を集め、忙し気に飛び回っている。
男は一本の木の下で、足を止めた。
「ここで少し休む」
口数少なく言って、サウビが馬から降りるのを手伝った。抱き留められた胸は、思いの外厚い。自分は木の下にどさりと座り、水を入れた陶器の栓を外してサウビに差し出した。それを受け取って良いものかと逡巡するサウビに、短く言う。
「飲んで、腰を休めてくれ。暗くなる前に次の森を抜けたい」
どれくらい離れた場所に行くのだろうか。どこに連れていかれて、何をさせられるのか。
「森を抜けてしまえば、食事のできる家がある、疲れているだろうが、明日の午後には俺の家に着くはずだ」
立ったまま動けずにいるサウビに、男は言った。
「あんたの持ち主の命令だ。この草の上に横になって休め」
男は近くの草をいくつか千切って揉み、サウビの袖をめくりあげてから、それを当てて布で縛った。
「冷たいだろう。この草は腫れに効くんだ」
そう言って自分は横になり、小さく寝息を立てはじめた。
草を渡ってくる風が、サウビの頬を撫でる。強張った身体を左右に揺すると、蹴られた腰が鈍く痛んだ。眠っている男は目蓋越しの陽射しが眩しいのか、眉間に皺を寄せている。
とても不用心だ、とサウビは思う。男が眠っていれば逃げ出すことはできるし、スカートの中にナイフを隠し持っていれば、胸を一突きして腰に下げた革袋を奪うかも知れない。けれど、行動を起こそうとしたときに気がつかれたりしたら? そう思っただけで、背筋が凍った。実際のところサウビはナイフを隠し持ったりしていないし、逃げ出したとて行く場所はないのだけれど、自分がそう考えたことを知られるだけで折檻があるような気がする。男が大きく伸びをするとサウビは全身を硬くして、木の幹に寄り添った。
「あんたの名前を訊いてなかった。俺はノキエだ、あんたは」
「サウビです」
サウビの腕に巻いた薬草が熱を吸ってしまったのを確認して、ノキエは新しい草を揉んでもう一度縛る。
「身体は休まったか。行くぞ」
サウビの怯えた仕草に頓着せず、ノキエは草を食んでいた馬の手綱を引いて、乗るように言う。自分が乗ってサウビを歩かせようとは、思ってもいないらしい。
「座るのが辛くなったら、早めに言ってくれ」
一言だけ言い捨てて、ノキエは歩き出す。遠くの森に続いているだろう道はただただ穏やかに黄色の花が咲き、風に揺れる細長い葉を持った草が穂を伸ばしている。旅人が羽織る風除けの布が時折はためき、腰の剣鉈に絡みつく。
どこに連れていかれ、何をさせられるのかわからない。おそらく美しいだろう風景は、サウビの心にはまるで響かない。そんなものを感じる心は、三年の間に潰れてしまっていた。
森に入る前の小さな湧き水で馬に水を飲ませると、すぐに出発する予定だった。けれど馬を降りたサウビは、立ち上がることができなかった。痛めた腰がどうしても言うことをきかず、膝を折り曲げたまま途方に暮れていると、目の前にノキエの腕が見えた。
このグズの役立たずが! ツゲヌイの声が耳の中に蘇り、身を竦めて頭を抱えるサウビは、次の瞬間ひどく混乱した。ノキエがサウビを横抱きに抱き上げたからだ。
「年寄りの馬には気の毒だが、少し重い思いをしてもらおう。俺の首にしっかり腕をまわしておけ」
サウビの腕を自分の首に誘導し、ノキエはそのまま馬に乗った。
「辛いか。半時ほどで森を抜けられるはずだから、こらえてくれ」
気遣わし気なその言葉に、ますます混乱する。何故、罵らないの。何故、思い通りにならぬと叩かないの。何故、酷いことをすると脅さないの。何故、何故、何故。
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