最終話
流里さんたちの予想通り、私の勘違いだったと決まったわけではない。それでも、このまま晃子さんのことを避けているべきではないと思った。少しでも早く晃子さんとちゃんと話がしたい。
それに、もしもこのまま実家から戻ってこなかったらと思うと怖かった。
本当にすべてが終わってしまう気がした。
流里さんに教えてもらった住所を目指して、私は電車に飛び乗った。
そして、長い時間電車に揺られて辿り着いたのは、のどかな電影風景が広がる場所だった。
私はスマホの地図を頼りに晃子さんの実家へと向かう。
駅からしばらく歩いた場所で、無事に『鍋島』という表札のかかった家を見付けることができた。
家の前まで来たけれど、いきなり訪問すれば驚かれるに決まっている。
ここまで来て呼び鈴を押す勇気がモテず、私は門の前で玄関を見つめてたたずむことしかできなかった。
すると家の中から怒声が聞こえはじめた。
「だからっ! 何度言ったら分かるの? 倒れたなんて嘘までついて、本当にどういうつもりなのよっ」
明らかに晃子さんの声だったけれど、こんな風に怒鳴っている声を聞いたのは初めてだったから少し驚いた。
「あんたがいつまでも結婚できないからお見合いさせるんでしょ!」
晃子さんの声を追うように聞こえたもうひとつの声は晃子さんの母親だろう。晃子さんの声とよく似ている。
「私は結婚できないんじゃなくて、結婚しないの! 私は女が好きだって何度も言ったでしょ! 男と結婚するつもりなんて全くないから!」
「そんなのしてみなきゃわからないでしょうがっ! 嫌いだと思ってたものでも、食べてみたらおいしいってこともあるんだから」
「食べ物の好き嫌いと一緒にしないでくれる? ピーマンじゃないんだからっ。男と結婚しないのは食わず嫌いじゃないから!」
「そんなん食わず嫌いだろうよ!」
「違うって言ってるでしょっ! それで言うならアレルギーよ。甲殻類アレルギーとか蕎麦アレルギーとかと同じよ。完全に受け付けないの。男と結婚なんて命に関わるのよ! 精神的に」
そんな晃子さんの声のあと、どんどんと踏みしめる足音が聞こえた。
「ちょっと、どこに行く気だい」
「帰るに決まってるでしょう。仕事だってあるんだから!」
私は慌てて門塀の影に身を潜めた。
それとほぼ同時に玄関が開け放たれる。
ヒールが折れるのではないかと思う程、強く踏みしめる足音がどんどん近付き、門扉まで辿り着いた。
「え?」
私の目の前まで来た晃子さんが足を止めて私の顔を見つめた。
目が大きく見開かれていて、その表情が驚きなのか呆れなのかわからない。
「えっと、あの……」
私も何を言っていいのかわからなかった。
晃子さんは玄関の方をチラリと見ると私の手を取った。
「ここにいるとうるさいのに見つかるから行きましょう。話は後で聞くわ」
そうして晃子さんに手をひかれて、私たちは駅へと向かった。
駅までは黙々と歩き、ひと言も言葉を交わさなかった。
駅のホームで電車を待つ間も、ひどく重苦しい空気が募っていく。
何か言わなければと思うけれど、何の言葉も出てこない。
その重みに耐えかねたのか、もしくは諦めたのか、晃子さんが小さく息をついた。
「もしかして、さっきの……聞こえてた?」
「えっと……うん。……晃子さんがあんな風に怒ることがあるなんて思わなくてびっくりした」
「私だって怒ることくらいあるわよ。んー、むしろ短気だと思うわよ。ただ、いつも怒ってると体力が持たないから、うまくかわすクセがついただけ。あの母親と何年も一緒に暮らしてたのよ」
そうして晃子さんが力のない笑みを浮かべたときに電車が到着した。
電車に乗り込むと、空いた車内の端の席に並んで座る。
せっかく晃子さんが話し掛けてくれたのに会話が途切れてしまった。
話したいことはたくさんあるのに言葉が出てこない。
晃子さんは窓枠に頬杖をついて車窓を眺めていた。
このまま黙っているわけにはいかない。
「あの……」
とにかく何かを話そうと私は声を掛けた。
「なに?」
晃子さんは車窓を眺めたまま答える。
「前の彼女とよりが戻ったの?」
色々考えたけれど、その質問しか出てこなかった。
「はぁ?」
晃子さんは眉根をギュッと寄せて振り向いた。表情がいつもよりも厳しい。
そんな表情に自分でも気付いたのか、晃子さんは指先で眉間をさすって表情を和らげると改めて私を見て言った。
「どうしてそんな話になってるの?」
「この間……偶然に晃子さんと子連れの女性が話しているのを聞いちゃったの……。晃子さんが、あなたもあなたの子どもも愛してあげるって言ってるのを聞いたよ……」
晃子さんは目を見開いた。そしてマリアナ海溝よりも深そうなため息をついて体をかがめて頭を抱えた。
そして座席とほぼ同じ高さで頭を抱えたまま「もしかして、連絡をくれなくなったのはそのせい?」と聞いた。
「うん……。元カノとよりが戻ったのなら……私は必要ないと思って……」
すると晃子さんは座席の下に潜り込むんじゃないかと思うほど、さらに体を丸めて深い深いため息をついた。
数秒間そのままの姿勢で固まっていたけれど、ゆっくりと体を起こして私の顔をジッと見つめる。
「元カノに会っていたけれど、よりを戻す話はしてないわ。もう会わないし、連絡もしないって言いに行ったのよ。……まさか、あなたが聞いているなんて思わなかったし」
決別の言葉がどうして私が聞いた言葉になるのかよくわからない。
それでも晃子さんの今の言葉は嘘ではないと確信できた。
だから「本当に?」なんて確認の言葉は必要ない。
「あなたがいるのに元サヤなんてあるはずないでしょう」
「でも……晃子さんが私を好きでいてくれるのかわからないし……」
私ははじめて自分の中にあった不安を晃子さんに伝えた。
「え? どうして?」
晃子さんは心底理解できないといった顔で首を少し傾げた。
「どうしてって……。晃子さん、一度も好きだって言ってくれないじゃない」
「そうだっけ?」
「そうだよ、流里さんには大好きとか言ってたのに、私には一度も好きだって言ってくれないから」
「流里さんは、好きって言うと心底嫌そうな顔をして面白いからで……でも、言わなくても分かるでしょう? デートしてたし、それ以上もしてたでしょう?」
「だ、だから……セフレと思われているんだと……」
「あのね、いくら私でも、好きでもない相手と寝るなんて……たまにしかないわよ」
嘘つきの晃子さんは、そんなところだけ素直に言っちゃうのか、なんて思ってしまった。ここは嘘でも「寝ない」と言い張った方が良いところだと思う。
少し空気が軽くなる当時に、なぜか晃子さんの表情が少し暗くなった。そして先ほどと同じように車窓に視線を移して頬杖をつく。
「私のことより……楓子の方が……」
「私?」
「客演していた劇団の男の人と付き合うことになったんでしょう?」
その言葉に私はドキッとした。
「どうして……知ってるの?」
「楓子が連絡をくれないのはお稽古がそれくらい大変なんだと思ってたのよ。だから、千秋楽の日、打ち上げが終わる頃に楓子の家に行ったの」
あのとき晃子さんの幻影を見たと思っていたけれど、本物だったようだ。
「よかったじゃない。演劇をやっている同士ならあなたのことも理解してもらえるだろうし、チラッとか見ていないけど、イケメン風だったし。男の人と付き合えるならその方がいいと思うわ。私のことなんて、なかったことにしちゃいなさい」
晃子さんはそっぽを向いたまま一気に言う。口調はいつもの晃子さんのままだ。嘘つきの晃子さんが嘘をついている。
「私、アレルギーになったみたい」
私は言う。
晃子さんは怪訝な顔をして私を見た。
「晃子さんにフラれたと思ってたから、付き合ってもいいかなと思った。晃子さんと出会う前は男の人と付き合ってたし、大丈夫だと思った。だけど、抱きしめられて、キスされそうになって、ダメだ気付いたの。だから、すぐに付き合うって言ったことを撤回した」
私は晃子さんの手を取って続ける。
「晃子さんは男性を受け付けないアレルギーかもしれないけど、私は、晃子さんのせいで、晃子さん以外は受け付けないアレルギーになちゃったんだよ。晃子さんよりもずっとひどい症状だよ。だから晃子さん、責任を取ってよ」
晃子さんは「アレルギーって」と言いかけて口をつぐむ。母親との口論で言ったことを思い出してくれたのだろう。
そして私の手を握り返して「それは……仕方ないわね」と言って窓の外を見てしまった。
そのまま、何も話さず手をつないだまま電車に揺られているうちに、電車は晃子さんの自宅のある駅に到着した。
晃子さんは私の手を離して大きく背伸びをする。ずっと繋いでいて汗ばんだ手が風で冷やされる。
「ふう、疲れた。帰ってぐっすり眠りたい」
冷たくなった右手に名残惜しさを感じながら、晃子さんの後ろ姿を見つめていると、晃子さんがクルリと振り返った。
「家に帰ったら、すぐに寝ちゃうけど、それでもよかったら来る?」
「行く」
私は即答する。
「眠るだけだからね」
「分かってる」
答えながら再び晃子さんの手を握った。私の右手に温かさが戻ってくる。
「そういえば、まだ晃子さんに好きって言ってもらってない」
「それは言わなきゃダメなの?」
「逆にどうして言ってくれないの?」
「そんなの、恥ずかしいからに決まってるじゃない」
晃子さんが少し頬を赤くしてそっぽを向く。この言葉は本心のようだ。
嘘と本音が入り混じる晃子さんの言葉の真意を見抜くのは難しそうだ。だけど、それもまた楽しいと思った。
ちなみに「眠るだけだからね」の方は嘘だった。
おわり
【ワタシのセンセイ外伝2】 嘘と真実とアレルギー 悠生ゆう @yuk_7_kuy
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