第6話
家を出た私は、目的地も決めずに気の向くままに足を進めた。
日中は仕事、夜は稽古場という生活が続いていたから、こうしてのんびりと歩くのは久しぶりだ。
晃子さんと会えないことで、少し気持ちが落ち込んでいたけれど、明るい太陽を浴びて歩いていると少しずつ気持ちが晴れてきた。
なんだか気分が乗ってきたから、私は電車に飛び乗り、適当な駅で降りて知らない街を散策することにした。
適当な駅といっても、本当に適当という訳ではなかった。
電車に乗っているとき、この駅名が目に入って降りてみようと思ったのだ。
以前、何気ない話の中で、晃子さんがこの辺りに住んでいたと聞いたことがある。駅名を見たとき、晃子さんがどんな街に住んでいたのか、ちょっと覗いてみたくなったのだ。
駅前はにぎやかな商店街だった。
五年前の晃子さんもこの場所で買い物をしていたのだろう。
五年前といえば晃子さんは二十五歳。今の私よりも年下だ。若い晃子さんはどんな風にこの街で過ごしていたのだろうと想像すると、少し楽しくなってきた。
そのまま商店街を進んでいくと、次第に閑静な住宅街へと変わっていく。
晃子さんがこの駅周辺のどの辺りに住んでいたのかは知らないけれど、もしかしたらここに立ち並ぶマンションやアパートのひとつに住んでいたのかもしれない。
辺りを見回しながらそんなことを考えていると、知らない晃子さんを覗いているような気がして、小さな罪悪感が浮かぶ。
これはただの散歩だから。ストーカーじゃないし。頭の中でそんな言い訳をしながら、私はさらに足を進めた。
しばらく進むとよく整備された公園に突き当たった。
私はそのまま公園の中に足を進めた。
いくつかの遊具で子どもたちが遊んでいる。街中にある公園にしては広くて、演劇の自主トレにも良さそうな場所だなと考えながら公園をグルリと見渡した。
そんな公園の端の一角に、よく知っている姿を見付け心臓が飛び跳ねた。
少し遠いけれど、晃子さんの姿を見間違うはずがない。
晃子さんは見知らぬ女性と一緒で、女性の側には三歳か四歳くらいの子どもがいた。
晃子さんの言った「先約」とはこの女性のことなのだろう。
友人と会って話をしているだけにも見えるけれど、私はそう思えなかった。
晃子さんの前の恋人が結婚し、子どもを産んでいることを知っていた。笑い話のように聞かせてくれたけれど、私は晃子さんがそのことでとても傷ついていると感じた。
もしもただの友だちでなく、その子どもを連れた女性が晃子さんの元恋人だとしたら、どんな用事で会っているのだろう。
穏やかな笑みを浮かべる女性の横顔に胸がモヤモヤする。
晃子さんたちと私の距離は遠いから、姿は見えるけれど声は聞こえない。それでも、その様子から喧嘩や口論をしていないことはわかった。
並んで立っている二人の姿はとても自然で、とても別れた恋人同士には見えなかった。
私はいけないことだと思いつつも、どうしても我慢ができなくて公園を回り込むようにして、二人に気付かれないようにギリギリまで近付いた。
二人の声が何とか届く木の陰に身を潜める。
これでは本当にストーカーみたいだと思いながらも、どうしてもやめることができなかった。
晃子さんと向かい合って話している女性は落ち着いた雰囲気で、大人の女性という感じがした。
晃子さんは年下好きかもしれないと思っていたけれど、元恋人の姿を見る限り、その予想は外れているみたいだ。
「やっぱり子どもはかわいいわね」
晃子さんの声だ。
「私の子どもよ。かわいいに決まってるじゃない」
女性は笑いを含んだ声で答える。
「まあ、それは否定しないでおくわ」
晃子さんも笑いながら言った。
「それで晃子、さっきの話だけど……」
「ああ、うん。そうね、今ならあなたもあなたの子どもも愛してあげられるわよ」
「本当に、あなたのそういうところは、全然変わらないのね」
耳の奥がジンと痛む。
今の会話の意味は考えるまでもない。晃子さんは、前の恋人とよりを戻すつもりなのだ。
大声を上げて二人の間に割って入りたかった。
晃子さんを捨てたくせに、今更よりを戻そうなんてなんて図々しいんだと、女性を罵りたかった。
私がいるのに、なぜそんな女を選ぶんだと、晃子さんを責めたかった。
だけど私にそんな資格はない。
私にできたのは、晃子さんに気付かれないようにその場から逃げることだけだった。
その日の夜、晃子さんから電話がかかってきた。
だけど復縁を告げられるのか、もう会わないと言われるのか、いずれにしても、晃子さんから決定的なひと言を聞くのが怖くて電話にでることができなかった。
これまで晃子さんから来た連絡を無視したことはない。仕事とかお稽古とかで電話に出られなかったときでも、折り返すかメッセージを送っていた。
だけど今回は何のリアクションも返していない。
電話の後、『忙しい?』と届いたメッセージも、既読を付けずにそのまま放置してしまった。
私が反応を示さないことに対して、晃子さんはどう思っているのだろう。別れた彼女と復縁を決めたのならホッとしているかもしれない。
そんな晃子さんを想像してさらに落ち込んだ。
そのせいで、日曜日の稽古はめちゃくちゃだった。
台詞が飛んだり、タイミングを間違えたり、演技らしい演技ができず、演出家から怒声を浴び続けてしまった。
気持ちを切り替えなければいけないと思ったけれど、どうしてもそれができなかった。
そんなボロボロの稽古を終えて帰り支度をしていると、五島さんが心配そうな顔をして私のところまでやってきた。
「なんか調子が悪そうだね。大丈夫?」
「すみませんでした。大丈夫です」
「なんか大丈夫そうに見えないんだけど……。心配だから家まで送るよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
そう言って断ったけれど、五島さんも引かず、結局家まで送ってもらうことになった。
「もしかして体調を崩した?」
帰り道、五島さんが少しかがんで私の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「いえ、体調は大丈夫です」
体調に問題ないのは本当のことだ。
「そうかな? 顔色も悪い気がするけど……」
「本当に大丈夫です」
晃子さんのことを話すわけにもいかず、私は同じような言葉を繰り返していた。
「何かあった?」
「いえ、何も……」
そう、何もないのだ。
晃子さんとの距離は近かったけれど付き合っていたわけではない。私が一方的に好きだっただけだ。
晃子さんが前の彼女とよりを戻すことも、私には関係のないことなのだ。
「んー……。もうすぐ本番だし、無理は禁物だよ。もしも力になれることがあったら何でも相談して」
「はい。ありがとうございます」
そうして家の近くまで五島さんに送ってもらい、お礼を言って別れた。
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