エピローグ

祈祷

 教会の裏にある、白薔薇に囲まれた庭園。幻想的な斜陽が花弁を橙に染めている。葬儀を終えた後の空虚さは簡単に拭い去れない。抱えた花束を掻き抱き、軽く息を零した。


 エリーゼの墓に元々添えられていた百合の花束は、葬儀屋が用意したものなのだろう。そこに白いカーネーションを重ねる。彼が建ててくれたエリーゼの墓石も、綺麗だった。刻まれた名前は繊細な装飾で縁取られている。両手を重ねて黙祷を捧げていたら、背後で靴音が鳴った。振り仰いだ目線の直線上で祭服が揺らいでいた。


「ヴォルフに墓を頼まれたのが、君の姉だったなんてな」

「あぁ。……コンラートさん、色々、悪いな。沢山助けてもらって」


 昨日、葬儀屋の手当てをする為に形振り構わずあのまま病院へ行った。俺も葬儀屋も血塗れで相当目立っていたことから、警察に通報され、病院には噂を聞きつけたコンラートが駆け付けた。警察が来る前に事情を話したところ、彼が警察に応じてくれた。俺達は通り魔に襲われた被害者で、犯人はどこかへ逃げた、ということにしてくれたらしい。俺も葬儀屋も負傷が酷かったことと、病院に駆け込んだことから、警察は怪訝そうにしながらも架空の犯人の捜索を優先した。葬儀屋は治療を施され、俺とコンラートだけで屋敷に戻り、アドニスにも事の顛末を話して一日が終わった。そうして訪れた新しい朝の中で、エリーゼの葬儀を終えて今に至る。


 俺の隣に並んで五指を絡め、目を伏せていた彼。徐に目を開けると、首を左右に振っていた。


「私に出来ることはこれくらいだからな」

「あんた、本当に良い人だよな」

「私は自分の正義を曲げたくないだけだ。それに、私が良い人なら、ヴォルフも良い人だよ。人を殺していても、根の部分は今も変わっていない。……どうして人は、簡単に嘘を吐くんだろうな。それが人の人生を簡単に壊せるものだと、どうして分からないんだろうな」


 人を壊すのは人だと、そう紡いだ葬儀屋のことを思い起こす。魔法などなければ、彼は塗炭に苛まれなかっただろうか。アドニスも、初めから人らしく生きられただろうか。思い描いてみたが、苦虫を噛むようだった。魔法という形を成さなくとも、他人に押し付けられるものは変わらない。偏見も、信仰も、願いでさえ時には当人を苦しめる。その人が壊れるまで――或いは壊れたとしても、己の言葉がその人を狂わせたことに思い至らない。魔法はまるで、そんな人間の愚かさを見兼ねた神が、罪と痛みを見せつけるように与えたみたいだった。尤も、呪いにも救いにもなる魔法を見る限り、神も人の心など分からないのかもしれない。


「これはただの昔話なんだが……私が子供の頃のことだ。妹にあげるつもりだった兎の人形を、道に落としてしまってな。ちょうど通りかかった馬車に人形が轢かれて、耳が破けてしまったんだ。それを直してくれたのがヴォルフだった」

「良い出会いだったんだな」


 晴朗に微睡んでいくような、コンラートの穏やかな目つき。彼は俺の憎しみを軽くしたいのかもしれない。広がる微かな笑みは、彼の心中に包含されている暖かさを具象していた。


 ふと、高い踵の音が耳朶を掠める。振り仰いだ先で、風に泳ぐ柳髪。冬に舞う風花のような白い少女が、純白の花束を抱えていた。俺の傍まで歩み寄ったアドニスの玉声はとても優しかった。


「君のお姉さんにはどんな花が似合うだろうかって悩んでいたら、遅くなってしまったよ。結局百合にしてしまったけど……喜んでくれるといいな」

「エリーゼは花を貰えるだけで喜ぶよ、安心してくれ」


 清風が人肌に似た温度で肌をなぞる。舞い上がる花片。零落する樹葉。虚空を彩る情景に相好を崩していると、視界の端でコンラートが俺に軽く手を振った。どうやらアドニスと二人きりにしてくれるらしい。アドニスは、昨日俺と葬儀屋が生きて帰ってきたことに「よかった」とだけ零して自室に戻っていた。俺の選択が彼女の望みに反するものであることは分かっている。だから謝ろうと思い開口するも、先にそうしたのは彼女だった。


「君には、申し訳ないことをした。私は葬儀屋の為にどうすることが正しいのか分からなかったし、私も彼と同じように……生きているのが間違っているから、だから君の手で終わらせてほしいと、多分少なからず思っていたんだ。君に辛いことを押し付けてしまってごめん」

「あんたが謝ることじゃない。俺のほうこそ……」

「君が優しい選択をしてくれて、私は嬉しかった。嬉しい、って、思ってしまったんだ。私は、本来死んでいるはずで、生きていてはいけないのに。こんなことは世界の理に反していて、異常なのに、君と葬儀屋に甘えてしまうんだ」


 名花は心悲しい色を纏っていた。人らしく在りたいと願う彼女は、きっと人らしく、時の流れに抗わず終わりたかったのだろう。それを分かっていても、俺は彼女に生きてほしかった。何度だって彼女の生を肯定したかった。俺が道を違えずにいられたのは、彼女がいてくれたおかげだから。


「異常なことなんて、沢山あるだろ。魔法なんてものは存在しないとか、時間を止めることは出来ないとか、そういう自分の信じてた当たり前があるだけで、自分の知らない事だって世の中には溢れてる」

「けど」

「なぁ、アドニス。本当にこの世界の理に反してるのなら、実現しないんじゃないか。実現してるなら、それだって正しいことでいいじゃないか。俺が心臓を持たずに生きていることとか、あんたが性別を持たずに生まれたこととか、それだってきっと本当は異常なんかじゃない。冷たい言葉で貶めるようなものじゃない。全部間違いなんかじゃないんだ。俺達はもっと、自分に対して優しい感情を向けたって良いと思うよ。生きていられる間、自分が息をしやすいように生きたって、良いんだ」


 不香の花を思わせる氷肌を片手で包み込む。彼女の頬は冷たかった。熱を注いでやりたくて軽く撫でると、その手に彼女の指が触れる。そっと離れていく体温。彼女は柔和な笑みを象った。


「……結局君の優しさに甘えてしまったな……ごめんね、ありがとうスヴェン」


 俺に背を向けた彼女は、墓を見つめていた。馥郁たる天香が彼女の動作に伴われる。エリーゼの安寧を祈るように手を合わせていた彼女は、こちらを振り向くなり笑みを咲かせた。


「いつか葬儀屋が魔法から解放されて、私の命が終わったら、私も君から花を貰いたいな」

「な、んだよそれ」

「私も弔ってもらえるような、ただの人間として、眠りたいんだ。いつか、その証に花を供えてくれ」


 俺に花を贈ってくれと、そう微笑んだ姉のことを回顧する。返事をする代わりにアドニスを抱きしめた。胸元で吃驚が零される。心地良い幽寂に僅か浸ってから、体を離す。「帰ろう」と囁いて歩き出した。


 庭園を抜けると、教会を見上げている葬儀屋と逢着した。風に煽られる左袖は、彼の片腕がないことを証している。彼は俺達を見つけ、すぐさま普段通り破顔していた。


「アドニス、スヴェンくんも。やはりここだったか」

「あんたはなんで安静にしていないんだ。そんなに急いで見せたいものでもあったのか」

「その通りだ、流石察しがいいね」


 紙特有の香りが鼻先を突く。欣喜して新聞の切り抜きを取り出すものだから呆れてしまう。昨日出血多量で死にかけていた自覚はないのだろうか。とはいえ、片腕がないことすら気にしていない様相は、どこか彼らしい気がした。


「隣町の事件なんだが、あまりに異常でフェストでも噂になっていてね」

「もしかして墓荒らしの悪魔ですか? 今朝新聞で見ました。死体を掘り起こして食べていて、鳥のように飛び去るのだとか……」

「それも気になったが、こっちはもっと気になる。被害者の腹が切り開かれ、内臓を取り除かれた腹部には切断された首が入れられていたらしい。それも二件目のようだ。この事件、犯人が魔法使いである可能性が高いだろう?」


 相も変わらず陰惨な事件に渋面を浮かべてしまう。血腥い情景を脳裏に過らせてから、碧天を見上げた。涼やかな風に深呼吸を重ねながら気持ちを落ち着かせていく。


「というわけで、だ。君達に早速行ってきて欲しい。僕は義手の手術を控えているから同行できなくてね。死体は旅行鞄にでも詰めて持ち帰っておいで」

「その前に旅行鞄とか必要なものを諸々を買わないとだろ……アドニス、買い出しに付き合ってくれるか?」

「ああ」


 この街に来るまでは知らなかった現実。知りたくもなかった真誠さえいくつも目の当たりにした。人を殺す慄然に未だ慣れることは出来ない。それでも、乗り掛かった船だ。引き返すことは出来なかった。一度血に塗れた両手はもう取り返しがつかない。ならば同じ罪を抱える彼らと、深潭を進んで行こう。異端たる俺達が、魔法という呪いから解放されるまで。


 いつか神を葬る、その日まで。


     *


 流浪の詩人が唄っていた。聖譚曲を奏でるような旋律。雑踏に呑まれる声は、不思議と私の意識を絡め取っていく。


 それが夢物語であるのか、詩人の追憶であるのかは分からない。彼が紡いだのは、魔法使いの王様の話だ。


 王は言った。妻が授かる赤子は神そのものであり、全ての民はその子を神として崇めなければならない。


 民衆はそれに従い、切願した。ひたすらに、神の誕生を祈ったという。そうして生まれた子供は――。


「アドニス? どうかしたのか?」


 気付けば、白練の髪を揺らした青年が私に影を落としていた。物語と己の過去を重ねていたせいで、眉を顰めてしまっていたらしい。私は眉間を押さえ、ベンチから立ち上がる。


「いや、少しぼうっとしてた。行こうか」


 神様の子供が生まれますように。そう願われた私は、結局何者なのだろう。


 神様が生まれますように。そう願われた子供は、きっと苦しい人生を歩むことになる。


 魔力によっていびつな体が創られても、心は正常に弾み、軋む。


 普通の人間にはなれないと、この身があかす。されどお前は人間なのだと、この心が証す。


 神様には、心などなければいい。だから碧落を見上げて願った。


 剣尖を濡らすのは、どうか神様あなたの紅血だけでありますように。

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