悔恨の救い6
攻め入った視界を満たした黒線。先刻まで応じていた抜き身の刀よりも長い間合い。抜くことなく振るわれた杖を避けきれず肘で受け止めた。鈍痛によろめき顎を持ち上げる。踏み込んだ先で日輪を切り弾く抜刀。両の刃で押し留めれば彼の低声が落とされた。
「僕は、アドニスまで死なせたくはないみたいだ」
切れ長の双眸が吊り上がる。吐露された激情。仮面などそこにはない。ぶつけ合った霜刃越しに、虚飾されていない面差しをようやく正視した。同時に湧き上がる
エリーゼを殺した彼が、喰らった彼が、憎い。だが彼を殺せば、彼は思い通りに満たされてアドニスまで死ぬ。自身の決断を間違いだとは思いたくなかった。太刀先が鈍る。そんな己に、苛立って仕方がなかった。
「だったら生きればいいだろ……!」
悲憤を叩き付ける。鋭鋒を、杖を、両手に握ったナイフで弾き退ける。外側にふれた葬儀屋の腕。爪先を踏む勢いで烈々と迫る。彼の肩を抉った一刀。風を染色した紅血。肉を切った感覚。振り抜いた腕を引き戻す。追撃するべく構え直した腕はすぐさま切り裂かれた。
肉を削がれた痛みに後方へ跳ぶ。捉えたのは追走する刀刃。大地を抉るざらついた音。上空へ斬撃を繰り出した刀鋩は砂塵を纏う。角膜を刺す砂粒に眉を顰め、白刃を刀身で受けた。鐘が転がり落ちるような旋律は
されど打ち合うほどに緩やかな速さで傷が治っていく。古い痛みが透き通っていく。新しい痛みは鮮烈に皮下を炙る。杖を打ち払った直後、穿孔されたのは左胸。せり上がる痛みと慄然に唸りながらも彼を蹴り飛ばした。一気に引き抜かれる剣鋩。あるはずのない心臓が早鐘を打っているようだった。息が上がる。彼を眇目したまま奮然と彼の眼路へ躍り出た。剣戟の連弾も、息遣いも、遠のいていくように錯覚する。追想が聴覚を打った。
――君の魔力は、君の心臓だ。
アドニスの声に、歯を食いしばった。葬儀屋を救ってくれと願った彼女の姿を、思い描いた。俺を生かした母と姉の願い、アドニスの祈り。全てを手放さないように、柄を握り込んだ。
――助けてって、大きな声で叫び続けたら、届くかもしれないのよ。
姉の微笑に、激情が溢れて止まらなかった。
「ッあんたは! 救われたかったんじゃないのか……!」
押し飛ばした刀。間髪入れずに斬撃を捻じ込む。彼の十字架が光芒を散らして宙を舞う。血痕を伴って千切れたそれは草叢に沈んだ。
彼が一驚を喫したのは寸刻のこと。追撃を許さぬ彼の一閃が彼我の距離を広げた。
かつてエリーゼが紡いだ声は、届いたはずだ。神に届かなくとも、彼には、届いていた。彼に、その手を取って欲しかったはずなのだ。
彼への怨嗟が甲高く響く。それでも、彼を責めるのなら彼と同じ轍を踏みたくはなかった。助けてくれと滲む真情。それを認めておいて、憎しみに任せて殺すなど、したくなかった。彼に味わわせてやりたかった。俺の慨嘆と、アドニスの願いを鮮明に。
「あんたがアドニスを救ったのだって、あんた自身が救われたかったからだろ。俺を真実に誘導したのだって裁かれたかったからだろ。救いと償いを思い描いて……それでも足掻いているのは、死を救いだなんて思えないからだろ⁉」
喉が裂けそうなほど、声を張り上げた。双腕を震わせて彼を止めにいく。鉄塊が生む騒がしい劇伴。受け止められ弾かれても止まれない。退くな。己の足に力を込める。彼が攻めに転じる弾指の間。その全てを切り崩す。後退していく彼の靴音、互いの呻吟さえも鉄の
息をするよりも早く。風声が鳴り止まぬほど執拗に。好機を探り続けた。
風に乗せられた木の葉が、互いの目前で両断される。流れた雲が露わにした、眩いほどの紅鏡。その光を宿した彼の鋭刃が、フォールディングナイフに押されて半円の軌道を辿る。がら空きになった体躯。一秒にも満たない短い時の中で、その懐へ飛び込んだ。
「こんなものが俺の復讐になるなんて、あんたの贖罪になるなんて、アドニスの願った救いになるなんて俺は認めない……! あんたは生きるべきなんだ!」
走り抜ける閃光。彼の左前腕部に、バタフライナイフの鋭鋒が沈んだ。彼が身を引けるほど緩慢ではない。燦然たる
終わりを思わせた粛然。それを突き破ったのは俺の呼気。彼の刀が腹部に皺を刻む。奥深くまで貫き、抜かれることのない秋水。込み上げてくる喘鳴と楚痛を呑み込み、痙攣する腕を動かす。血を流しすぎたのか、魔力を使いすぎたのか、魔法の色を失った黒髪を靡かせる彼の剣。そこにナイフを宛がった。傷口が灼かれる。視界が霞む。口内に血の味が満ちていく。肩で息をする互いの腕。それはどちらも、柄を突き動かしていた。
腕首に伝う衝撃。燃え滾るほどの意識を注いだ拳固。骨が軋む音。それが彼のものか、俺のものかさえ分からない。ただひたすらに、彼の武器を落とすことだけ考えた。指先の感覚など、とうに麻痺していた。
「――――ッ‼」
痛哭じみた悲鳴。肺腑を抉るような彼の切り上げ。それは胸骨まで至らない。彼の指先に力が宿っていたのは数刻の間。衝撃で痺れたように柄を手放した前腕が垂下する。彼は脱力し、膝を折った。
「はは……っ」
乾ききった笑み。彼らしい顔だった。彼の左腕から溢れ出る血液が、草花を彩っていく。力を無くしている右手の先に、未だ刻印が絡んでいるのを認めて安堵した。
滂沱として止まない滴。蒼白の相貌が空を仰ぐ。一滴の雨が、彼の肌を伝ったような気がした。
刀を取り落とすように捨てる。フォールディングナイフを握る利き手は、力を込めすぎたせいで未だ硬直していた。
赤く濡れた草葉が鳴く。細かい枝葉が風に運ばれる。蔓延る安閑を踏みしめて、彼を見下ろした。傍らで影を落とす俺に、彼は苦笑していた。
「死ぬ、というのは……怖いものだな。足掻きたくて、堪らなくなる。エリーゼも、こんな気持ちだったんだろうか」
掌を失くした左腕を、彼が持ち上げた。額に当てられた腕が、彼の目元に影を落とす。流れる血が外貌を赤く彩色していた。エリーゼの悲傷など計り知れない。それと同様に、彼がエリーゼを殺してから抱え続けた苦しみも、俺には分からない。なにを想像しても、己の表情が歪んでいくだけだった。
「エリーゼはどこにいる」
「埋葬したよ。奇跡を待つ日々が終わるのなら……せめて僕の手で、弔いたかった」
優しい一笑に、唇を噛んだ。彼は、心からエリーゼを愛していたのだろう。エリーゼを想う彼の顔色は、声色は、思い返してみても慈愛に満ちていた。彼が犯した罪へ、恨みは募る。けれども彼自身のことは、嫌忌しきれなかった。エリーゼがフェストに赴いた理由、それを俺に教えた時の彼も、今と同じような顔をしていた。時折彼から向けられていたのは、紛うことなき憂色だった。
片膝を突く。彼と、眼差しが絡んだ。どれほど睨め付けても、彼は暖かに俺を見守っていた。
「コンラートの教会の裏、広くてきれいな庭だ。そこに、エリーゼの墓を作った。後で、花を供えてやるといい」
「……ああ」
疼痛が胸元に滲む。穏やかな空気が傷口に沁みていた。咽喉を焦がすいくつもの本心は、複雑に絡み合う。陽光に伸ばされた彼の手。頬へ落ちた紅色に、彼は煩わしげに瞼を伏せた。
「僕は、魔法について知ってから、ずっと探していた。魔力で壊れていく感性、狂っていく五感、自分が気持ち悪くて堪らなかった。愛した人さえ殺してしまう心に、絶望して……魔法使いが人に戻る方法を、ずっと、探してた」
「……そんな方法は、なかったんだな」
「ああ……けど、これで終われる。朽ちてほしいと思った世界も、僕が終われば見なくて済む」
「ふざけるな。終わらせてやらないって言ってるだろ」
血に濡れた睫毛が揺れる。彼の腕が地へ落ちた。柔らかな褥で眠るように、彼は草原に身を委ねていた。彼の腕を取り、懐から取り出したハンカチで止血をしていると、彼が困ったように笑う。
「君は随分甘いな。その上お節介だ。エリーゼとよく似ている。だが何度でも言おう、僕のことは殺した方がいい。魔法使いは、人を喰らわないと生きられないのだから」
「それなら、これまで通り魔法使いを殺して喰らえばいい。魔力から解放されない魔法使いは、人を食うことに苦しんで、あんたみたいに終わりを求める。本当の意味で救える日が来るまでは、一思いに楽にしてやる……それでいいんじゃないか。今はそれしか救う術がないからな。だけど俺はあんたを楽にしてやらない。あんたは、あんたと同じ魔法使いを苦しみから解放しながら、喰って、苦しんで、この先も生きて行けよ。いつか魔法から解放されるまで」
伏せられた瞼の裏で湛えられたのは、きっと諦念だ。それを気取ってしまって唇を歪める。
「無理だよ。僕達魔法使いはもう戻れない」
「まだ諦めなくていいだろ。あんたは世界中回ったのか? この世にある本を全て読んだのか。どこかに方法があるかもしれないのに、あんたはまだ生きていられるのに、諦めて死ぬなよ。エリーゼの分まで生きろよ……!」
腕の震えが、声まで震わせてしまいそうだった。掻き曇っていく眼界。姉との思い出が泡沫のように浮かんで消えていく。死なせるものかと両手に力を込めて彼の腕を握る。息を引き取ってしまいそうな彼を前に、戸惑う自身を落ち着かせたかった。
――神様。
脳室で、鈴の音が転がる。背負った祈りを、己の情動を、撹拌して嚥下する。真っ直ぐに、彼を
「アドニスも、あんたに救われて欲しいって、あんたを解放してくれって、祈っていた。だから――俺はあんたが解放されるまで、あんたの命を手放さない。一緒に帰るんだ」
鮮血に塗れた腕を引く。葬儀屋は瞠目した後、口元を撓ませていた。風韻に消されてしまいそうな声が、檠灯に似た暖かな熱をしかと保っていた。
「君は本当に、エリーゼにそっくりだな」
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