悔恨の救い5
(三)
約束の日が訪れる。時間は指定されていなかった。葬儀屋は今日一日俺を待ち侘びているのだろう。食堂の窓から注ぐ旭日を後ろ目で見やる。アドニスが作ってくれたニジマスのムニエルを平らげ、ティーカップに手を掛けた。
この数日、アドニスと穏やかな時を過ごした。フェストにある店を回れるだけ回った。服屋、雑貨屋、飲食店。美味しそうなものを俺が食べて、何も食べない彼女に細かな感想を伝えて、微笑みを交わし合った。医療がもっと進んだなら『臓器がいくつかない』と言っていた彼女に、移植することは出来ないだろうか。ケーキを美味しそうに眺めていた彼女に、食べさせてあげることは出来ないだろうか。万考する都度、葬儀屋と決着を着けなければいけないのだと思議して顔を歪めた。
グレーテの墓参りに行って、それから二人で観劇をしたのは昨日のことだ。初めて観た芝居に感動した俺が、思わずまた見に行こうと口にしてしまった時。
カップをソーサーに置く。陶器の涼やかな快音は、扉が軋んだ音に掻き消された。プラム色の衣装が揺れる。アドニスは俺の元まで歩いてくると、食器を回収していった。
「美味しかった?」
「ああ。あんたの作る料理も、あんたが淹れる紅茶も……好きだよ」
真っ直ぐに見つめた先で、アドニスは宝石じみた眼目を丸めていた。花唇が笑みを咲かせる。本当に伝えたい言葉が、声帯にこびりつく。けれど、それは象ってはいけない告白だ。
緘黙の中、ワゴンに食器を重ねる彼女から目を逸らし、立ち上がった。
「行ってくる」
「気を付けて。……スヴェン」
俺と向かい合った彼女が、刀身を収めたままのバタフライナイフを抜いた。細い手が俺の胸元に触れる。彼女の意図を察してナイフを受け取り、胸ポケットに収めた。
「お守りだよ。武器が多いに越したことはないからね」
「ありがとな」
「それと、前にも軽く話したと思うけど……葬儀屋の魔法は触れたものと強制的に契約を交わして、その状態を固定する。と言っても時間を止めるものじゃない。契約後に彼が魔力を注ぐことで、固定した時の状態に戻せるだけ。常に魔力を注ぎ続ければ、契約した対象の時間を止め続けることが出来るだろうけど、そんな消耗が激しいことはしないだろう。私と、恐らく君のお姉さんも、負傷時以外は一日毎に時間を戻されていた程度だと思うし……攻撃に使えるものじゃないとは思うけど、もし魔法を使われて困ったら、彼の右手を切り落とせばいい」
「右手?」
「契約印は右手のみに刻まれている。切り離されたことで魔力を注げなくなれば魔法も使えなくなる」
葬儀屋の右手を切り落とした時、或いは彼の心臓を貫いてしまった時、アドニスは息を引き取るのだろう。憂慮が滲み出す。そんな俺を鼓舞するように、彼女の両手が伸ばされる。俺の頬を包んだ手はすぐに離れ、指を絡めて握り込まれていた。
花弁を開くように、彼女は嫣然と朗笑した。
「君に、神の御加護があらんことを」
「ありがとう、アドニス」
扉に背を預け、握りしめた拳を胸に押し付ける。目を伏せて胸懐で唱える。優しい神など信じていない。それでも祈らずにはいられなかった。
アドニスを、殺さないでくれ。
俺の心願に、神様、と、少女の声が重なった。徐に瞼を持ち上げる。扉の向こうで、彼女の切願が聞こえた。
「……神様、お願いだ。願いが叶うのなら、お願いだから……私の恩人を、救ってください。あの人を、苦しみから解放してください」
ああ、と、諒解が脳室を満たした。葬儀屋が裁かれたがっていると、そう説いたコンラートの言葉を思い出す。俺の願いと葬儀屋の願いが同じ道で叶う、そう言ったアドニスの音吐を喚想する。俺と彼の願いが叶うこと、それがアドニスの願い。
俺の決断はきっと、彼女に許してもらえないかもしれない。それでも、一抹の迷いすら抱かなかった。
透き通った諸目で、昭然と前を見据えた。アドニスと歩いた石畳を、進んでいく。未だ開店していないパン屋を横目に、歩いていく。橋を渡る。橋梁で、俺の母とエリーゼを想い、祈ってくれた彼女が浮かんだ。通りかかった病院では、赤子を抱えた女性が看護師との会話に歓楽していた。教会の鐘の音が街中に響く。雑踏を通る人々の、朗らかな顔。人混みに響く子供達の笑声。繁華な街路は太陽のように明々としていた。
人通りが減っていく。森の中へと足を踏み入れる。整備されていない道の先には、大きめの石が置かれていた。それを飾る百合の花。森を彷徨う子供の霊に、アドニスが供えに来たのだと推断した。鬱然と茂る木々を掻き分け、上を目指す。この先に葬儀屋がいることを思惟して、フォールディングナイフを抜いた。清月を片手に、蒼茫たる木陰を抜ける。
拓けた頭上に碧落が広がる。貴族の邸宅じみた屋敷は明かりが灯っていなかった。長らく使われていないのだろう、外壁には蔦が絡みついていた。玄関の傍に備えられたテーブル。そこに厚い本を置いた黒衣の男が、椅子を引いて裾を靡かせた。
「静かで良いところだろう。二階からの眺めは街全体を見渡せてとても綺麗なんだ。エリーゼに、見せてやりたかった」
黒い杖を突いて頭上を遠見する葬儀屋。風で木の葉が舞う。
「あんたの、屋敷だったのか」
「いや。僕の友人の屋敷だった。数年前、森で子供が殺されていく事件が起きてね。友人は無関係だったが『森の奥の屋敷には悪魔が住んでいて、子供を殺して食べている』と、そう噂をされた。僕が会っていない間に、そのせいで彼は魔法使いになって狂ったみたいだ。実際に子供を飼い、嬲り、飽きたら食べていた。僕がそれを知ったのは魔法使いの血肉に飢えていた時で、エリーゼの体を保つ為に臓物がもっと必要だったんだ。だから、かつての友を殺した。アドニスに会ったのは、その時だ」
朝露が零れるほどの速度で、森閑を縫っていく声柄。白光に雲がかかって幽暗な影が落ちる。尚も滲み出す陽射しが互いの武器を光らせていた。
「僕が出会った時、アドニスは腹を裂かれ、臓器を引き出されていた。それでも意識を保って、僕に助けを求めてきた。死なないように止血として魔法を掛け、縫合を施してから改めてその肉体が朽ちぬよう二重に魔法を掛けた。僕が死ねば魔法は全て解ける。魔力を注げなくなればアドニスの時間があの瞬間から動き始め、血が溢れ出す。彼女を殺す覚悟は、出来たのかい」
「……エリーゼはどうした」
街の喧騒から遠のいた空気には、思いのほか声が響く。腥風が表皮を焦がしていた。刀尖と彼を直線上で結ぶ。定めた狙い。腕を震わせる慨然。エリーゼの面差しを追懐する。掻き混ぜられる怨悪と決意を握り込んだ。
「さあ、どうだろうな。不要になったから燃やしたかもしれない」
「それは俺の殺意を煽る為に挑発してるのか? 余計なお世話だよ」
「僕には、君がまだ迷っているように見えていてね」
「まさか。死者への思いを取るか、生者の命を取るか、そんな葛藤はもう要らない。――あんたを死なせない。これが俺の選んだ復讐だ」
瞠若の後、肩を竦めた彼が杖を弄ぶ。剣を抜く素振りはない。俺も彼を殺す気はないが、腕を下ろすことは出来なかった。彼がどういった行動に出るか予測出来ないまま、警戒し続ける。
「何故そんな甘いことを言えるのか分からないな。君は姉を殺されているんだ。復讐だというのなら殺すのが正しい選択だろう?」
「殺されたら殺し返すのが正しいっていうのか。憎いのなら殺さなきゃいけないのか。あんたがそんな正しさを掲げるなら、俺は真っ向からそれを否定してやる」
「おかしいな、君だって僕を殺したがっているはずだ。そうだろう?」
「あんたが死んで喜ぶのは誰だ? あんた自身だろ。恋人と弟が殺し合うなんてエリーゼはきっと望まない。俺だって、憎い相手の思い通りにさせるなんて御免だ。あんた自身が裁かれるのを望むのなら、俺は裁きたく――」
瞬間的に明滅する銀光。現前で翻った刃が俺の首を獲りにくる。跳ね上がったのは色を持たない飛沫。清澄な一音が反響して風に呑まれる。咄嗟に構えた利刃。彼の急襲をどうにか押し留めていた。
「殺さないのなら、死ぬのは君の方だ。魔力で回復するにしても、首を刎ねれば流石に死ぬだろう? 己の命まで天秤にかけられて、それでも君は僕を殺さないのかい?」
力を込めたところで彼は怯みもしない。間合いを取るも再度接近される。空無を突いた彼の剣を弾く。快刀と鞘代わりの杖、それらを両手に構えた彼は容赦なくこちらの枢機を刈り取りにくる。彼は裁かれたくて俺を殺そうとしている。気を抜けぬまま交わす金属音に逡巡が付き纏う。彼を殺さず動きを封じる術。それを見出すことに必死になっていれば剣先への意識が疎かになる。彼の望みに背きたいはずが、瞳孔に反射したのはその喉笛を掻き斬ろうとする己の腕。息が止まった。旭光が白皙の少女を回視させる。足掻こうとした寸鉄は彼の利剣に受け止められていた。
「おっと、せっかく殺して貰えそうだったのにな。何故僕は……」
尚も襲い来る氷刃に応じて手首を振るう。掠めるのは金属だけ。互いの鉄が鳴き騒ぐ。正確に受け流される剣鋒。首、心臓、怯ませる為に描く軌跡は寸分のズレもない。しかし黒衣が優雅にはためく度、斬撃全てを弾かれていた。
円舞でも踊るような足取り。子供をあしらい煽るような様に滲んでいく苛立ち。それを唾と共に飲み込み狙いを変えていく。胴払いは押し退けられた。切り下げも躱される。振り上げた剣先は虚空を泳ぐだけ。叩き付けた蹴りに応じるのは杖。脛を打ち付け、自身に痛みが返ってくる。奥歯を軋ませて足を引き直進。突いた前腕は墨色の髪を散らした。
「っあんただって死ぬことを迷ってるんだろ。なら武器を捨てろ!」
「僕が死ぬのは正しいことだ。生き続ければこの先も人を殺し喰らい続ける。だから裁かれたほうがいい」
流星のように閃いた一撃。頬を斜めに抉られ息が止まる。
睨み据えた先、葬儀屋が杖に刀を収めていた。戦いをやめる合図ではない。彼が纏った凛冽たる情調に邁進した。受け止める気配はない。杖を左脇へ回した彼が、右手袋を咥えて外す。ステップを踏むように俺の攻撃を免れながら、彼は自身の首筋に触れていた。
「それなのに笑ってしまうね。最期くらい人間らしく在りたいのかもしれない」
瞬刻。背筋が粟立つ。目に見えない力の流れが僅少の寂寞を生んだ。
「――固定」
三日月を象る彼の瞳子。そこに宿る藤紫が、漆黒の毛先を染め上げた。彼の薬指を赤黒く彩なした刻印。魔法の証であるそれは、彼自身に魔法を掛けたことを証していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます