悔恨の救い4

 晦冥かいめいに、どれほどの時間居座っただろう。ノックの音が耳朶を打ち、飛び起きた。人影を認めて咄嗟に目元を擦る。


 開いた扉に寄りかかって立っていたのはアドニスだ。漆黒のワンピースにシンプルなパンプス。哀切を孕んだ面立ちは、トークハットのレースに影を落とされていた。その装いが葬儀に赴くためのものだと分かり、ベッドから降りて立ち上がった。


「グレーテさんの葬式、行かないとか」

「もう終わったよ。ごめん、眠っていたから、起こすのも悪いかと思って」

「そ、うか……悪い、一人で行かせて」

「気にしなくていい。今度一緒に花を供えに行こう」


 淡い笑み。それを照らす光が夕陽によるものだと知って、時間の経過に顔を顰めた。今度、と彼女の言葉を胸中で反芻する。一週間後、葬儀屋を殺せば彼女との『今度』など訪れない。彼女は葬儀屋の魔法で生かされている。彼を殺すことは彼女を殺すことと同義なのだと心付き、唇を噛む。


「スヴェン?」

「……明日か、明後日か。今週中には、花、供えに行こうな」

「あぁ」


 アドニスの微笑には愁傷が付き纏う。グレーテと別れを済ませたからか、酷く悲しげだった。どうすれば慰められるだろう。どうすれば、その傷を癒せるだろう。華奢な体を抱きとめたくて手を伸ばした。しかし、この手が彼女の命を終わらせてしまうのだと、そう考えたら触れられない。葬儀屋に憎悪を抱いたことで、彼女を想う資格を剥奪されたような気がした。それなのに彼女を放っておきたくなかった。慰めるはずが、まるで慰められたいかのように、彼女の袖を掴んでいた。


「……また、嫌な夢でも見たのかい?」


 真っ白な手が、俺の頬に触れる。揺れた髪が馨香を漂わせた。冷たい体温が心地良く、幽香は鎮静剤みたいに心を落ち着かせてくれた。優しさを覗かせる面容。名花のような彼女に凭れてしまいたくなる。このまま彼女と穏やかな時を過ごしたい。そんな現実逃避に浸ってはいられなかった。


 この花を、俺は枯らせてしまう。嫌だと心髄で叫ぶ。己の喚叫を押し殺し、空笑いを浮かべた。


「全てが夢なら、良かったんだけどな」

「葬儀屋と、何かあった?」


 俺が漂わせる空気、いなくなった葬儀屋。アドニスは察しているのだろう。明眸は色を正して俺を射抜いていた。彼女の命のことも含めて深慮すれば、伝えないわけにはいかなかった。


「葬儀屋の恋人が、俺の姉だった。あいつは俺の姉を殺して、臓物を喰らって、弔いもせず魔法をかけて手元に置き続けてた。ふざけるなと、思ったよ」

「……葬儀屋は、だから君が必要だって、言ったのか」

「なに? 何の話だ」

「いや……なんでもない。それより、君はどうするつもりなんだ。葬儀屋を殺すのかな」

「俺は……」


 問いかけは喉を締め付ける。言下に返答することが出来ない。そんな俺が何を考えているのか気取ったのだろう、彼女は静かに先を促した。


「スヴェン。君は今、葬儀屋と君自身のことだけで考えていい。君は、どうしたい」

「……エリーゼを殺したあいつを、殺したい」

「なら、そうすればいい」


 事も無げに彼女は笑みを咲かせる。反照に溶ける白髪が今にも消えてしまいそうで、人知れず拳を固めた。どうして俺に優しい顔を向けられるのか、分からなかった。


「あんたはどうするんだ」

「私はどうもしない。だってこれは君と葬儀屋の問題だ」

「葬儀屋が死んだらあんたは死ぬんだぞ⁉」

「私が死ぬから、君は迷うのか。君の憎しみは、それで妥協して、後悔せずに済むものなのか?」


 透明で鮮麗なまなこが俺を映す。この心胆に蓄積された迷いを引き摺り出す。その諸目は顕然と、情けない俺を反射していた。


 後悔のない選択肢なんてない。どの道を選んでも俺は悔やむだろう。けれど憎しみに囚われて生き続けるよりは、この手で終わらせて報いたかった。消せない恨みを抱え続け、己の無力さに憤るくらいなら、贖いの日々を送る方がマシだ。――本当に?


 見え隠れする葛藤を噛み潰す。後悔せずに済むか、そう問うた彼女に首を振った。それから真っ直ぐに、彼女を見下ろした。


「それでも俺は、あんたに誠実でありたい。あんたは、後悔しないのか。ただ終わりが来ることを待って、葬儀屋か俺が死んで、後悔しないのか。俺に後悔するなって言うなら、あんたも後悔しない道を選んでくれ。あんたは、どうしたいんだ。今こうして生きてるあんたは、この先も生きていたくはないのか」

「……どうしたいかなんて、分からないよ。だから」


 黒衣の袖から、彼女が一本の小刀を抜いた。護身用に仕込んでいたのだろう、普段の双剣よりも小さなバタフライナイフが、白手袋に弄ばれるよう回転する。斜陽を受け流した白刃。それは俺に突き付けられた。


「私の覚悟と君の覚悟をわかりたいから。殺す気で応じてほしい」


 あんたを殺すつもりはない、そう紡ぎかけた口唇を閉ざす。その言辞は覚悟のなさを表すだけだった。フォールディングナイフの刀身を引き出し、構えた。指先まで力を伝わせる。得物を離さぬよう、しかと握り込む。


 決着は今日じゃない。それでも数日後、その時は来る。その日、俺は彼女を殺すかもしれない。そのことから、目を背けるな。


 覚悟を決めろ。


 炯眼が衝突した。鉄塊の啼哭ていこくが耳を劈く。交わった刃。細腕のどこにそんな力が宿っているのか、彼女はこちらの剣先を押しのけた。容赦なく喉元を狙う追撃。それを弾いて踏み込む。刺突を象る己の前腕。殴るように払い除けられ、剣鋩が俺へと向かう。回避に乗せた速度を氷刃に纏わせ切っ先を薙いだ。屈んだ彼女に避けられる。視界で跳ね上がったのは爪先。俺は蹴りを受け止めナイフを突き出す。


 幾度も閃く互いの秋霜。残日の光が砕片みたいに散っていく。金属音は余韻を追いかけ、緘黙を破り続けた。細腕を受け流す。斬撃を避けられる。彼女の機鋒が頬を掠める。こちらの剣尖が白髪を僅かに切り払う。与え合うのは赤い一筋。抉ることも刺し貫くことも叶わぬ様は躊躇いを見せつけるようだった。奥歯を噛み締める。これでは駄目だ。殺す気で、と、胸臆で繰り返した。


 一刀。後退した彼女を追いかけ刃を翻す。反撃の隙を切り払う。空気の断裂音。ヒールの音。合奏の中で踊る長髪。彼女へ刃を振るう。一歩の後退。振るう。後退。彼我の距離、彼女の歩幅。ひたすらに振りかぶった鋒鋩を一直線に叩き付けたのと、回避を繰り返した彼女が壁に背を打ち付けたのは同時。然れど弾指の間で彼女が屈んでいた。俺の剣頭は壁紙を切り裂き塵埃を散らす。構え直そうとしたら脇腹に肘が打ち込まれる。倒れかけたきんげきを彼女は逃さない。肘で抉ったのと同じ位置を狙って俺を蹴り飛ばした。


 崩れていく俺を急追する影。床に手を突き足を旋回。脹脛を払われた彼女がよろめく。その態勢では免れられないだろう。突き出した腕。見開かれたオッドアイが目の前にある。彼女は俺の前腕を抱き込むように受け流して倒れ込んできた。


「くっ……!」


 呻いたのは彼女。捨て身で繰り出されたのは頭突き。与えられた鈍痛に舌打ちをしながら後方へ跳ぶ。俺が距離を取ったことで開いた間合い。眼路に彼女の姿がなかった。蒼然たる影が落ちる。息を呑み背後へ待避。床を穿通する踵。虚空を両断する刃。着地を引き金に、彼女という弾丸が飛び出す。


 接近。刃を弾き、弾かれる。微かに飛ぶ血痕。双方の前腕に滲む血。彼女に切り裂かれたカーテンが外れて落下する。気付けば防戦一方を強いられている。歯噛みするとともに切り込んだ。鋭刃で描こうとした軌跡を遮ったのは、蹴り上げられた遮光幕。紅い瞑色で色付いたそれを前に、瞬刻後退すべきか迷う。けれどもこの向こうに彼女がいることは確かで、そのまま貫いた。腕に伝うのは中空を押し潰した感覚。切歯と共に身を翻す。片足を軸に回転して迫る彼女。廻る勢いのままに刀尖が力強く打ち込まれる。刃で受け止めれば金属が甲高く軋んだ。押し合う刀を引くことなく、空いた手を振るう。吃驚で緩んだ彼女の力。掴み上げた首は簡単に折れそうなほど細かった。俺の手を外そうと動く細腕。それを認めた瞬間彼女の腹部へナイフを突き立てた。


「うあ……!」


 肉を穿った確かな感触。彼女の悲鳴に唇を噛む。俺が寸鉄を抜くと、首を掴んでいる前腕を貫かれた。尺骨が嫌な音を立てる。疼痛が指先にまで伝ったせいで彼女から手を離す。解放された彼女が動くのは早かった。仕返しとばかりに臓物を抉りに来る切っ先。逃れると共に華奢な手を掴んでやれば顎を蹴り上げられた。痺れが走り頭蓋が振盪する。白糸が宙を舞った。後背へ跳躍した彼女は絨毯を踏みしめると即座に追尾。繰り出される連撃。点滅する目の前を凝望して全て弾く。


 殷々と、轟然と。狂騒たる剣戟が響動とよみ続ける。赫々と、炯々けいけいと。燦然たる落日が裂かれ続ける。


 鮮血が絨毯に染みこむ。彼女が俺の爪先を躱したことで、テーブルが壁際へと蹴り飛ばされた。投擲されたのは机上にあった洋燈。顔を逸らせば風声が耳元を突き抜ける。砕けた窓硝子が茜空を反射して煌めいていた。


 思わず窓を一瞥してしまってから敏捷にアドニスへ向き直った。眼球に触れるほど迫った刀鋩。唾を呑み込み弾く。振り下ろされる刃。前腕で彼女の手首を押し留める。霜刃の鋭さを帯びた眼差しが、俺を刺し貫いていた。


「君は、何を気にしてるんだ。外なんて見なくていい。通行人が被害を受けようが、私が負傷して呻こうが、そんなもの気にしなくていい。優しさなんて殺しの枷になるだけだ」

「なんだそれ、自分に言い聞かせてるのか」


 冷汗を浮かばせ、嘲笑と共に彼女を突き退ける。瞠目した彼女の影を踏み抜いた。弧を描いた太刀先は受け止められていた。


「笑えるのなら、余計なお世話だったようだね」


 言われなくても分かっている。切っ先に滲む迷いは自覚できる。斬りつける度に止めたくなる腕を動かし続けた。迷うな。躊躇うな。胸裏に吐き捨て手首を返す。斬撃を繰り返す。連撃を重ね合う。見据えるのは彼女の動きだけ。繊月を描いた彼女の脚部。それを躱しながらナイフ軽く手放す。逆手に握りしめ肉を抉りに行く。切り裂いたのは上腕。彼女は俺とすれ違うように退避すると振り向きざまに空を切り払う。鼻先を掠める快刀。俺は上体を逸らしてからナイフで切り上げた。


 光が走る。胴を切られ身を引く彼女。矢庭に繰り出す刺突。それを受け流した彼女が俺の腕を掴んだ。豪然たる力で引き寄せられる。両脚が、地を離れた。投げ飛ばされた体。床に背を打ち付けて呻く。すぐに態勢を立て直そうとするも、刃口が喉に宛がわれていた。


 仰向けに倒れた俺の頭上で、アドニスが膝を突いている。柄を両手で握り締める様相は、祈る姿を思わせた。彼女の滑らかな髪が俺の頬に落ちる。見上げる双眼に影を落とす相貌。凛然とした瞳を見つめながら、俺は呼吸を整えていた。


「私は」


 血に濡れた白手袋が視界から外れる。彼女のバタフライナイフは床と旋律を奏でていた。仄日を虹彩に宿し、彼女は困り眉で俺に微笑みかけていた。


「君の願いも葬儀屋の願いも叶って欲しいと思う。それは一つの結末で同時に叶えられる。それなら、私が足掻くことに意味なんてないじゃないか」


 溜息混じりの言葉は晦渋だ。彼女は恐らく俺と葬儀屋のことをよく分かっている、それゆえに紡げたものだろう。本心を掴めぬまま、眉を寄せた。彼女の憂苦に彼女自身が含まれていないように思え、渋面を象ってしまう。


「あんたの願いだって、叶えたいと思ってもいいものだろ」

「それは……いいんだ。私が掲げていた夢は、叶えなくてもいいものだったからね」


 彼女が願っていたことを、明確には知らない。けれど死者蘇生と関わりがあることなのだろう。いつでも葬儀屋の指示に従う彼女が、あの日は彼に出かけることすら告げていなかった。潜考していれば彼女が悄々と語る。


「君を止めたくはない、君や葬儀屋を否定してまで私が我儘を突き通すのは違うんじゃないか――戦いながらずっとそんなことを考えていた。そう思うということは、私の気持ちはその程度。どうしてその程度なのか、そんなのは目を逸らしていただけで初めから分かりきってたんだ」


 衣擦れの音が静かに溶ける。彼女は外した白手袋を床に置いていた。戦いの終わりを示すそれに、俺もナイフを手放していた。起き上がる気力がないまま彼女と向き合い続ける。柔和に相好を崩した見目は綺麗だった。


「私の手で仇敵を殺さなければ、私がまだ生きていることを、私の存在を、許せないような気がした。恨みを晴らさなければ、私が人であることを認められないような気がした。けどその為の復讐なんて、要らなかったんだよ」

「仇が、もう死んでるからか」

「ああ。だけどそれよりも……君がずっと、私を肯定してくれていたから。もう、悔いはないよ。君の悔いもなくなるように、願わせてほしい」


 華奢な指が俺の前髪を撫ぜる。触れた表皮が微かに震えているような気がした。血が滴る腕を持ち上げて、彼女の手を取る。そっと握り締めて瞼を伏せた。気持ちを抑えたくなかった。この温度を、失いたくなかった。大切に包み込んでおきたかった。


「……ごめんな。俺は、あんたには生きていて欲しいよ」

「いいんだ。私は今、生きられなかったはずの時間を生き延びてる。そんな中で、私が〈神のグレイス〉であることも、死んでいるような体のことを知っても、私を人として扱ってくれた君がいる。これ以上は、望まないよ」

「あんたは初めから人間だろ」


 頭を振った彼女が、スカートを揺らして立ち上がる。離れていく姿を追いかけるように、体を起こした。四肢が痛む。滲み出す痛みに目を細め、ゆうくれないを真っ向から捉えた。割れた窓が涼風を通す。靡く白髪は振り返ることなく窓外の景色を眺めていた。


「神の子と言われ、悪魔の子と言われて、物として扱われて、死にかけの人形になって。私は人として扱われなかった。私は自分をそういうものだと思っていた。だから、君が私を、人だと思わせてくれたんだよ。この歪な世界で、こんなに歪な存在で、それでも君といる時は人になれたんだ」


 ありがとう、と零した彼女の、折れそうなくらい細い手首を引いた。俺を仰いだ驚目は滴を纏っていた。零されることのない夕露が、長い睫毛に隠される。ゆっくりとした転瞬の後、彼女のオッドアイは優しく撓んでいた。その頬に伝っていた血を、手の甲で拭ってやる。


「ごめんな、アドニス」

「謝らなくていい。君の人生だ。君が息衝ける選択をすればいい」

「……あんたは、覚悟を計りたいって言った。けど俺は、誰かを殺すとか許すとか、そんな決断をするような覚悟なんて簡単に固められない。だからもう少しだけ、考えてもいいか」

「時間はあるんだろう? それなら、悩むのは君の自由だ。それでも、君は彼を殺すし私は終わるのだと思う。それが君にとっても彼にとっても正しいことなのだと、思うから」


 玻璃のように透き通った双眸は、揺らぐことのない真情を宿していた。己の死に対する覚悟。今の俺には、粛然たる彼女の覚悟を否定することが出来なかった。彼女が見据えた正しさに唇を噛む。静かに首を振ってから、それでも、と囁きに似た口跡を深閑に溶かした。


「そんな結末になったとしても……俺はあんたが幸せであるように、願い続けるよ。この世が願いを反映してくれるのなら、あんたが死なないでいてくれることを、願わせてくれ」

「それなら、私も願っていいかな。別れが来ても、もう一度君に会えますようにって」


 それは浄福を与えてくれる願いだった。俺を望んでくれる彼女の頭を引き寄せる。初めて会った日、脈動を聞かせてくれた彼女のように、胸元に抱きしめる。喉元まで溢れてくる感情の名称。知りたくはないそれを理解しかけて、飲み下した。唇の隙間から零れかけた独白を、喉の奥へ追いやる。髪を梳くこの手が震えていた。


 伏せた瞼の裏で、姉の優しい眼差しを思い出す。彼女の死を悲し気に物語った葬儀屋を、想い起こす。奪われた事実に切っ先を突き立ててしまいたいのは、誰の為なのだろう。いつか、姉のような優しい人に。いつか姉を支えられる弟に。思い描いてきた自分と、今の自分。


 嗚呼、と気吹が唇に触れた。そうするのが正しいのだと思い込んだ正しさは、俺を理想から遠ざけるだけだった。





────────

あとがき(補足です)


*この作品は「小説家になろう」にも掲載しており、4章-4(この話)の戦闘後から展開・結末が多少異なります。興味のある方は作者Twitter又は作品タイトルを検索してなろう版を探してみてください。

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