悔恨の救い3

     *(一)


 トークハットのレースが視界を泳ぐ。グレーテの葬儀の後、教会の庭に建てられた墓の前に、私は立っていた。遺体は死後数ヶ月の腐敗状態だった為、最後にひと目かんばせを窺うことさえ叶わなかった。葬儀に参列したのはパン屋と関わりのある人々と、私だけ。父親はおらず、母親は数年前に他界していたそうだ。母のパン屋を失くさぬよう、数名の店員達と日々頑張っていたという。


 彼女が背負っているものは知らなかったが、努力しているのは知っていた。そんな彼女を、もっと励ましてやりたかった。友として、寄り添いたかった。


 供えられた花の香りに溜息を吐き、虹彩を覆った。瞼だけを眺め入り、乾いた唇を動かす。声は乗せなかった。どうか安らかに。空気を擦る程度の息吹は、風声に紛れる。開目し、空を見る。雲が透かす蒼穹。紅く染まり始めた白藍に、不思議と胸騒ぎがして落ち着かなかった。


 葬儀屋は今どうしているのだろう。恋人の亡骸を抱え、どこに向かったのだろう。彼の命は、終わってしまうのだろうか。私の、命は。


「……っ」


 惜しんで、貰えなかった。自惚れていたのかもしれない。息苦しい世界で、それでも私の為に生きてくれると、少なからず思っていたのだ。恩人に死んで欲しいなんて思わない。彼が楽になりたがっているのは知っている。それでも生きていたいと、そう思わせられなかったことが苦しい。私に情動を教えてくれた彼に、何も見せられなかったことが、悔しい。無力感に襲われる。今からでも、なにか変えられないだろうか。脳裏にはなにも浮かばなかった。何も出来ない人形のまま、終わりたくはないのに。彼が教えてくれた憎しみをどうすればいいのか、まだ答えを出せていないのに。


 誰にも報いることが出来ていない。そんな自身を、認められなかった。


「アドニスくん――……どうした?」


 コンラートの声に目を見張る。私はよほど酷い顔でもしていたのだろう。気抜けたような彼の眉目。微笑みを形作って首を振った。


「どうもしないよ。貴方こそ、私になにか?」

「ヴォルフは、いつ帰ってくるのかと思ってな。どこかへ行くなんて急すぎる」

「……さぁ、どうだろう。帰って、来るのかな」


 鴉が駆けていく夕影を遠望した。葬儀屋と初めて会った日も誰そ彼時だったなと、伏し目に視点をずらす。あの日、久しぶりに見た斜陽はあまりに眩しかった。優しく撫でてくれた手が、忘れられない。昨夜のことも思い出してしまう。最後には突き放すのなら、どうして愛情じみたものをくれるのだろう。


 沈吟していくうちに仏頂面を浮かべている。それに気が付いてコンラートを見遣れば、彼の手が持ち上がっていた。私と視線が絡むと、彼はその手を引っ込めていた。


「すまない。グレーテくんの葬儀で、辛いだろうに」

「大丈夫だよ、気にしなくていい」

「気を付けて帰るんだぞ」

「あぁ」


 コンラートと別れ、グレーテの墓に背を向ける。薔薇の花弁が風の流れを示していた。何の気なしにそれを目で追いかけると、教会の前にいた少女と顔を合わせた。私に声を掛ける機会を窺っていたのかもしれない。彼女――シルヴィは一心にこちらを向いて佇んでいた。細い足が駆け出す。飛び込んできた彼女を、咄嗟に抱きとめた。


「アドニスさん……!」


 幼い顔を濡らす雫。彼女は涕涙しながら私を見上げ、手にしていた紙袋を両手で握りしめていた。


「ごめんなさい、私っ、クッキー……グレーテさんに、渡せなくて、グレーテさん病気だったなんて知らなくて……!」


 死亡時刻と腐敗状態が一致しない。その事件は、奇病が原因として片付けられた。グレーテも、病でひどく腐敗していたと、参列者に伝えられた。


 しゃくり上げる少女の頬に手を添える。屈んで目の高さを合わせ、涙を拭い取る。落涙し続ける彼女の髪に触れて、安心させるように微笑んだ。


「私の方こそ、ごめん。君に辛いことを任せてしまって」

「でも、私、私……っ」

「クッキーは、良かったら君が食べてくれ。それか捨てていいよ」


 食べろと勧められ首を左右に振っていたのに、捨てていいと言われた途端紙袋を開いてクッキーを咀嚼する彼女。飲み込むや否やまた泣き出したものだから、懐からハンカチを取り出して目元に添えてやった。


「美味しい、です。すごく、すごく美味しいです……! グレーテさんも、この味絶対好きです……!」

「そうだと、いいな」


 彼女のマホガニーの髪が、夕焼けで輝く。茜空を宿した最後の一滴が小さな手を濡らしていた。


「グレーテさん、亡くなる前に新作のパンを考えていたんです。ブルーベリージャムと粉砂糖を使いたいって。アドニスさんみたいで、可愛いパンになるって。アドニスさんに、食べてもらいたいって、言ってました」

「……そうか」

「お店、暫くはお休みになるんですけど、もし再開したら、ぜひ食べに来てください」


 頷こうとして固まってしまう。私は、それを食べには行けない。この体では食べられないというのもある。なにより終止符を打ちに行った葬儀屋が、私から『いつか』を奪う。期待させて悲しませるのは嫌だった。困ったように笑うことしか出来なかった。


「……遠くに、行くかもしれないから。約束は出来ない。ごめんね」


 頷いたまま上げられない童顔。寂しげに足元を見つめる頭へそっと手を置いた。


「けど、どこにいても君のことは応援してる。グレーテが作ったパンも、君の作るパンも、沢山愛されるように祈っているよ」

「ありがとう、ございます……私も、アドニスさんが沢山笑えるように、沢山幸せになれるように、祈ってます……!」


 片膝を着いて彼女の頭を抱き寄せる。薄らと伝う人肌が、暖かくて心地良い。利き腕で抱きしめてから「さよなら」と囁いた。立ち上がって、彼女に踵を向けた。


 ふと、スヴェンのことが思い浮かぶ。疲れが溜まっていたのか、眠っていた彼。私と葬儀屋がいなくなるのなら、彼はどうなるのだろう。別れが訪れるのなら、せめて彼の足枷にならぬように、笑って別れたいと思った。


     (二)


 地下室から自室に戻った俺は、ナイフを握りしめたまま葛藤していた。渇いた眼に、昇ったばかりの赤日が刺さる。


 一週間。彼が設けた猶予は、長く感じた。憎悪に身を任せて、彼を殺す必要はあるのだろうか。俺はどうしたい。彼を説得してエリーゼの魔法を解かせ、エリーゼを埋葬する、その場合彼を許せるだろうか。――否、許せるわけがない。エリーゼはもう戻ってこない。彼はエリーゼの、助けてという言葉を無視したのだ。それどころかその手で殺した。挙句腹を開き臓物を食らった。


 俺の心臓の為に遠い街まで行ってくれた姉。母親を知らない俺に愛情を注ぎ、育ててくれた彼女。彼女の微笑みを思い出せば思い出すほど、彼女が亡くなった事実に愁嘆が込み上げる。彼女の命を奪った葬儀屋に、憤懣が沸き立つ。彼女はどんな思いで息を引き取ったのだろう。恋人に救いの手を払われて、食らわれて、どれほど辛かっただろう。


 許せるわけがない。彼の顔を見れば恨み言が溢れる。彼を忘れてここから去ることも出来ない。何もしない己に腹が立つ。今の俺に何が出来る。納得のいく終わりなど、葬儀屋を殺すことしか、ないじゃないか。


 エリーゼの最期など考えたくないのに、傷付いた顔が鮮明に浮かぶ。見覚えのある顔だった。嗚呼、と気付いてしまう。当日まで俺に何も言わずフェストを目指した彼女。独りになる俺を撫でてくれた細腕。突き放して、悲しませた。あれが最期になるなんて思わなかった。もう、謝ることすら出来ない。どうしてあの時、ちゃんと話さなかったのだろう。どうして、行かなくていいと引き止めなかったのだろう。


 柄を握りしめて布団へ横たわる。激情を鎮めたかった。瞼を伏せて眠りたかった。全てが夢になってくれればいい。そんな馬鹿げた懇願を唱え、暗闇だけを打ち守った。意識が沈んでいく。暗闇が広がる中で、エリーゼの声が聞こえる。朧げな情景が視野を満たす。


 これは、いつかの記憶だ。幼い俺に、彼女は眉尻を下げていた。


「ケーキ、食べないの? 美味しいわよ」

「要らない。なんでそんなもの買ったんだよ。そんな余裕ないだろ」

「でも、誕生日じゃない。スヴェンの誕生日、祝ってあげたいって思うのはいけないこと?」

「エリーゼだって、俺がいなければ良かったって思ってるんだろ。無理に母親ぶろうとするなよ……!」


 振り払ったフォークが五月蝿いくらい音を立てる。余韻に重なったのはエリーゼの嘆息。彼女の傷付いたような顔に、口を噤んだ。村の大人達は、エリーゼを憐れむような目で見ている。俺を、厭うような目で見ている。彼女はそんなことを気にする余裕すらないのだろう。何も知らないような瞳で俺を咎めていた。


「貴方がいなければなんて、思ったことないわ。どうしてそんな悲しいことを言うの?」

「酒場のおじさんが言ってた。俺のせいで母さんが死んだって。良い人だったのにって。宿屋のおばさんも言ってた。エリーゼ、まだ子供なのに、働いてばっかで可哀想だって。俺がいなければ、母さんは死ななかった。エリーゼが無理する必要だって、なかったんだろ」


 彼女が湛えたのは憤り。けれども、色濃い悲しみがそれを覆い隠す。何もしてくれなかったくせに。ほぼ吐息だけの呟きは、俺に聞かせようとしたものじゃない。その意味を問い質そうとしたら、勢い良く降ってきた手の平が俺を俯かせた。


「前にも話したでしょ。お母さんは貴方に生まれてほしかったのよ。生きてって、貴方にずっと声を掛けてたの。私だってお母さんに死んでほしくなかった、スヴェンにだって生きてほしかった。だから私は、貴方だけでも生きていてくれていることが嬉しいの。貴方が元気に大きくなってくれるなら、頑張れるの。無理なんてしてない。ただ、大切にしたいと思うだけ」

「けど」

「それでも私が可哀想って思うなら、大きくなったら花でも贈ってくれる? あれがいいわ、なんだっけ。白くてふわふわしてる……ほら、ミシェルがこの前持ってたお花」

「カーネーションだろ。なんで花なんか……どうせ枯れるのに」

「枯れたら、もう一度贈ってくれるでしょう? 花が枯れる頃に、私のこと、思い出してくれるでしょ」


 俺の髪を乱雑に掻き回してから、エリーゼは俺を抱きしめた。痩せた肩が、震えているような気がした。


「一人は、寂しいもの。みんないなくなって、誰にも想われなくなったら、悲しいもの。だからね、貴方がいてくれてよかった」


 ねえ、と、耳元で掠れ声が揺れた。


「スヴェン、生きていてくれて、ありがとね」


 首を左右に振りたかった。だって俺は、エリーゼに生きていて欲しかったから。再会して、生きていてよかったと、安堵したかったから。

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