悔恨の救い2
航海の中、悪天候に見舞われる。幸い難破はしなかったものの、船は長らく海上を彷徨った。フェストに着くまでの日数が伸び、彼女と過ごす時間も長くなる。付き合わないか、と切り出したのは、彼女の方だ。
赤ら引いた残陽が金糸を輝かせる。白藍の両目は真っ直ぐに僕を射抜いて離さない。僕の部屋に来るなり、彼女が告げた直情。目を皿のようにしたまま黙然としている僕へ、彼女が続けた。
「フェストに着いたら、貴方と話せなくなるなんて寂しい。貴方とさよならなんてしたくない。恋人になればまた会ってくれるでしょう? 私達の関係に、離れられない名前を付けたいの」
「僕は、君が思っているより非道な人間だよ」
「知っているわ。時折、貴方はそうやって暗い顔をするでしょ。でも私と話している時は楽しそうだもの。それなら、私といればきっと悲しくなくなるんじゃないかって思うの。貴方を、一人にさせたくない」
断るのが正答で、突き放すのが正解だったのだろう。だが、僕も彼女を求めていた。彼女といれば、殺し喰らう日々から離れられると思った。死体を愛してしまう歪みを、正して貰えると思った。困り眉で微笑みながら、口付けを渡した。契るように指を絡める。愛おしいと、心から思えた。死体なんかよりも彼女が美しい。血肉よりも彼女が欲しい。僕は正常に戻れたのだと、思い込んだ。
目的の航路へ進み直した船が、フェストに辿り着く。その前日。船が激しく揺れた。僕に紅茶を持ってきてくれた彼女の頭上で、金属音が弾けた。服を作る為に布を切っていた僕が、そちらに目をやった時。照明が彼女に降り注いでいた。玻璃が砕けるけたたましい音。倒れていく華奢な体。自身の体温が凍えていくのを感じた。
「エリーゼ!」
洋燈の重い傘が打ち付けられたのだろう。後頭部から流れる鮮血が彼女の髪を染めていく。咄嗟に抱き起こし、血が溢れる頭を押さえた。血を止めなければと押し当てた手の平が、暖かな液体で濡れていく。滑る手触り。視界を綾取る美しい緋色。震えた唇を僅かに開いて、硬直した。
「ヴォルフ……」
苦し気に睫毛を伏せる相貌。込み上げる唾液を、飲み込む。安らかに瞑目してくれたなら、どれほど美しい亡骸になるのだろう。喉が渇いていた。ずっと、渇き続けていた。愛で誤魔化しても無駄だった。この体が欲していたのは初めから一つだけだ。
空いた手が冷たい鋏を握り込む。目を伏せたエリーゼの指が、僕の袖に皺を刻む。喉頸から震えた息が込み上げた。わけも分からず、僕は笑っていた。
「たすけ、て……」
血煙が迸る。彼女の胸を深く貫いた。吃驚の音吐すら気にならなかった。血と肺腑と死体、それだけを希求していた。愛おしいと思った人間の死体は、きっと何より綺麗だろう。彼女の血はどんな
食欲の唆るまま、内臓を露出させて喰い付いた。獣のように、血塗れの口を拭うことなく食べ続けた。何日血肉を食べていなかったのか。久方振りの人肉は、目の前が掻き曇るほど美味しかった。肺を、心臓を咀嚼する。噛むと同時に口内に溢れ出す血液。啜るようにしながら咀嚼を繰り返す。空っぽになった体。それでも足りない。剥き出しの
燭明を灯すよう、目の前が鮮明に映し出される。横たわっている血塗れの女性。血と脂で塗れた両手。愛した人は、悲しげに眠っていた。
「エリーゼ」
今し方のことを、想起する。自身が犯したことを、把捉する。
今更鼓膜を打つ『助けて』の声。綺麗で、僕の淀んだ心を掬ってくれた声。彼女の頬を片手で包み込んだ。精彩を欠いた白磁の肌を、紅血で色付けた。彼女の瞼が濡れる。霞硝子を覗き込むように、眼界が滲む。何も紡げない。声が出せない。呻吟が謝意を象ってくれることはなかった。
彼女といれば、僕は人に戻れる。生きた人間を愛し、普通の食べ物を美味しいと語り合って。人らしく、生きていける。そう信じていた。伸ばされた手を、取れなかった。魔力に縛られた心は異端から逃れることを許さない。垣間見えた曙光。それは、僕が歪であることを色濃く示しただけだった。もう戻れないのだと、平明に突き付けられた。
ならば期待なんてするものか。不相応な
それなのにどうして、人に憧れてしまうのだろう。どうして、解放されたいと願ってしまうのだろう。
堕ちると決めた心はいつだって揺らいでいた。そのせいで、今際の
回顧したアドニスのことを、彼に語る必要はないだろう。唇を閉ざし、ゆっくりと、睫毛を伏せる。
次いで虹彩に映ったのは、白練の髪をした青年の険阻な外貌。痛憤を剥き出しにしている彼へ微笑した。
「僕はエリーゼの腹を縫い合わせ、血を拭って魔法を掛けた。死なせてしまったことを後悔していたし、彼女の死体も愛おしくて堪らなかったからね。朽ちないようにしてから、鞄に詰めて持ち帰った」
「死なせてしまった……? ふざけるなよ……殺したんだろ!」
剣尖が標的を定める。僕を射抜く白藍の眼は、彼女の色を思わせた。初めは、気付かなかった。金髪の姉を探していると聞いても、彼が偶々名字を名乗らなかったこともあって、すぐには繋がらなかった。
気付いたのは心臓がないことを知った時。全てが繋がり、彼が探しているのがエリーゼであることを、確信した。信じたくない気持ちを振り払うように、コンラートと彼が会った時、フルネームで彼を紹介した。彼は訂正も否定もしなかった。彼女の大切な弟。そう認識したら、彼へ憂慮が湧いてしまって余計なことも口にしたかもしれない。彼が姉に辿り着く糸口。少しずつ、それを紡いでいった。罪滅ぼしのように。
「見殺しにしたわけでもない……あんたがその手で殺したんだ! 愛おしいなんて口にするな!」
「武器を下ろすんだ。気持ちは分かる。君の憎しみも受け入れよう。だがね、今それを振るわれれば彼女が傷付くかもしれない」
「エリーゼを離せ」
「一週間、時間をくれないか。僕はすることがある、君だって心を整理する時間が必要なはずだ。グレーテくんの葬儀、アドニスのこと。何も考えず今ここで僕を殺して、君はそれでいいのかい?」
今にも振り翳そうとしていた鋭鋒を、彼は握りしめたまま歯噛みしていた。向けられる殺意が霧消することはない。唸るような静かな怒声が僕を貫いた。
「エリーゼを、どうするつもりだ」
「どうもしないよ。だがそうだな、綺麗な景色でも見せに行こうか」
「わけのわからないことを……」
「一週間後、森の奥にある屋敷の前まで来るといい。本でも読んで待っているよ。最後の一冊を何にするか悩んでしまうな」
地下室に響かせた革靴の音色。呼び止める声はない。背後を打ち見すると、彼は己の拳を睨みつけていた。慰めるように振り返ることはしない。描いた道を進むべく、踏み出していく。
この屋敷に帰ってくることはもうないだろう。一階の廊下を凝望して感傷に浸っていれば、純白の柳髪が薄暗い虚空を泳いだ。調理場から出てきたのはアドニスだ。彼女は僕とエリーゼを見るなり、物憂げに眼を細めた。
「葬儀屋、その人は……貴方の、恋人ですか」
「よく分かったね」
「その髪色……契約の証でしょう」
「あぁ、そうか」
抱きかかえる体躯に目を下ろす。さらりとした金糸は僕の諸目と同じ色を宿していた。踵を引いて出ていこうとした僕の足を、アドニスの声音が縫い留めた。
「どこへ行くんですか」
「そうだな……戻れないから、終わりの準備をね」
「何が、あったんですか」
矢のような視線は、真っ直ぐに僕を捉えて離そうとしない。彼女と談笑をするつもりはなかった。はぐらかすように適当な詭弁を弄すれば、諦めるだろうか。黙想してから口端を引き上げた。
「君は、僕が大切なのかい? 秘密を話して欲しい、置いていかれたくない、そう思うほどに?」
「何を言って……」
「僕は今でも彼女が愛おしい。死体となった彼女が、冷たい体が、愛おしいと思ってしまう。君だって冷たい死体なんだがね、もしかしたら僕は、君が性別を持たないから好意を抱けなかったのかもしれない。嫌になるな、偏見は嫌いなのに僕もそういう感情を持ってしまっているのか」
「……そうじゃないでしょう」
懐刀を抜くように、犀利な声柄が空無に染み込む。彼女の想念を汲み取れない僕は笑うことしか出来なかった。
「或いは僕はきっと、完全に死んでいる人間でなければ、愛せないんだろう」
「言われないと分からないんですか。貴方は、その人が愛おしいんですよ。死体だからじゃない、生きていた時のその人が、その人の存在が愛おしいんでしょう? 貴方はずっと、ちゃんと生きた人間を愛し続けてるんです。狂ってなんかいない。生きた他人を愛そうとして正常かを確かめる必要なんてない。亡くした人を想い続けている貴方は――」
「それでも僕は彼女を殺した。正常なんかじゃないだろう。正常に、戻れないんだ」
掻き抱いた体が重く感じる。どれほど熱を注いでも、温まることのない身体。息を吹き返してくれないかと願い続けても、叶うことがなかった。戻らない時間、変わることなく血肉に飢える咽喉。足掻いたところで、全て
人形じみた端麗な相貌が一歩近付く。咎めるようなオッドアイは目に痛かった。
「だから、終わらせるって言うんですか」
「あぁ。惰性で生きるのもここまでだよ」
スヴェン・ディークマイアー。彼との邂逅を、運命だと思ってしまったから。愛おしい人を殺した罪人、そんな僕の前に現れた彼女の弟。エリーゼの弟だと分かった時点で、生涯の結末を思い描いた。僕を裁く権利が彼にはある。裁かれて、真っ当に終われるのだ。最期くらいは、正しく在りたかった。
アドニスが柳眉を寄せていた。先程までグレーテのことで泣いていたせいだろう、赤らんだ目元が泣き出しそうに見える。その目の中で淡い夜闇が揺蕩っていた。
「……私の命を、握っているんですよ」
「躊躇って、欲しかったかい。だがそうだな、躊躇えたなら、僕はまだ希望を持てたかもしれないね」
憂色を広げていく容顔。俯いていく繊弱な姿。出会った頃を想起する。神を呼ぶ虚ろな声。助けた僕を神様と呼んだ彼女。感情も、表情も、彼女は知らなかった。劣悪な環境で忘れてしまったのではない。神の声を聴くこと以外、何も教えられてこなかったのだ。四年を経て年相応に大人びてきた彼女の、未だ幼い根の部分が垣間見えていた。
慰めてやりたくて、エリーゼをそっと床へ座らせていたら、鈴の音が玲瓏と転がる。
「ごめんなさい」
「なぜ君が謝るんだ」
「貴方に、大切だと思って貰えるような生き方が出来なくて。ごめんなさい」
「それは違う。君は……利口な人形だったよ。だから、僕が歪んでいるだけだ」
「……私、は」
彼女は良い子だった。僕と過ごしていく中で、感情を知っていく彼女を見るのは楽しかった。祈ることしか知らなかった彼女が、顔を歪ませている。それはとても、微笑ましいことだった。
「成長したね、アドニス」
床を見つめ続ける頬に触れる。素手で触れた彼女の氷肌は酷く冷たい。村人達に『存在しない日』と思い込まれた日付に生を受けた彼女。その存在は曖昧で、死に近い。魔力が形作った、人と違う証だ。人間ではないと証すものだ。だからこそ期待させてはいけなかった。君は大切な人だったよと、紡ぎたくはなかった。彼女は死んでいるような体だからこそ、自身が人であると誤解するのは辛いはずだ。初めから、自分は人ではないと思っていた方がきっと辛くない。
ふ、と苦笑が口端に滲む。歪まされるのなら、僕も〈
揺れた白髪が手の甲を擽った。冷たい手が僕の手に重ねられる。振り払うような強さはなく、ただやんわりと腕を下ろされる。頬から離した僕の指先を、彼女は震えながら軽く握っていた。
「私は、成長しません」
「心の話だよ。疲れただろう、今日はゆっくり休むといい。グレーテくんの葬儀の準備をコンラートに任せておいた。明日には葬儀が行われるだろう。コンラートが呼びに来るはずだ。僕は出掛けたと言っておいてくれ」
「……はい」
「アドニス、僕はもう行くよ。離してくれるかい?」
僕を押さえているのは、強引に解いてしまえるくらい弱い力だ。けれど僕から解くことは出来なかった。今は、彼女の好きにさせてやりたかった。
冷たい体温は離れていかない。少しでも温めてやりたくなって、空いた手で彼女の雪肌をそっと包んだ。エリーゼに触れた時のように、僕の手が冷えていくだけで苦笑いを浮かべてしまった。
「葬儀屋」
「なんだい?」
「幸せな時間は、ありましたか。私は少しでも、貴方に恩を、返せていましたか……?」
白魚のような指が僕を解放する。解語の花は綻んだ。一夜で枯れてしまいそうな、儚い微笑み。柔らかに彼女の首が傾く。言問う彼女の頭に手を置いた。そっと撫でると、髪飾りのアネモネが宙を舞う。絹糸を伝って落ちたそれを拾い上げ、髪を梳きながら付け直してやる。青い花弁は純白に映えて綺麗だった。
「ああ。僕は……」
首肯する。華奢な肩が震えていた。服も髪飾りも、全て僕が与えたもの。人形を飾るような気持ちで纏わせただけのもの。それでも僕に渡されるものを珍しそうに見たり、壊れ物を扱うように触れていた彼女の姿が浮かぶ。思い返してしまう過去が、彼女を大切に思っているみたいだった。僕は思惟を切り崩す。
「僕は、君の淹れる紅茶が一番好きだ」
小さな頭を抱き寄せた。別れる親子はきっと抱擁を交わすものだろう。彼女の腕は垂下したままで、僕をこれ以上引き止めようとはしなかった。良い子だなと唇の裏で零して体を離し、エリーゼを抱き上げる。
「気を付けて、行ってらっしゃいませ。……ヴォルフ」
背中に降りかかる、アドニスの声。振り返りたくなった爪先をそのまま前へ。扉を開けて
少女に名で呼ばれるのは苦手だ。エリーゼの声を思い出してしまうから。失くさないように、抱きしめたくなってしまうから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます