軽蔑と願いの狭間8

     (五)


 葬儀屋の語り口と、グレーテの人柄のおかげで、二人の会話がどんなものだったか想像がついた。その始まりはまるで、優雅なティータイムで談笑するような風情だったのだろう。


 暖かな日華が満ちる昼下がり。葬儀屋の『二人で話がしたい』という頼みにグレーテは快く応じたようだ。パン屋の裏にあるテラス席に彼を招き、向かい合って座った。パン屋は品物を持ち帰る客が多く、店内で食事をする人もあまりいない。テラス席はもう使われていなかったらしい。


 彼女に出されたティーカップを揺らし、葬儀屋は眉尻を下げて微笑んだ。


「この花は、君に」

「あら、綺麗な百合。ありがとうございます。お話っていうのはアドニスちゃんのことかしら……」

「いや、少し違うな。君にとっては嫌な記憶について、話しに来たんだ。だからこの花はお詫びと、いつもアドニスが世話になっているお礼だよ」


 百合の花束を受け取り、その花弁を撫でながら、グレーテは首を傾げる。訝しむ様子はなく、純粋な疑問を呈していた。


「嫌な記憶……って?」

「君は、死者蘇生を謳う男を知っているかい?」

「死者蘇生……なんだったかしら。なにか……聞いた気がするんだけれど、ごめんなさい。最近記憶が曖昧で」

「それはそろそろ、君の体がもたなくなっているからだ」


 追懐に浸ろうとした彼女は頭を押さえて呻いていた。陽光を睨むほどの頭痛を訴えていた。葬儀屋はその姿を憂い、哀れだと感じたようだ。愁歎を紅茶で流し込み、彼は真率に続ける。何一つ隠す気なく、つまびらかに。


「恐らく君は、もう亡くなっている。一時的に意識が保たれていて、一時的に腐敗が遅められているだけで、その肉体はもう死人のものだ」

「なにを、言っているの?」

「自分の胸か手首、首元に手を当てて脈を計ってみるといい。拍動が、聞こえないだろう」


 促されるまま、グレーテは自ら脈拍を確かめた。初めに手首、次に胸元、最後に首。次第に彼女は俯いていった。机上に置かれた手が震えている。葬儀屋の諸目で確と捉えられるくらい、悲しげに。


「……そう。そうね。私、おかしかったの。何か月も前のことが、昨日のことのように感じたり、昨日のことを思い出せなかったり。パンの香りに、嫌な臭いが混ざったり。暖かいパンを素手で触れなくなって、人肌にも、触るのが怖かったの。なんだか熱かった。それは私が、もう死んでいたからなのね」

「君は、肉体の限界が来たら改めて死ぬ。その前にしたいことをしておくといい。なにか言伝があれば、アドニスに伝えておくよ」

「したいこと、かぁ……アドニスちゃんのクッキー、死ぬ前に食べられるかしら」


 言葉を、失ったという。葬儀屋にしては珍しいことだった。死を知った彼女はとても優しい顔でアドニスのことを思い浮かべていた。暖かに、言笑をしていた。


「きっと美味しいわ。あの子は優しいもの。とても丁寧に、気持ちを込めて作ってくれると思うの。優しい味がして……私はそれを気に入るのよ。美味しいってにっこり笑ったら、アドニスちゃん笑い返してくれるかしら。喜んでくれるかしら。私ね、アドニスちゃんのおかげでいつも笑っていられるの。お店に並んでいる私のパンを可愛いって褒めてくれて、私のことも心配してくれて、私と、他愛ない話をしてくれて。私も……クッキー、作ってみようかな。私も、アドニスちゃんに嬉しいって気持ち、渡せるかな」


 人好きのする笑みが、崩れ始める。グレーテは柔和に笑もうとしていた。けれどもその頬は濡れていく。木造りの机が、雨滴を滲ませる。


「何年か前のことなのだけれど、苦手なお客さんがいたの。わざとパンを落として、新しいパンをタダでくれって言うのよ。落としたパンは家畜の餌にするから持ち帰るっていつも言っていたわ。私は断れなくて毎回笑って聞き入れていたのだけど、ある時ね、ちょうど店内にいたアドニスちゃんが言ったの。私の優しさに甘えるなって。私が心を込めて作ったパンを、わざと落として無駄にするなって。私、すごく嬉しくて……この子とお友達になりたいって思ったわ。結局お店で会うだけの、店員とお客さんの関係だったけれど……もっと、もっとたくさん話して、アドニスちゃんとお友達になりたかった。お仕事の休みが取れたら一緒に遊びに行って、一緒に美味しいものを食べてみたかった。駄目ね、伝えたいこと、いっぱい出てきちゃう。ごめんなさい。私、嫌みたい。まだ、死にたくないみたい」


 葬儀屋がハンカチを取り出したことに、目を擦り続ける彼女は気付かない。細い肩は震え、乱れた呼気に合わせて跳ねていた。


「私、いつまでもつのかな。アドニスちゃんに、またねっていつも言うの。今日は、明日は、その言葉を嘘にせずに済むのかな」


 それからは、落ち着くまで彼女は謝り続ける。それはアドニスに向けたものでもあったし、葬儀屋を困らせていることへの謝辞でもあった。百合の花束が、朝露を零し始めた頃。彼女は、その花とよく似た笑みを咲かせた。


「私の気持ち、全部伝えてなんて、言えないから。これだけ伝えてほしいの。アドニスちゃん、仲良くしてくれてありがとねって。大好きだよって、伝えてください」


 在りし日の、グレーテとのやり取り。


 葬儀屋の簡素な語りは、彼女の一笑を思い描くには十分なほど優しく、彼女が滲ませた惨苦を容易に想見出来るほど、しんとしていた。


 俺の隣に腰掛けるアドニスを、そっと覗き見る。彼女は机上を眺め入ったまま、黙然としていた。肉料理を平らげた葬儀屋がナイフとフォークを皿に置く。粛々たる空気の中、葬儀屋はテーブルの隅にあった皿を手繰り寄せ、布を取り去りクッキーを摘まんでいた。


「アドニス――」

「っ私は! 私は友達だと思ってた……!」


 透き通った硝子が、割れるような叫びだった。流れる白髪で面差しは窺えない。それでも悲しみを見つけてしまう。奔星のような微かな光が、夜空を砕いたように零れ落ちていた。


「私だって、心配してくれるグレーテが、笑ってくれるグレーテが……!」


 喘鳴が声を殺していた。俺は唇を噛み締めて、彼女から顔を逸らすことしか出来ない。それでも、しゃくりあげるような嗚咽に手を伸ばしていた。絹糸じみた白髪に熱を注ぐ。彼女の頬が乾くまで、撫で続けた。


 ああ、と思う。幼い頃、母がいない理由を知って泣きじゃくった俺に。エリーゼもこうしてくれたな、と。瞬きにつられて閉じていく思い出の中に、手を伸ばしたくなる。エリーゼの背中を、追いかけたくなる。


 落ち着いたアドニスへ、葬儀屋がクッキーを差し出していた。苦笑しながらもそれを受け取る彼女。口許へ運んでからハッとしたように両目を丸めていた。自分は食べられないのだと唇を尖らせ、葬儀屋に押し返している姿は無邪気に見えて、微笑ましかった。少しでも元気が出た様子に一息吐き、俺はソファから立ち上がった。


「スヴェンは食べないの?」


 真っ白な手が、俺にクッキーを差し出す。鼻声に、泣き腫らした目。ふ、と笑ってもう一度小さな頭に手を置いた。


「ちょっ……」

「俺はもう食べたからな。後は葬儀屋にやる。疲れたから、先に寝るよ」

「あ……そうか。今日も、助けてくれてありがとう」


 花のような笑みが、焦慮を沈淪させてくれる。彼女に「ああ」と返してから、俺はゆっくりとした足取りで食堂を後にした。向かったのは、三階。やめた方がいいと告げる俺はいなかった。引き返そうとも思わなかった。葬儀屋の部屋に、躊躇うことなく立ち入った。


 明かりの灯っていない暗澹とした室内。目を凝らして宵闇に慣れていく。棚にも、机上にも、いくつもの本があった。手に取って表紙を確かめる。どうやら、魔法使いに関するものや、魔法に関するものらしい。開いてみれば、人が魔法使いになる経緯や〈神の子グレイス〉についても書かれていた。いくつもの事例を取り上げており、短編小説のようでもあった。一般人が見ればただの空想物語。魔法使いである葬儀屋はこれを読んで自身と繋げたのだろう。相当読み込んだらしく、どの本にも書き込みがしてある。


 魔法使いになる原因。その中にある一文に、何度もペンを叩きつけたような痕があった。『魔力から解放される術は見つかっていない』。そのページから先は読んでいないようで書き込みは何もない。他の書物も同様だ。下線を引いてあったり、メモが書き込んであったり。僅かに紙を鳴らして読み進めていたら、窓枠が揺れた。肩を強張らせて外を見る。小夜風に草木が翻弄されていただけだった。


 本を閉じて棚を漁る。手始めに机の一番上の引き出しを開け、緊張感が高く跳ね上がった。そこに収められていたのはキーリング。いくつもの鍵が通されたそれは、俺が求めていたものだった。


 音を鳴らさぬように握りしめ、静かに退室する。乱れ始める呼気を落ち着かせ、地下に至るまで階段を下った。下っていくにつれ、酸素が薄くなっていくような錯覚で指先が震える。


 光沢のある、木製の両開き戸。キーリングに通された十数種類の鍵を一つずつ試していく。俺は、確かめたかった。何かを隠しているような葬儀屋。彼は、何かを知っているのかもしれない。彼が掩蔽えんぺいしているものに、招かれているような気がした。覗き込まなければ、いけないような気がした。


 彼が何かを隠すのなら。その場所は、ここしかないだろう。


 解錠の一音が、指先に触れた。沈着に、真鍮のドアノブを捻る。扉の奥は美術館の一室を思わせる広い部屋だった。飾られているように立ち並ぶ人形は、どれも作りかけらしい。机の上には絵筆や針など作業に使っているのであろう道具が整然と並べられていた。反響する靴音を抑えながら奥へと進む。何色もの布が掛けられているクローゼット。その向こうに、豪奢な天蓋付きのベッドが置かれていた。彼が作業の合間に使うのだろうか。そう黙思してしとねを窺った。


 靴底が残響に留められる。


 一驚を喫した身体が、凍り付いたように動かなくなる。


 想起してみれば、俺の心臓のことを、姉のことを、知っていたように語っていた彼。クッキーのレシピは俺が教えたものだと言ったとき、腑に落ちたような顔をしていた。零された、エリーゼという名前。


 躓きそうになりながらもベッドに近付いた。眠っているのは一人の女性。金糸は、アドニスの髪を思わせる藤紫で淡く染まっている。金と紫、それは見慣れない髪色だ。けれども、その寝顔に、姉を重ねてしまう。


 恐る恐るその瞼を開こうとした。震える手を伸ばす。これが葬儀屋の作った人形であればいい。或いは、白藍の瞳が俺を映し、追いかけてきた俺に苦笑してくれればいい。恐れを飲み下して彼女に影を落とした。


「確認しなくても分かるだろう、無理に目を開かせるのは如何なものかな」


 彼女の体温すら確かめる前に、声が響いた。虚空に触れていた手を体の横へ下ろす。上手く動かない足を滑らせ、扉の方を見返した。


 葬儀屋の革靴が秒を刻む。緩やかに俺の傍へ赴いた彼は、仰向けに眠る女性の氷肌を撫でた。愛おしむような手つき。慈愛に満ちた瞳。人形のように動かない体が、彼に抱えられる。


「……どういう、ことだ。その人は」

「エリーゼ・ディークマイアー。君の姉であり、僕の恋人だ」


 辛うじて放った舌鋒に、彼らしくない空笑いが返される。思考は追いつかない。彼が何を言っているのか噛み砕く間、息が乱れてどうにもならなかった。困惑に憤りがまとわりつく。鋭鋒を握りしめて詰問したい。だが顔気色は悲痛に引き攣る。彼の苦衷くちゅうを、鏡みたいに映してしまう。


 なんであんたが、そんな顔をするんだ。


 吐き捨てることも出来ず、震えるばかりの咽喉。歯を擦り鳴らした音は、花片が舞うような科白の中へと霧消した。


「君に、僕の思い出を話そうか」


 拍動が速まる。この体に、心臓はないのに。

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