軽蔑と願いの狭間6

 辿り着いた工房は民家と変わらない佇まいだった。叩き金を鳴らさず扉を開け放つ。ナイフの刀身を抜くべく虚空を薙ぐ。垂下させた腕に鋭刃を携え、廊下の先の扉に手を掛けた。


 夜陰を思わせる薄闇に室内光が差し込む。鼻腔を突き抜けた腐敗臭に目を見開き、閃いた軌跡を即座に刀尖で押し留めた。俺に斧を打ち付けたのは眼球のない男性。蒼褪めた肌も真黒な眼窩も生きている者のそれではなかった。だというのに、受け止めている俺の手を震わせるほどの力が切っ先に伝っていた。勢いよく彼の刃を振り払い、脹脛ふくらはぎを蹴り飛ばす。床へ崩れ落ちた彼を警戒しながらも、部屋へ足を踏み入れた矢先――。


「ああぁぁぁあああああああ!」


 幾重にも連なる叫喚が、室内に溢れ返った。跳ねさせた肩を落ち着かせるも、表皮が痺れ、思わず一歩後退してしまう。俺の足元で靴底が擦れる音が鳴る。それを合図にするように、何人もの男女が俺に武器を掲げてきた。


「なんだ、これ……!?」


 男性の剣を払い除ける。女性の包丁を躱す。前方の敵を相手にしていれば囲まれている。振り向きざまに切り上げる。後退しようにも背後に敵。闇雲に武器を振るうだけの彼らは止まることを知らない。左方の敵を薙いだ隙に右腕を切られた。正面の剣に応じれば背骨に傷痕が刻まれる。呪詛のような声が止まないせいで、風切り音すら捉えられない。


 回避に徹しながら勘案する。ナイフ一本でこいつらをどう薙ぎ払えばいい。懐には葬儀屋から預かった拳銃があるが、弾はたった六発。眼のない死体も正確に俺を狙ってくるのだ。目晦ましに洋燈を砕いたところで不利になるのは俺の方だろう。


 冷汗を浮かばせ、伝った血で滑り始めた拳を固める。襲い来る剣を受け止め、視界の端で捉えた氷刃を屈んで躱した。振り下ろされる鉄管を蹴り上げながら跳躍、背後へ着地した俺は休むことなく機鋒で空を切った。刃物を、腕を、鈍器を切り払って一回転、向き直った正面へ腕を突き出す。


 女性の胸を通貫した刃をすぐさま抜いて薙ぐ。男性の死体と相対し、貫いた女性を後ろ目に窺った。姿勢を崩しただけで事も無げに包丁を振り上げる彼女に舌を打つ。既に死んでいる彼らの、心臓を突いたところで動きを止めることは出来ないのだろう。身を引こうとした俺の肩口に、熱が走った。


「くっ……!」


 深々と肉に沈み込んだ快刀が鎖骨を鳴らす。指先を跳ねさせた激痛を噛み締める。追撃の手が来る前に、背後に立つ死体の腕を切り上げた。切断されたそれが宙に舞う。俺の心臓を抉りに槍と斧が向かい来る。避けようにも別の武器が待ち構えているのだろう。俺は床を擦り鳴らし、両腕を振るって二つの刃を弾き退けた。


 右腕にはフォールディングナイフ。左腕には死体が握っていた剣。


「……ハ」


 震えた唇が漏らしたのは嘲笑。俺自身に向けたものか、彼らに向けたものかは定かでなかった。ただ込み上げてきただけの息遣い、それだけでしかなかった。


 俺一人で、たった一本のナイフで勝ち目がない。そんな思い込みを抱いて絶望するのなら現実逃避をした方がマシだ。


 武器なら、ここにいくらでもある。魔力という盾だって、こちらにはあるじゃないか。


 下げていた足を前に出す。防ぐ動作は全て思考から捨てた。斧を持つ男の腕をナイフで切り飛ばす。俺に影を落とした敵に向けて刀を投げ飛ばす。空いた手で掴み取る斧。振り仰ぐままに不可視の水平線を切り裂いた。眼界で飛んだのは鋸だ。それを斧で打ち払う。高速で回転しながら壁へ突き退けられた鋸は、いくつかの腕と首を刎ねていた。切断された人体が飛び交う中へ躍り入る。斧を背後に投擲、細剣を掴んだ腕を振り払って己の腰へ引き付け構える。狙いを定めた突きは女の首を抉った。それを切り離してから小刀で斬撃。背後の敵へ肘を打ち付け、眼前に迫った男の腹部へ踵を叩きこむ。


 斬り、奪い、投げて裂く。何度それを繰り返しただろう。部屋の隅から発砲音が響いた。


 物が散乱する室内で拳銃を見つけたらしい死者。彼を認めるなり、俺はそちらへ飛び込んでいく。二発目の銃弾を潜り抜け、その腕を切り上げる。耳障りな慨嘆を伴って、舞い上がった腕から拳銃を掴み|撃鉄を起こす(コッキング)。筒音を一つ響かせて切り込む。首一つを宙へ払ってから振り向く。数本の剣芒が一斉に振り下ろされる間際、俺はナイフを咥えて両手を構えた。


 空いた手でコッキング、引鉄を握りしめた。跳ねた撃鉄を起こす、引きっぱなしにした引鉄を震わせ発砲。照準をずらしながら弾が尽きるまで手を動かし続ける。金属音、轟音。硝煙の臭い、腐敗臭。撹拌されるそれらに顔を顰め、弾切れを告げた拳銃を左方へ打ち放った。ナイフを掴み直し剣尖で弧を描きながら方向転換。一人の少女の首を、瞼を閉じて両断した。


 勢いを衰えさせることなく上空へ刃を抜く。いつの間にか降りてきていた静寂に、腕を下ろした。


「はぁ……、はっ……」


 乱れた呼吸を落ち着かせるよう、シャツの胸元に皺を刻む。床には首のない死体が折り重なり、頭部がそこら中に転がっていた。絨毯や木を染める鮮血は誰のものか判別出来ない。見下ろした服を染め上げている紅血も同様だった。両腕が震えている。力を込め続けたせいか、肉や骨を打ち続けたせいか、筋肉が痙攣しているようだった。崩れ落ちそうに笑う膝に、手を突いた。


 全身に流れる疲労。目を逸らしていた負傷は酷いもので、四肢も胴体も血塗れだ。蓄積されていた鈍痛と畏怖が、粛然とした空気にあてられて発露してくる。体が休息を求めていた。座りたがる足に拳を打ち付け叱咤する。


 ここはまだ道の途中でしかない。目的地は地下だ。ナイフを握り直し、階段を下る。靴音が高く響いていく。俺は重そうな扉を開けた。地下室の煌々と灯された明かりを映す。眼界に、こうはくの髪が舞う。投げ飛ばされてきた華奢な体を抱き止めた。


「アドニス!?」

「ス、ヴェン……」


 掻き抱いた体躯を見下ろし、数刻瞬きを忘れた。漆黒のスーツを纏った右腕は夥しい血を流しており、前腕部を失っている。左足は太腿から先がない。紅で塗られた衣服は穴だらけで、その向こうに無数の刺し傷があることを見取った。乱れた長い髪を背中に流し、徐に顔を持ち上げる彼女。泣き出しそうに歪んだ花唇は、何かを言おうとしてすぐさま噛み締められていた。肩を震わせるほど腕に力を込めている彼女から、目線を外した。瞠若とこちらを見ている男を睨む。その風付きは確かに、橋の上で招待状を手にしていた男のものだった。


「覚悟しろよ、蘇生師」

「先に仕掛けてきたのは彼女ですよ。正当防衛です」

「ふざけるな。アドニスを傷つけたことも、死者を弄んでいることも、グレーテさんを殺したことも、正当化されてたまるか……!」

「グレーテ……?」


 血塗れの手が震えながら俺の袖を掴む。息を呑んで見下ろせば、灰色とふたあいの両目が沈痛に染まっていた。今の彼女に、聞かせたくはなかった事実。だがこの男を前にして堪えられなかった。怨嗟が、溢れて仕方がなかった。取り繕うことは出来ない。否定してくれと言うように首を左右に振る彼女へ、渋面を向けることしか出来ない。どうにか開口した俺の息を遮って、ジークハルトが朗らかな舌頭を吐き出した。


「あぁ、パン屋の。誤解させる彼女が悪いんですよ。客として訪れる私に優しくして、談笑をしてくれて、観劇にまで付き合ってくれたくせに。交際を持ち掛けたら断られましてね、つい殺してしまいました。そういえば彼女、当人の魂を植え付けたにしても随分長生きしたようですね」

「お、前……」


 燃え滾るような瞋恚しんいを零したのはアドニスだ。彼女は地に転がる己の武器を拾い上げて飛び掛かった。片足で、片腕で、尚も立ち向かう姿をすぐさま追いかけた。彼女の利剣を弾かんとする鉈の道筋へ、ナイフを割り込ませる。倒れそうな彼女を腕に抱き込み、ジークハルトを映す。彼は笑みを保ち、唸る彼女を見下ろしていた。


「殺してやる……ッ」

「ご友人でしたか? なら、同じように送って差し上げますよ!」


 高らかな笑声。彼の背で影が蠢く。佇んでいた死体が、俺とアドニスに殺意を向けていた。煌めく切っ先は片手で数えられない。アドニスを背に追いやって、彼女を庇うように立つ。奥歯を噛み締めるような音が聞こえた。彼女の悲歎、怨み、悔恨全てが伝わってくる。この胸に在るのも同じ感情だ。彼女が滲ませる思いを知れば知るほど、悲憤が沸騰していく。


 ナイフを構えた。橋梁で、彼女が俺に託してくれた得物。砥がれた穂先に力を注ぐ。この情性を、彼女の情動を、震える手の内へ握りしめた。


「アドニス、今は休んでろ。俺が全部背負うから」


 裾を、引かれた気がした。だが止まるわけにも振り返るわけにもいかなかった。弾丸のように飛び出す。ジークハルトの方へ一目散に馳せた。進行を阻むように死体の剣が眼路を刻む。弾いた刹那、突き上がる鉄塊の音。身を逸らした俺の傍で舞い上がる風。一体の前腕に白刃をめり込ませた。奥まで通して切断、彼の手を離れた諸刃へと腕を伸ばしたが、首を打ち取りに来た剣先を屈んで避ける。床に跳ねる刀剣。膝を着くや否やそれを拾い上げ、鋭鋒で半円を描く。切り裂いた死体の足、バランスを崩して倒れていく様を見届けず前進。目の端で煌めく鋭刀。その銀光を認める都度ナイフを振るった。


 出来る限り隙を生まぬよう大振りは控える。手首を返すだけの連撃。舞うように標的を切り替えながらも攻撃を続ける。斬られ抉られても動きを止めない死体。彼らを睨んでいたら跫音きょうおんが鼓膜を打つ。間合いに踏み込んだのはジークハルト。傍らでは死体の機鋒が灯光を明滅させている。手にしていた剣を後方へ放ち、ジークハルトの鉈をナイフで受けた。嘲笑を吐出する彼に目尻を吊り上げた。


 払い除ける鉈。彼の腕が外側にふれた寸刻。懐に収めた拳銃に指を滑らせ、抜く勢いのまま撃鉄を起こし銃声を撃ち出した。爆ぜる紫煙。鳶色の双眸が露わにしたのは驚倒。しかし正確性を欠いた弾道は彼の腕を掠めただけ。二発目を撃ち込もうと照準を合わせるも死角からの攻撃に攫われる。指先を離れていく拳銃に下唇を噛んで靴を鳴らす。床に散らばる工具が壊れた楽器のように騒いでいた。


 片足を軸にして回転、死体の追撃を回避、回った勢いのままにジークハルトの眼前へ迫る。彼を突き飛ばして一度彼我の距離を広げたい。だが俺の太刀先を正確に流していく彼は下がらない。好機を作れぬうちに拳銃は蹴り飛ばされ遠のいた。反射的にそれを目で追ってしまっていて息が止まった。


「かはっ……!」


 彼の鉈が打ち抜いたのは肋だ。衝撃が骨をこぼつ。肺が圧迫されたような息苦しさはよろめくとともに薄れていく。代わりに押さえつけられた呼気が溢れ出し、咳き込みかけた。深々と抉られた脇腹に手を当てる。生温い血がどろりと溢れていた。肋骨は折れただろうか、臓物にでも刺さったのだろうか。目を剥いてしまいそうなほどの痛みが肺腑を焦がす。口端から顎へと伝う血。顰め面で堪えてナイフを構え直すも、彼の鉈は既に上空。頭蓋をかち割る余勢を孕んだ鋒端。俺が頭を庇う前に、一筋の弾道が彼の手を正確に射抜いていた。次いで俺を囲んでいた死体の頭部も撃ち抜かれていく。発砲音に目をやると、アドニスが座り込んだまま拳銃を構えていた。俺が取り落としたものを拾ったのだろう。右膝で左腕を支え、固定されている銃口。揺らぐことのない照準は、彼女の眼差しと同じ鈍色の光を散らす。


 俺はジークハルトが鉈を拾う前に攻め入った。徒手の彼を追い詰め、壁際へ追い込んでいく。表皮を裂く。肉を暴く。鋭敏に身を逸らそうが逃すつもりはない。やがて長机に躓いた彼。俺の一刀が骨に達する。削がれて捲れ上がる彼の前腕。赤々とした皮下組織を晒した腕で、彼は机上から鋏を掴み上げた。


「うああああ!」


 命を削るような叫声。死に抗う力はこれまでよりも重かった。ナイフとぶつかり合う寸鉄。互いに利き腕を抉りながら攻め合う。早鐘を打つような連撃は速度を増していく。彼よりも早く。先に討ち取るように。金属音が互いの息遣いを象る。彼だけを見つめた。微笑の仮面が剥がれ、足掻く彼の様相。同情は抱かなかった。迷いはなく、剣先を鈍らせる激情も沈んでいる。血走った彼の目には映らないせいげつ。それがこの胸に宿っているようだった。


 背後で死者の悲鳴が上がる。それに構うよりも、俺は今ジークハルトを殺さなければならなかった。


「スヴェン、ありがとう」


 振り向かない俺の背に、優雅な靴音が舞い降りる。踏み出した足音は二つ。俺のものと、彼女のもの。断末魔を、秋水やいばが切り払った。

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