軽蔑と願いの狭間5

「私は死者の声が聞こえると言っただろう? 貴方に違う魂を植えられて苦しむ死者も、気休めの救済で胸を痛める遺族も、見たくはない」


 突き付けた剣尖が橙の光を受け流す。ジークハルトは尚も眉尻を下げて溜息を吐いていた。腥風を燻らせるのは私だけだ。彼は敵意すら垣間見せない。分かり合えると思っているのだろうか。


「やめませんか。貴方は神を信じていないのでしょう? そんな人間に神は微笑みませんよ」

「……神様、ね。そろそろ現実を見つめたらどうかな」


 かみさま。動かしてみた唇が、薄らと自嘲を象る。


 ――神様。神様。


 幼き日の私が、信じる神に呼び掛けていた。吐き気がするほどに、無垢な信仰。私はそれを磨り潰すように切歯して、口角を吊り上げた。


「優しい神様なんて、この世にはいないだろ」


 特別な日に生を受けてくれと願われ、神と対話する力を祈られた。村の教会で、かつて村人に処刑された死者の声。私はそれを神の声だと信じて聞き続けた。一抹の疑いすら抱かず口にした神託。単なる風邪が流行り出した村で、死者かみに導かれるまま、何も知らない私は毒草を食べるよう言いつけた。多くの人が死に、私を崇拝していた村人は私を悪魔の子だと罵った。


 思えばあの頃はまだ、神を信じていたなと息衝く。


「神がいなかったら、私はこの力を得ていません」

「その目は節穴か? 魔法なんてのは、人を狂わせるだけのモノだ」


 深閑に互いの声が反響する。ジークハルトの後背に立ち並ぶ遺体。子供、大人、夫婦。血に塗れた衣服。どれも思い出と重なる。


 悪魔の子を産んだ罪で殺された無辜の両親。無辜の妹は私と共に売り飛ばされ、狂った貴族に買われて嬲られた。蹴られ、殴られ、焼かれ、抉られ、犯され、妹は死んだ。玩具として痛め付けられる日々に救いなどない。弄り回された片目は灰色に変色し、それでもこの腐った世界を鮮明に映し続けた。虚ろな瞳で、ただ待ち続けていた。私はまだ植え付けられた信仰を捨てきれなかった。神様、神様。毎夜祈った愚かさに、反吐が出る。


「誰も狂ってなどいないでしょう。私の救済で、蘇った遺族を抱きしめて、誰もが喜びました。貴方も見たでしょう?」

「さっきも言ってやったじゃないか、貴方がしているのは人形遊びだ。こんなモノを救済だなんてうそぶくなよ」


 誰も教えてくれなかった。憎いなら憎めと。殺したいならそう吐き捨てろと。私にそれを教えてくれたのは、黒ずくめの男だ。貴族に殺されかけた中で、あの貴族を殺しに来た黒衣の男。助けてと紡いだ私の命を、繋ぎ止めてくれた恩師。彼は、何故あの貴族を殺さなかったのか私に問うた。呆然と首を傾ける私に彼は言った。


 ――君は抵抗して、憎めば良かった。憎んで、殺して、そうして人らしく生きれば良かったんだ。


「なぁジークハルト。貴方は一度でも、誰かの心を最後まで、ちゃんと救えたか?」


 死にたくはないのに生きる理由を見い出せなかった私。憎しみを、殺すという手を教えてくれた葬儀屋。だから私は貪欲に生にしがみつける。私はまだ死ねない。知ってしまったこの憎しみを、誰にもぶつけていない。私を騙した死者かみにも、妹を嬲り殺したあの男にも。奴らを蘇らせて、もう一度くびり殺すまで、この死んだような体で、尚も生きていたいと思える。


 もし、神様がいるのなら。私にとっての神は、きっと葬儀屋だ。


「どうやら、私では貴方を救ってあげられないようです」


 鳶色の瞳が滲ませたのは憤り。己の正義を否定され、嘲罵されるのは不快だろう。それが分かるからこそ、私は朗笑した。


「自分が救済者だって純粋に思ってるのか。救いようがないほどに壊れているね」


 床を蹴った踵が高らかに音を跳ねさせる。馳せた私を視認するなり彼は後退し、工具が散らばる隅から武器を拾い上げた。躱された初手は壁を貫く。鮮血を見ることはなく舞ったのは砕片。漂う塵埃。右腕を引き左で斬撃。彼は振り向くと共に鉈を薙いだ。火花が弾ける。鍔迫り合いの中で金属が擦れる嫌な音が上がっていた。刃を引かずに彼を突き退ける勢いで力を込める。私を真っ直ぐ見据える双眼を睨め付けながら振り上げる片足。爪先が明確に骨を穿つ感覚。蹴りを受け止めたのは彼の前腕だ。衝撃を受け流すよう回転した彼は刀鋩で弧を描く。遠心力を乗せた切っ先。こちらの刀身に打ち付けられた力は重い。衝突音が鼓膜を通った。それに漏らした舌打ちを靴音で踏み潰し、追撃をしかけた。


 灯光が散る。眼界に落ちる陰影。煌めいたのは私の剣ではなく彼の鉈でもない。そこにいたのは浮浪者の男性だ。先程ジークハルトに抉られていた腕を振り上げ、私に剣を向ける。咄嗟に跳躍し距離を取ったが肩を抉られた。着地と共に顔を上げ、息を呑む。間髪入れず打ち込まれる薙ぎ払い。機敏に受け止めるも払い飛ばされそうになる。寸時ふらついた足で、床を軋ませるほど踏み込んだ。高い音が跳ね上がる。振り切った片腕の先で死者がよろめく。


 死者の焦点を宿さない黒目に眉根を寄せて迎え撃った。殴打するように叩き付ける白刃。彼はその全てを受け止め受け流す。反撃に移る様子はない。されど肉を裂きに行く隙も見出せない。奥歯を鳴らして身を屈めた。上空めがけて腕を突き上げる。彼の鋭鋒は切り上げを防ぎきれず、宙を舞った。生じた寸隙を消させはしない。


 右手で突き破ったのは亡き男性の首。左腕で受け止めたのはジークハルトの鉈。落ちた頭部の音を掻き消す金属の遺響。異なる類の重さが両腕を走り抜ける。首を失くしてもなお立ち向かおうとする男性を蹴り飛ばして鉈と合奏を響かせる。


 ジークハルトが割って入るのは予測していた。私に掠り傷すら与えられなかった彼は顔を歪めている。


 衝突。弾き合うままに退き、構え直した刃を交える。幾度となく繰り返す剣戟。机が轟音と共に倒れる。工具が不協和音を携えて跳ね落ちる。靴底は時折器具を踏みつけて滑っていた。転びそうに捻った足はそれでも前方へ踏み出す。追撃はやめない。間合いを詰める。彼我の距離を縮める。彼が鉈を構え直す数秒、それを切り潰す。防御に移る一弾指の間、それを断つ。


 聴覚を刺激したのは彼の呻き。眼路で舞った血痕。突き刺した彼の前腕を切り落とそうと力を注いだ。


 瞬間、騒然たる咆哮が、脳髄を揺さぶった。


 力が緩む。指先から神経が麻痺していく。これは慄然だ。数え切れぬほどの敵意が、悪意が、弾雨のように私を貫いていた。震えた双脚が折れそうになり、どうにか退避するも、前髪をジークハルトに掴み上げられた。睨み上げて振り払う。その腕が背後から深々と射抜かれていた。床に響いた、刃物の涼やかな音。不意打ちと疼痛に、私は得物を取り落としていた。


「あ、うッ……!?」


 歯噛みする暇すらない。次いで機鋒が突き出したのは胸元。脇腹。足。肉を貫かれる度全身が痙攣する。骨と刃が擦れるおぞましい感覚が声帯を震わせる。逃れるように体を動かすも痛みが増すだけだった。串刺しにされていく痛みに喘ぐことしか出来ない私を、ジークハルトが床へと投げ飛ばす。いくつもの人影、見上げた先には、いくつもの死体を率いる彼。立ち上がろうとする私の足を、鉈が押さえた。乱れた呼気を漏らす私に、笑みが向けられた。


「私一人になら、貴方だけでも勝てたかもしれませんね」

「――ッ!」


 声にならない号哭が咽喉から溢れた。私を床に縫い留めるように降り注ぐ切っ先。足を切り落とそうと、何度も打ち付けられる鉈。握りしめようとした手さえも貫かれ、床に爪跡を刻んで終わる。


 罰のような気がした。無垢を言い訳に、無知という愚かさで人を死に至らしめ、家族を奈落へ突き落した報い。けれども、このまま私が朽ちたところで、何も変わらない。罰はもう要らない、必要なのは償いだ。死者は何も思えないのだから。


 今の私には、私が私を肯定する為の復仇以外、要らない。


 終わらない暴行に、妹と嬲られた日々を回想する。祈るなんて馬鹿らしいと、今は思う。それなのに、スヴェンに、葬儀屋に、助けを求めたくなった。そんな弱さに微笑した。脆弱さを捨てたかった。だから、動けと念じた。抗え。誰も頼るな。私の足で、私の手で、拒め。


 手の肉を裂き、剣先という杭から強引に外す。左足の骨が破砕したのは、それと同時だった。


     (四)


 俺が教会へ辿り着いた頃には、蘇りの儀式はとうに終わっていた。残照を睨め上げるも、雲の流れが留まることはない。思案に浸っている間も時間が進み続ける。教会の神父が教えてくれたのは蘇生師の名前だけ。どこにいるかは分からない、と言われ奥歯を軋ませた。蘇生師は教会に多々訪れるようで、蘇生の依頼も教会で彼自身が行っているか、神父を介して受諾しているという。教会の入り口から一歩も踏み出せぬまま、凝然と立ち尽くした。通り過ぎていく人々を追うように、右へ左へと眼を動かしていると、見覚えのある聖職者がこちらへ駆けてきていた。


「コンラートさん……」

「どうだった、いたのか」

「いや、いなかった。もう終わってたんだ。あんたはどうしたんだ」


 何か分かったことでもあるのかもしれない。街外れの教会からここまでずっと疾走してきたのか、彼は息を切らしていた。肩を上下させて呼気を落ち着かせた彼が、懐から本を取り出す。


「聞き込みをした際、遺族が口にしていたんだ、蘇生した人間の名前を。それがずっと私の中で引っかかっていた」

「ジークハルト・アーレンス、だったよな。俺もさっき聞いたよ」

「ああ、その名字に覚えがあった。君が出て行ってから思い出そうとしていた。さっき見つけたんだが……」


 捲られていくのは古そうな手帳だ。横から覗き見ると、いくつもの紙が挟んであった。ページが進むほどに色褪せていく紙。昔の新聞だろうか、彼はそれを熱心に見つめていた。


「なんだ、それ」

「あぁ……気になった事件の記事を切り抜いてしまう癖があってな。探偵小説とか、昔から好きなんだ」


 まさかこの人、それで俺を追いかけてきたのでは。そう推察してしまって苦笑する。葬儀屋と同じくらいの歳か、それよりも上に見える彼は、少年のように笑っていた。だが照れ臭かったのか、俺の薄目を目視するなり咳払いをして色を正していた。


「あったぞ。……これだ」

「どんな事件なんだ?」

「フランク・アーレンス。鞄や財布、革製品の品物を売っている店の店主だ。当時起きていた連続殺人事件の犯人で、被害者は皆皮膚を剥ぎ取られていた。顔や腕、どこでもよかったようだな。その皮膚を使って、品物を作っていたらしい。当然、客はそんなことを知らなかった」


 話を聞いているだけで総毛立つ。人の皮で作られた物。そうだと知っていれば、俺なら触れることさえしたくない。歪んでいく唇を指の側面で押さえ、顎に手を添えた。


「……蘇生師が、その犯人、なのか」

「恐らく身内だ。何十年も前のことだし、名前が違う。……スヴェンくん、もしかしたらジークハルト・アーレンスはここにいるかもしれない」


 指先で示された文面に着目する。フランク・アーレンスが逮捕されたという工房の住所が書かれていた。その地下に人間の死体、四肢や皮膚が転がっていたという凄惨な様まで明記されている。アドニスがそんな場所にいるのではないかと思ったら駆け付けたくて仕方がなかった。


「メルツストリート一一七……ってどこだ、コンラートさん」

「向こうの通りだ。森に一番近い道だな。番地は建物のドア付近か柵に書いてあるはずだ」


 彼が示してくれる道の先、陽射しが満ちる方を見据える。汗ばんだ手を握りしめた。アドニスが、無事であればいい。俺の予想が外れていて、全て杞憂に終わればいい。懸念を握り潰し、爪先を持ち上げた。


「行ってくる」

「君一人では危険だ、私も……」

「大丈夫だ、コンラートさんは葬儀屋に報告してきてくれ。アドニスが危ないかもしれない……!」


 強い風が頬を掠める。駆け出した己の呼吸音と、裂かれていく空気の音だけが耳朶を打っていた。掻き退ける雑踏の騒がしささえ拾っていられない。転瞬の度に思い返してしまうのは、見つからない姉の姿。亡くなったグレーテの微笑み。アドニスもいなくなってしまうのではないかと、余計な念慮ばかりが脳室に注がれていく。それが飽和する前に頭を振った。

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