固定観念の絞殺6
握った指先が硬直している。柄を手放すことが出来なさそうなほど、力が込められたまま固まっていた。自嘲が込み上げる。武器を取り落とす心配がない、そう思えば懸念など一抹もなかった。
『下から来るよ!』
「くっ……!」
砂塵を舞い上げ退避、金属が鳴り響く方へと疾駆した。スヴェンは魔法による攻撃を全て受け止め、攻め続けているのだろう。全身血塗れで、それでも錯乱したようなマルガと白刃を打ち付け合う。両手に刃を握る彼の太刀筋、それに目を凝らす。片腕で防ぎ、片腕で攻め、距離を縮めようとしたところで土槍に阻まれていた。隙を探る。攻め入る好機。睨め回しながらその時を待ち望んだ。
『お兄さんが危ない! 下!』
「スヴェン後退しろ!」
背後に飛び退いた彼と、飛躍した私の影が重なる。赫灼たる仄日を近くに感じて目尻を吊り上げた。風を孕んだ袖が五月蝿いほど靡く。空無を色付ける土煙。その先に睨み据える女性の姿。土を踏み鳴らさなければ敵の居所が掴めないのだろう、私に気付いていないようだった。
脳髄を通貫する勢いで突き立てる霜刃。自重、重力、全てを流し込んだ剣先。殺気を感取したのか偶然か、彼女の鎌が頭上に弧を描いた。甲高く森閑を貫いた鋼の叫び。それを引き裂いて彼女の影を踏み潰す。砂利の音が剣戟の余韻を掻き消した。構え直される鎌。爪先が触れるほどの距離まで迫った今、彼女の枢機を射抜く以外の選択肢が浮かばなかった。
「嫌だ……私は死にたくない……! 死にたくないんだ! 私は、私らしく生きていたかっただけなのに……!」
「貴方のその気持ちは、とても素敵だと思うよ。だからどうか、来世では幸せに」
『――お姉さん左!』
左方。
「君が、トドメを刺してくれ」
マルガの
「任せろ」
すぐ傍に彼を感じる。脆弱なこの体躯を支えるように、背中が触れ合う。彼の奮然たる叫びと共に熱が離れる。彼女の悲鳴が夕焼けを貫いて夜を招く。
――吹き飛べ。
振り抜いたこの手が、疾風に呑まれて引き千切られた。鮮血を撒き散らした前腕は、土塊と共に森の奥へと
(四)
目の前にいる女性の苦しみ。それがどれほどのものか、俺は妄断することしか出来ない。けれども、魔法使いとして子供を殺しながら生き続けることも辛いだろう。胸中に生じる迷いを振り払い、託された終止符を打ちに行く。これが最善の救いであると己に言い聞かせて。
マルガの悲鳴を裂くように薙ぐ腕。足掻く彼女の鎌が空間を震わせる。互いの切っ先に纏い付く強風が反発し合う。角膜を刺す砂埃に目を細め、彼女の間合いへ飛び込んだ。
鼻先を掠めたのは風声。瞠った先で待ち受ける湾曲した刃。止まらずに突き進めば片腕が持っていかれるはずだ。
息が止まる。寸刻、脳髄を埋め尽くす思惟。予測する。切り払われるのはこの片腕。彼女の両腕は鎌だけを掴んで離さない。魔法はアドニスが押し留めている。こちらの得物は二つ。ならば。
表皮を滑っていく戦慄を握り潰し、描いた軌道を変えることなく白刃でなぞった。目の前を横切った鎌。景色を色付ける血煙。失くした右腕の痛みを紛らわすべく咆哮した。止まらぬように。突き穿つように。彼女が鎌を振るうよりも速く。左手のナイフでその喉を引き裂いて、泣き声を潰した。
閉幕に拍手は伴われない。とうに終えていた役を、その呼吸を、彼女はようやく手放した。
草の中へ倒れ込んだ彼女を見下ろし、嘔吐感が込み上げてくる。それは彼女を殺すことしか出来なかった自分への嫌悪か、それとも失くした腕が痛むせいか。苦痛に苛まれるせいでよく分からない。呻き声を噛み潰して振り返ると、アドニスが駆け寄ってきていた。
「スヴェン、君、腕が……!」
「両腕を失くしてるあんたが何焦ってるんだ」
「私は戻るから問題ない。君のそれは……治るのか? 魔力で……まさか生えたりはしないだろう。切断面をくっつけておけば魔力で回復して繋がるかな……」
心配そうな顔で俺を覗き込む彼女。試してみろと言わんばかりに、血を撒きながら腕を持ち上げて促してくるものだから、切り落とされた片手を回収しに行った。赤黒い断面を擦り合わせると総毛立つような痛みが走り抜ける。眉間に深い皺を刻み、暫く腕を見下ろしていたら、切り離されていた皮膚が繋がっていく。皮下も同様なのか、肉と血管が蠢いているような感覚に血の気が引いていった。
「気持ち悪……」
「え、大丈夫かい? 負傷しすぎたせいかな」
「いや、治ってってる感覚が……とりあえず繋がったよ。まだ痛むけどな」
「よかった……それじゃあ、マルガの遺体を持ち帰ろうか」
「待て、あんたはその状態で街を歩く気か? 通報されるだろ」
アドニスの双腕は紅い雨を降らせ続けている。いくら夜とはいえ通行人とすれ違うのは良くないだろうし、街路に彩色を施すのもやめた方がいい。彼女も流石にそれは分かっているようで不満を呈すことなく唇を引き結んでいた。
「俺がマルガを屋敷まで運んで、葬儀屋にあんたの怪我のことを伝える。そうしたら戻ってくるから、待っててくれ」
「……わかった。あそこに転がってる私の袖の中に、人が入るくらいの鞄が折り畳まれて入ってる。マルガの遺体はそれに詰めて運ぶといいよ。もう夜だし、気にされないはずだ」
言われるままに彼女の腕の方へ向かう。赤く染め上げられた袖には切断された細腕が収まっており、眉を顰めた。広い袖の中に様々な物が仕舞われている。小刀が数本、財布や手拭い等をどかしていくと、厚く畳まれた布を見つけられた。開いてみればどうやらそれが鞄のようだ。
「これ、破けたりしないのか」
「葬儀屋の手製なんだけど、縫い方にコツがあるらしくてね。大丈夫なはずだよ」
遺体を収めた鞄を肩に担ぐ。アドニスの言う通り見た目以上にしっかりしているらしく、破けそうな様子はなかった。袖と腕をそっと拾い上げ、彼女の座右に置いてやる。俺が傍に来たことで持ち上げられた容色は、柔らかな表情を浮かべているが、抜けるような肌がいつもより蒼白く見えた。気丈を繕っていてもその苦痛が垣間見える。早く治してやらねばと、逸る気持ちを飲み込んで草を蹴った。
「すぐ戻ってくる」
アドニスを一人にする。それだけのことが不安で、足取りに焦りが表れていた。夜闇に紛れてマルガの亡骸を背負い、葬儀屋の屋敷へ逸散に疾駆する。
人気のない街路を抜けて、見慣れてきたような道へ踏み出す。民家が多い通りで一際大きな建物、葬儀屋の屋敷の扉を開け放った。廊下で俺を出迎える人形を後目に、食堂へ飛び込んだ。鞄をソファへ置くと、葬儀屋が瞼を持ち上げていた。
「随分急いで帰ってきたみたいだが、どうしたん――」
「それがマルガ・クロイツァーの遺体だ、事件は解決した。アドニスが両腕を失くしたから森で待ってもらってる。早く治してやってくれ。俺は今からあいつを迎えに行ってくる」
瞠然とティーカップを揺らしている彼から目を逸らし、屋敷を飛び出す。道が長く感じた。実際近くはないのだろう。何より戦闘を終えて体力が失われていた。馳せる呼吸音が寂寞に響き渡る。室内光と月桂が溶け合う道を過ぎて行けば、ようやく森へと舞い戻れた。
「アドニス! 遅くなって悪い……」
座り込み、木に凭れている彼女は瞑目していた。死ぬことはないのだと分かっていても息を呑んでしまう。焦慮で呼気が乱れかけたが、彼女の睫毛が上下しているのを見て取り、安心した。月色に塗られた頬は普段よりも蒼白で、深憂が肺腑を満たす。彼女の傍に片膝を突き、その頬を撫でた。体温は感じられない。けれども、こちらの熱を
「かみ、さま……」
か細く紡がれたそれは、祈りのようだった。呆然と見つめていたら、瞼が薄らと持ち上がる。金剛石と紫水晶を思わせるオッドアイは、ぼんやりと俺を見上げた。
「大丈夫か?」
「……スヴェン?」
「腕……治ったみたいだな、よかった」
「私は……あぁ、そうか。君に、全部任せてしまったのか。ごめん」
体は治るものの衣服までは治らないらしい。袖を失ったことで露わになっている両腕は、簡単に折れてしまいそうなほど細かった。手首を掴む。こんな華奢さで、あの土塊を受け止めていたのか。思料すればするほどに、自身の顔が顰められていた。
「迎えにきてくれてありがとう」
「いや、置いていって悪かったな。帰ろう」
「あぁ」
立ち上がった痩躯がよろめく。細腕を咄嗟に引き上げたら、彼女は俺の方へ倒れ込んできた。
「っどうした、どこか痛むか?」
「ヒール、折れてた。困ったな……脱げばいいか」
「何言ってんだ、怪我するぞ」
嘆息を吐き出して彼女を横抱きで抱える。夜の森が漂わせる草木と土埃の臭い。そこに花のような暗香が漂った。長い白髪が揺らいだことで、彼女の香りが舞ったようだった。
「スヴェン、下ろしてくれ。歩けるよ」
「こっちの方が早いだろ」
下ろすつもりがないという意思表示に、強く抱き寄せる。諦めたらしく、彼女は大人しくしていた。去り行く中で彼女が森の奥を見つめる。穏やかに目を伏せ、微笑んでいた。
「……今度、花を供えに来るよ。君達の安寧を祈って」
そういえばマルガとの戦闘時、彼女は死者の声を聴いていた。ここに、マルガに殺された子供達がいるのだろうか。誰も近付かない森という、幽寂たる籠の中で、囚われ続けるのだろうか。彼女が花を供えに来るのなら、俺も付き添いたいと思った。
整備されていない森の道を抜け、石畳に踏み入る。両腕に乗っている重みはあまり感じられず、僅かな不安を覚えてふと目を落とした。閑寂と俯いていた童顔が持ち上がる。絡んだ目線に、黙っていることは出来なかった。
「あんた……葬儀屋の魔法で姿は変わらないし、成長もしないんだったな。なら、葬儀屋に魔法を掛けられる前は……どうしてたんだ? ちゃんと、食べてたのか?」
「唐突な質問だね」
「さすがに軽すぎると思ってな」
苦笑いが彼女の顔に張り付けられる。返辞に困った時、彼女はいつでも眉尻を下げて微笑んでいるような気がした。踏み込むなと突き放されるわけでも、全てを吐露してくれるわけでもない。適度な距離を保たれている事実に、胸臆で複雑な感情が絡まっていた。きっと深く語ってくれることはないのだろう。そう思い込んでいたからこそ、緩やかに動いた口唇に人知れず動転した。
「村にいた時は、ちゃんと食べていたよ。特別な存在だなんて崇められてね。結構良いものを食べさせてもらってたんじゃないかな」
「それにしては……」
「その後売られて、奴隷になって、何を食べてたかな。思い出せないけど。毎日……存在しない神様に、ずっと祈ってた。私を呪った神様を、信じていたんだ」
寂び返る夜の街を、彼女の快音が彩る。
「とても、愚かだと思うだろう?」
「俺は……あんたの生き様を、綺麗だと思うよ」
「……優しい君には、そう見えているんだね」
小さな頭が俺の胸に預けられる。微睡むように、彼女は眼窩の宝石を瞼で覆った。疲れたのだろう。休ませてやろうと思い閉口したら、シャツを軽く引っ張られた。縋るかのような力で、皺を刻まれた胸元。布越しに、彼女の吐息が染みてきた。
「汚いんだよ、私の両手も、全部」
「アドニス?」
「拭えないんだ。ずっと纏わりついて……消えて、くれないんだ」
罪、が。
動いた唇から読み取ることしか出来なかったが、吐息だけで零されたのは、きっとその言葉だ。口吻は酷く自罰的で、唇を噛み締めていた。眠りに落ちた彼女は糸の切れた人形のようだった。
掻き抱いた腕の、
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