第三章
軽蔑と願いの狭間1
マルガ・クロイツァーの事件から一週間ほどが経つ。俺とアドニスはホテルを巡ったり、特に何もせずに過ごしたり、そんな日々を送っていた。フェストにある宿泊施設は全て回ったはずだ。姉に関する情報は結局出てこなかった。彼女はどこに行き、どこへ消えてしまったのか、未だ掴めなかった。俺はこれからどうすれば良いのだろう。フェストに滞在し続けて、姉に辿り着くことは出来るのだろうか。
陰鬱としていく中で、そんな俺を気遣ってか、アドニスが毎日のようにクッキーを作っていた。レシピは俺が書いて渡したものだ。けれども上手くいかないようで、いつも焦げたクッキーを申し訳なさそうに持ってきていた。
葬儀屋に与えられた部屋でベッドに寝転びながら、開けてもいないカーテンを眺める。隙間から射し込む白光に瞼を伏せた。彼女は今日もクッキーを持ってくるのだろう。俺がこうして外出せずに部屋でだらけているのは、それを待っているかのようだなと思ってしまって、額を押さえた。
「スヴェン、いるかな?」
「あぁ」
ノックの音と玲瓏な声。反射的に上半身を起こし、すぐさま扉を開けに行った。俺を見上げたアドニスは心做しか嬉しそうで、その目顔は喜色で満ちていた。鼻先に突きつけられた丸い皿の、その中に入っていたのはやはりクッキーだ。今日のものは焦げていなかった。甘く香ばしい焼き菓子の匂い。美味しそうだなと思っていたら彼女の朗笑に目を奪われる。
「今日は綺麗に焼けた気がするんだ……!」
喜んでいる様が見て取れる。幼さを滲ませる姿に思わず撫でたくなったが、その衝動をどうにか掻き消してクッキーへと手を伸ばした。
「一個貰うぞ」
「一個と言わずいくらでも食べていい。……どうかな、美味しい?」
「ん……ああ」
口内に広がる味は懐かしいものだった。姉から教わったレシピが思い出を招来する。二つ目を咀嚼していたら、アドニスが俺に皿を押し付けてきた。長い袖を揺らした彼女は室内へと進み、カーテンを開けていた。
「閉め切っていたら気分も落ちていく一方だよ。……もしかして私が起こしてしまったかな」
「起きてはいたから大丈夫だ。クッキーありがとな。美味しいよ」
双眼を細めたくなるほどの紅日。二階から見渡す窓の外は、街並みと海が朝日で色付いていた。絵画じみた風光に吐き出した嘆息と、アドニスの吐息が重なった。
「良かった。焼くのが難しくて時間かかっちゃったけど、ようやくグレーテにも渡しに行ける」
「グレーテさん、そういえば食べさせてくれって言ってたもんな」
「彼女の分はもう袋に入れてきたんだ。だから、その皿に載っているのは君と葬儀屋で食べてくれ。葬儀屋が食べたいって言っていたから、喜んでくれると良いな……」
いつにも増して機嫌が良さそうで、ひたすらに朗色を湛えている彼女。俺を励ますために作ってくれていたのかと思っていたため、葬儀屋の為だった事実に思わず眉を顰めてしまった。勘違いをしていた己に羞恥が込み上げてきて、壁へと顔を向けた。彼女を視界から外したまま皿を押し返す。
「葬儀屋に喜んでもらいたいんなら、あんたが自分で渡してくればいいんじゃないか」
「いや……今日は予定があってね。そろそろ支度をしないとグレーテに渡しに行く時間が無くなってしまう。私が葬儀屋に渡しに行ったら雑用を任されて時間がなくなりそうだし、だからお願いしたいんだけど……駄目かな」
困り眉を目の端で捉えてしまって、断れなくなる。本当に時間がないのだろう、オッドアイは室内にある柱時計を瞥見していた。
「……食堂に持ってけば葬儀屋が勝手に食うだろ」
「押し付けてしまってごめん。ありがとうスヴェン」
「ああ。どこに行くんだか知らないが、気を付けろよ」
「ただのプライベートの用事だよ、だから心配要らない」
ふと、アドニスについてあまり知らないことに気が付いた。マルガの事件の帰り道、ほんの少しだけ語られた過去。『売られた』という言葉を回顧する。彼女の家族は生きているのだろうか。私用というのは、身内に関することだろうか。気にはなったが、踏み込んではいけないような気がした。
「私は支度をしてそのまま出ていくから、今日はどこにも付き合えないけど……」
「出掛ける予定なんてなかったからな、俺のことは気にしなくていい」
「そうか。スヴェンも、何も気にしないでゆっくり休む日を作っていいと思うよ。あまり、思い詰めないように」
朝日に呑み込まれそうな淡い苦笑が、靡いた柳髪で見えなくなる。メトロノームのような踵の音。高いヒールを鳴らす足取りは先へと急いでいた。
「夕飯前には多分帰ってくるよ。だから、また後で」
自室へと駆け込んでいく背を見送り、俺は皿を携えて一階へ下りて行く。開け放った食堂の扉の先では、嗅ぎ慣れたアッサムティーの薫香が漂っていた。一人でティータイムに耽っていた葬儀屋が黒目を動かす。俺をちらと睇視するなり首を傾げていた。机上に皿を置いてやれば、彼の面貌に疑点が顕現していくものだから、何を問いたいのか手に取るように分かった。
「アドニスはどうしたんだい?」
「出掛けるって。プライベートの用事だそうだ」
「……グレーテくんと買い物にでも行くのかな?」
「さあ、知らないが。で、このクッキーはアドニスがあんたにって」
「ふむ……まあいいか。頂くよ」
黒手袋を嵌めた手がクッキーへと伸びる。彼は素手を晒すことなくそのまま摘まんで口へと放り込んだ。意外なほど美味しかったのか、俺の正面に鎮座する彼は瞠若していた。作ったのはアドニスだが、その作り方を初めに説いたのは俺の姉だ。誇らしい気持ちが湧いてきて、俺は口角を上げていた。
「美味いか?」
「なんで君が得意げなんだい?」
「俺が作り方を教えたからだよ」
「へぇ……そうか」
二つ目を頬張り、片笑みを広げていく彼。満足げな様相から目を外し、意味もなく窓を眺望した。穏やかな時間に微睡んでいると手を叩く音が響く。クッキーの粉を手袋から払った彼が色を正していた。
「さて、アドニスがいないみたいだし、今回の事件は君に任せよう」
「事件? 何か起きたのか」
「起きた、というよりも、起きていたことなんだがね。ここ数か月、死亡時刻と腐敗状態が一致しない死体がいくつか出てきているんだ。マルガ・クロイツァーの事件の時コンラートが来ただろう? 彼はその話をしに来たんだが、数日前僕が処理を任せた死体も、やはり大分腐敗が進んでいた。僕に死体が渡される前日まで、明朗に生きていた姿が目撃されているにもかかわらず、だ」
葬儀屋が空のティーカップを取り出して紅茶を注いでいく。もう冷めているのであろうそれは空気を染色することなく、幽香だけを跳ねさせていた。差し出された陶器を受け取り赤褐色の水面を眺め入る。静思する俺の顔が薄らと反射して揺蕩っていた。
「腐敗が進んでたっていうと……生きたまま腐敗していく病か何かでもあるのか?」
「僕は医者ではないからね、そんな病は知らない。ただ僕は魔法使いだ。何らかの魔法によって死者が一時的に蘇っている……いや、死体のまま動いている可能性について考えた」
彼と出会う前の俺なら、そんなことあるわけがないと笑い飛ばせた。けれども魔法というものをここに来てからいくつも目にしてきている。死者を蘇らせる。そんな夢語りのようなことさえ、きっと具現させてしまえるのだ。ふと、蘇生の話をどこかで耳にしたなと追思する。詳細を思い出せぬまま眉間に皺を刻む。俺が落としている
「恐らく当人は死んでいると気付かぬまま生活をしているんだろう。けれど肉体の腐敗は進み、腐敗臭が滲み出す。肉体の限界が近付くにつれ記憶の齟齬が生じ始める。そこで僕は街を歩いたり情報を得て何人か目星を付けていたんだがね、彼らは死んでいったし、昨夜でその最後の一人も亡くなったことになる。思った通り腐敗が進んだ状態で」
「目星が付いてたなら、救えなかったのか」
「既に死んでいる人間を救うことが君に出来るかい?」
口を噤まざるを得ない。俺の心緒を見据えるかのような
「それで、これはとても言いにくいことなんだが」
「なんだ」
「パン屋の、グレーテ・ブランシュ。昨夜亡くなったのは彼女だ。……正確には、もっと前に亡くなっていた」
唇が、声を置き去りにしたまま僅かに開く。口腔が渇いていく。喉が塞がっていく。呻き声も漏らせぬまま、それでも何かを口にしたくて片頬を引き上げた。乾ききった口唇が罅割れて、苦々しい血の味が舌端に沁みていた。
葬儀屋の空笑いの意味を理解していく。しかし彼の台詞を噛み砕くことは出来なかった。甘い香りを纏うグレーテの微笑。アドニスを打ち守る優しい眼。マルガの事件でクロノスのことを教えてくれた。数日前もアドニスとパンを食べながら雑談をした。彼女が死んでいたと、そう思える要素は一片もなかった。
「……そんなはず、ないだろ。グレーテさん、普通に俺達と話していたし、死んでいるような顔はしてなかった。腐敗臭だって」
「顔色なんて化粧をしてしまえば分からなくなる。腐敗臭は香水、或いはパンの香りで掻き消えていたのかもしれない。皮膚の変色や膨張といった大きな変化は見受けられなかったが、魔法の影響で意識があるうちは腐敗が遅くなっていたのだろう。恐らく意識を失うと同時に、本来の腐敗状態へと一気に進む。僕は彼女が作ったパンから僅かに香った腐敗臭、物覚えの良かった彼女が最近は物忘れが多いのだ、とアドニスから元々聞いていたのもあって、彼女の体が限界を迎える前に会いに行った。確かめたくてね」
追想したのは一週間前の事件の日のことだ。思えば彼は、パンがイマイチだと言っていた。そして百合の花を抱え、グレーテに会いに行った姿が浮かぶ。その後の彼とグレーテのやり取りを想見すればするほど、苦々しさで表情が歪んでいくのを感じていた。
「彼女の脈は思った通り止まっていたよ」
「あんたは……グレーテさんに、話したのか。もう死んでいるって、教えたのか」
「当然だろう。真実は伝えるべきだ」
「知らなくていいことだってあるだろ……!」
固めた拳のやり場がなかった。彼我の距離が遠くなければ胸倉を掴んでやりたかった。心臓がないと告げられた時の虚しさが流露してくる。欠けていて、けれども生きてはいる俺でさえ
「死期が分からない僕達人間は、したいことを後回しにして、悔いたまま死ぬことだってある。それなら終わりが近いことを教えて、悔いのない終わりを迎えてもらった方が良いと、そう思わないかい?」
「それは……」
「だが……悔いは、残ってしまっただろうな」
藤紫の虹彩が映したのは机上だ。皿に載せられたクッキー。それを食べたいと言っていたグレーテと、彼女に渡せることを嬉しそうにしていたアドニス、二人の姿が脳室を過ぎる。立ち止まってなどいられなかった。跳び上がる勢いで離席したが、背中に降りかかった声で足が縫い留められる。
「どこに行くんだい」
「アドニスを、止めに行かないと。あいつ、グレーテさんにクッキーを渡しに行くって言ってたんだ」
「止めてどうするんだ。アドニスの用事が何であるか僕は知らないがね、帰ってきてから、もう少し君が落ち着いてから話しても良いんじゃないかな」
グレーテのもとへ嬉々として向かう彼女の、華奢な肩を掴んで引き止めたい。だが葬儀屋の言う通り、俺はその先どうするつもりだったのだろう。グレーテが亡くなったと伝えて、哀惜に満ちていく彼女の面容を見ていられるだろうか。打ちひしがれる時間も与えないまま、彼女を事件に引き込むつもりだったのだろうか。
掌中に血が滲みそうなほど
「スヴェンくん。なにより僕はね、まずこの事件を解決してほしい。死体がこれ以上弄ばれるのも、気分が悪いだろう?」
「……分かった」
「コンラートが被害者の遺族から情報を訊くと言っていた。街外れの教会に行って、彼にヒントでも貰ってくると良い」
眼路で光が散る。葬儀屋が投擲したものを反射的に受け取ってみれば、回転式拳銃だった。
「っ危ないだろ、何投げてんだ」
「キャッチと同時に撃鉄を起こして引鉄を引けるかい? 無理だろう、だから問題ないよ」
「分からないだろ、暴発する可能性はゼロじゃない」
「まぁまぁ。銃身に巻き付いてるのはコンラートの教会への地図だ。ちなみにソレの装弾数は六発、全て込めてある。使いたかったら使うといいし、弾が尽きたら捨てたって構わない。ナイフだけだと心許ないかと思ってね」
手元に目線を落とす。鈍色に光る銃身には紐が結ばれていた。それを解いて留められていた紙を開く。パン屋や病院など、俺が知っている建物の位置と、目立つ建物だけが簡単に描かれていた。迷うことはないだろう。靴音を劇伴にして、拳銃を懐へと収めた。
「行ってくる」
「ああ、もし街でアドニスに会ったら、巻き込むかどうかは君に任せよう。それと、クッキーが美味しかったと伝えてくれ」
「俺と会う前に、アドニスが帰ってくる方が先かもな」
「はは、確かに」
ティーカップをソーサーへ戻した彼が、クッキーを一つ持ち上げる。気に入ったようで、覗き見た横顔は
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