固定観念の絞殺5

 複雑な感情に占拠されているのか、女性は何も言わない。口無のまま、吊り上がった眼で瞬きを繰り返していた。アドニスは苦笑する。とても力無く、薄く微笑んでいた。


「これほど、多くの人に傷付けられたんです。家族としてもう少し娘さんに寄り添ってあげることは、出来ませんでしたか」

「あの子が……あの子がいなければ、ウチがこんなに荒らされることもなかったのよ……! あの子が普通の子だったら静かに暮らせていたのに!」

「ここに書かれている文章は全て脅迫罪で訴えられるものです。手紙の嫌がらせに関しても、強姦に関しても彼女は被害者だ。彼女が赤子を殺めてしまった罪はもう償ったのでしょう。警察に助けを求めても良かったんですよ」


 アドニスの言葉を片耳で聞いていた。女性が叫んだ『普通』という単語が鼓膜に張り付いて掻き消せない。普通の定義も、常識の定義も、己で決めているに過ぎない。けれども多数の意見が正しいと思われる世の中で、この女性の訴える普通は正しいものなのだろう。その定義に収まらない人間は、異端とみなされ迫害される。何故、と唇を噛んでしまう。仮に身勝手な畏怖を抱いたとしても、清濁を併せ呑むことは出来ないのだろうか。


「突然訪ねて色々と失礼しました。今後も脅迫まがいの手紙が来るようなら、警察に相談することをお勧めします」


 黙考している間に彼女達の会話は終わっていた。マルガは家におらず、どこにいるかも分からない。故にあてどなく踏み出したのであろう彼女は道端で凝然と立ち止まった。


「アドニス、大丈夫か? だいぶ、怒ってただろ」

「あぁ……申し訳ないことをしたとは思ってる。ただの八つ当たりをしてしまって」


 ビスクドールを思わせる面形は悔悟で満ちていた。頼りない肩を揺らし、彼女は俺に背を向ける。天を泳ぐ青雲に、小さな手が翳される。日影を遮りながらも、細めた明眸で遠くを見つめ続ける彼女。やがてオッドアイは、伏せた睫毛に隠された。


「強制されて、制限されて生きることしか、私は知らなかったんだけどね。自由を知ったら戻りたいとは思えなくなった。あんな息苦しい生き方、二度としたくない」

「……俺もあんたには、自由に生きてて欲しいと思うよ。好きなように、人間らしく――」


 目弾きした視界で追想したのは、パン屋で笑っていた彼女の顔。子供っぽい純粋な笑顔。真情を噛み潰して静黙している印象があったからこそ、彼女にはもっと感情的になって欲しいと思った。


 今更腑に落ちる。だからきっと、彼女がマルガの母親に詰め寄った時、制止しようとは思わなかったのだ、と。諦念という名の枷に絡め取られているような彼女の、人間らしい一面。それを俺は、知っていきたいのかもしれない。


 蕾が花弁を広げるように、彼女はゆっくりと花唇を撓らせた。


「私は、人間なんかじゃないよ」


 雪白の髪が颯々と風に流れる。玲瓏玉のような、澄んだ音吐。微笑の仮面は罅割れていた。やめてくれと訴えるように呈される鮮少の拒絶。彼女が何を気にして、何を後ろ暗く思っているのかさえ俺には分からなかった。


「それは、性別がないからか?」

「そういうわけじゃ……」

「誰だって何かしら欠けて生まれている。完璧な人間なんていないんだ。俺に欠けているのは心臓で、あんたに欠けているのは性別だった……それだけのことだろ。性別がないと人じゃないのか? 人と違うと人間じゃないって? そんなことないだろ」


 困り眉を認めてしまって口を噤む。傷付けたいわけではない、そんな顔をさせたいわけではない。自己を否定する彼女を否定したくて、彼女の存在を肯定したくて、俺は笑ってみせた。


「人間だよ、俺もあんたも。ちゃんと人間なんだ」

「それでも……それでも私は死体で、君は生者じゃないか」


 笑い飛ばすように震えた色音いろねは、泣き出しそうにも聞こえた。死体。心無い人間が、彼女にそう言い募ってきたのだろうか。彼女の瞳は水のように揺らいで俺を映す。手を伸ばした。華奢な肩が跳ねる。これ以上怯えさせぬように、壊してしまわないように。柳髪にそっと手の平を滑らせた。


「死体なんかじゃない。あんたは俺に拍動を聞かせてくれた。そうやって悲しそうな顔をするのも、さっきみたいに笑うのも、あんたが人として生きている証だろ」

「……君はとても、優しい言葉をくれるね」

「先にそうしてくれたのは、あんただろ」


 心臓がないという事実に戸惑い、暗然とした。そんな俺を慰めてくれた彼女。分け与えられた心音に、どれほど安堵しただろう。この気持ちの全てを、名状することが出来ない。それでも、伝われと願って彼女を打ち守った。


「ありがとう」


 零された一笑。柔らかで、暖かな頬笑み。可憐だ、と、思った。そんな感想を抱いた自分に、落ち着きなく指先が跳ねていた。気を引き締めるように拳固へ力を注ぐ。


「スヴェン、森に行こう。街はどこも石が敷き詰められている。大地を踏みしめることが出来るのは、あの屋敷に続く森だけだ」

 先刻、陽光に目を細めて彼女が眺望していたもの。それが街外れにある屋敷であったことを知った。行ったことがあるのだろうか。彼女は彷徨することなく石畳を鳴らしていった。


    *(三)


 彼は昨日、私に過去を語った。私も語れたら良かったのだろうか。けれど明かすことは出来なかった。マルガ・クロイツァーの境遇に渋面を浮かべていた彼。そんな優しい人に、この塗炭とたんまでも抱えさせたくはない。彼が優しい手で私を引くから、凭れてしまいそうになる。そんな自身の双脚にひたすら力を込めた。己の足で立っていられるように、前だけを見据えた。


 鬱蒼とした森は、夕刻といえど仄暗い。この先にあるのは誰も住んでいない邸宅だけで、この森に立ち入る人間はいなかった。木々に遮られ、振り返っても街並みが窺えなくなった頃。大鎌を引き摺って下りてくる女性と相対した。


 星の見えない夜空を閉じ込めたような、藍鉄の瞳。憔悴しきった面差しは蒼褪めて見えた。山鳩色の短髪が草木に合わせて揺れている。


「あんたが、マルガ・クロイツァーか」


 フォールディングナイフを構えたスヴェンが私の前に立ち、彼女と向かい合う。落ち窪んだ眼窩の中で、情意を灯さない黒目が私達を見ていた。


「誰だ、君たちは。私を捕らえに来たのかと思ったが、警察には見えないな」

「貴方の言う通り、警察ではないよ。私達は……そうだね、貴方に石を食わせに来たんだ」


 包含した真意。それを了知した彼女は歪んだ笑みを浮かべた。轟然と、大地が罅割れるような音が響く。鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうたる風が吹き抜ける。それは錯覚だったかもしれないが、彼女の気迫にスヴェンも身構えていた。彼女と視線が絡む。真っ直ぐに、その眼は私に照準を定めていた。


「止めてくれるのか? 子供を見る度に湧き上がるこの衝動を、君たちが……!」


 叫びが随伴したのは土塊。咄嗟に後退した私の足元で天を目指して聳え立ったのは、土で出来た柱。それは神樹を象るように枝分かれしていく。向かい来るはつちくれの三叉槍。地面を起点にこちらへ伸びていた。


「っ君は彼女を討て!」

「ああ……!」


 私を穿ちにかかる魔法の刃とすれ違い、マルガとの間合いを詰めていく彼。双剣を抜いた私は汚泥の穂先を受け止める。奥歯を噛み締めた。人の力では敵わぬほどの重い一撃。電流じみた激痛が両腕を走り抜ける。このまま受け止めれば肩が外れそうだった。防御から回避へと切り替える。受け流すように左肩を下げるも避けきることは出来ない。鋭鋒は腕の付け根を穿げのいたまま、私を木の幹へと叩き付けた。


 切っ先は私を捕らえて離さない。この体を縫い留め続ける刃を切り捨てようにも、突き立てた剣尖の方が悲鳴を上げた。固い。鋼鉄を思わせるそれはマルガの魔力を宿しているのだろう。


「く、そ……!」


 足止めを食っている場合ではなかった。見上げた先、マルガへと邁進していくスヴェンは不利。大鎌とナイフではリーチが違いすぎる。加勢したい気持ちに突き動かされたのは右腕だ。枷を切り落とすのに迷いはなかった。


 一振りで左腕を切り落としすぐさま跳躍。首元まで熱を伝わせるような酸痛に奥歯を噛み締め三叉槍を目で追った。それは私の腕を取り落とし、屈折のない軌道を描き向かい来る。奔星のように、弾丸のように。受け止めることはやめた。馳せ続け、舞い続けて砲撃を避け続ける。やがて仕組みが見えてくる。言うなれば槍を象った銃弾。恐らくマルガと目を合わせた時に私が標的として決められている。この身を撃ち抜くためだけに幾度となく木々へ着弾し、跳ね返っては真っ直ぐ虚空を裂く様。一度飛び出してしまえば衝突するまでその弾道を変えることが出来ないのだろう。


「スヴェン下がれ!」


 それを利用しない手はない。蹶然けつぜんと踵を叩きつけたのは木の幹。剣戟による金属音を奏で合う彼らを捉えながら中空へと跳んだ。茜空へ放たれた土槍は枝を幾本も切り裂いて寸時静止する。零落する太い枝葉。角膜に刺さる土煙。それは眼下の彼らにも降りかかっていた。スヴェンがそれを回避したのを視認してから着地、片膝を着いた私を追尾する鋭刃。それが突き除けたのは太い木の根元だ。眼路を木陰に絵取られたであろうマルガがその場から飛び退く。スヴェンと彼女を隔てた大木。彼女が注視するのは私のはずだ。果然と、その血走った諸目が向けられる。舞い降りた私と振り仰ぐ彼女。眼光をぶつけ合った時、既に彼我の間隔は零距離。生じかけた間隙に一刀を捻じ込んだ。血管の浮いた彼女の眼球に一条の銀光が走り抜ける。


「ああッ!」


 痛ましい叫声と吹き出す猩紅の飛沫。私に薙ぎ払われた目元を片手で押さえた彼女が、大鎌を引き摺って退く。両目を潰したおかげか、私を狙っていた土槍は土砂のように崩れ去った。


「アドニス! あんた、腕が……!」

「心配要らない。戻るからね。――マルガ、終わらせてほしいんだろ。終わりにしよう」


 頽れそうによろめく彼女へ剣鋩を突き付ける。惨痛を訴えるように唸っていた彼女が迸らせたのは、咆哮。続いて哀哭のような歔欷きょきが聞こえる。それは彼女の声じゃない。私は彼女の大鎌が発する雑音に耳を塞ぎたくて堪らなかった。


 盲目の彼女が出鱈目に振るう刃。スヴェンと共に距離を取っていれば土塊の槍が足元から突き出してくる。狙いを定められないせいだろう、虚空を高く貫いては消え、標的を突き上げようとしては地面へ崩れ戻る。繰り返される不規則なそれに歯噛みした。地雷がどこにあるか分からない状態。足元にばかり意識が向く。スヴェンは大丈夫かと窺ってみれば犀利な土針に腕を貫かれたのか前腕部から血を流していた。


 大地が蠢く音。それに耳を澄ませたところで正確な位置を読むことは出来ない。足元だけでなく前後左右の木々からも土塊が放たれ、逃れきれなくなってきた。


 目に見えない存在なら、目に見えない力の流れも見えるのだろうか。冷汗を浮かばせながら、愚かしい賭けに出た。


「声を……」

「うああああっ!」


 私の声音を頼りに振るい上げられた鎌。千慮していたせいで反応が遅れる。夕紅を纏う湾曲の刃。散らされた光に目を奪われる。咄嗟に振り上げようとした右腕。間に合わないのは明白で反撃の曙光は見えなかった。


 刹那、右肩に熱が灯る。痛苦を伴わない衝突。私を押し飛ばしたスヴェンが、前腕に沿った刀身で鎌を押し留めていた。それは私の武器だ。私が切り捨てた左腕から拾ったのだろう。


「っアドニス大丈夫か!」

「私を庇わなくていい! どこから杭が突き出すか分からない、走り続けてくれ!」

「俺だって死なない、ならそれを利用した方がいいだろ!」


 生きろという祈り。その恩恵が彼の体を巡っている。けれども痛みには慣れられないだろう。彼を制止しようとして、ようやく気付く。彼が私を庇うのも、私に無理をするなと言うのも、そういうことか、と。彼の胸で揺れていたのは、この感情なのかと思い至る。苦笑してしまった。もしかしたら私達は、似た者同士なのかもしれない。


 意識を集中させる。弾き合う金属音。悲鳴、草木が落ちる音、土を踏み鳴らす足音。刃を交える彼らの息遣い。雑音が多すぎる。乱れた呼気を落ち着かせるように目を伏せた。己の左腕があやす紅血。それが滴る音さえ、聞こえそうなほど。


「声を、聞かせてほしい。その悔いを受け止めるから。その恨みを晴らすから。見えるのなら、全てを教えてくれ……!」


『お姉さん右!』


 章々と耳を劈いた少女の声。反射的に右腕を水平に凪ぐ。しまった、と切歯した。回顧する。両腕で受け止めた初手の土槍、あの重い一撃を覚悟した。案の定その機鋒は骨を軋ませる勢いで私を打擲ちょうちゃくする。爆ぜた土の臭いが骨にこたえる。神経を伝って全身を痺れさせる衝撃。けれども退くわけにはいかなかった。私は亡き子供達に何と言った? 受け止める、報復すると、そう誓ったのだ。四肢が痛むからなんだ。受け止めきれない、なんて甘えだろう。無理だと嘆くより足を前に出せ。全霊で、腕を振るえ。払え。押し飛ばせ。打ち壊せ。前腕が震える。押し負けそうに、げそうに、感覚すら擦り切れていく。止まるものかと力を注ぎ続けた。


 薙ぐ。


 情動全てを乗せた腕が虚空を引き裂く。轟く爆音。払い除けた確かな感触。弾かれた杭は木々を打ち壊し、毀たれていた。

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