第二章

固定観念の絞殺1

     *


 ――貴方がいなければこんな目に遭うことはなかった。


 私の手を振り払った妹が吐き捨てた唾棄だき。言葉にされずともそんなことは知っていた。暖かい日々、優しい日常、愛を注ぐ両親。全てを奪ってしまったからこそ、この手で抱きしめたかっただけだ。姉や兄のような存在として、親の代わりのように。それは身勝手な贖罪にしか見えなかったのかもしれない。暗澹たる牢獄の中で、私を拒絶し続けた妹をこの腕に抱くことは、一度も叶わなかった。それどころか、救うことすら出来なかった。


 だから、かもしれない。扉を開けた先で、精彩に満ちた白藍の瞳が私を映した時。彼が生きていてよかったと酷く安堵した。彼が懊悩して俯く姿を目にした時、膝を抱える妹を思い出して抱き締めずにはいられなかった。叶わなかったことを、繰り返さずに済んだ。それは淀んだ心を浄化していくようだった。


 そうしてどこか満たされた自分に。善良ぶった行いに。心の底から吐き気がした。


 スヴェン一人を残した食堂の扉を閉め、唇を噛み締める。静閑な廊下を進み、立ち並ぶ人形に目を細めながら三階を目指す。葬儀屋が私を部屋に呼んだ理由は見当が付いている。だからこそ靴音に嘆息を織り交ぜた。


 目的の部屋の前で足を止める。両開き戸の傍には二体の人形。天使を模した門番を横目に、真鍮の叩き金を鳴らした。


「葬儀屋」

「あぁ、入っていいよ」

「……失礼します」


 促されるままに厚い扉を引き開ける。淡い灯燭だけに彩どられる室内は仄暗く感じる。夜闇のせいか、葬儀屋が纏う雰囲気のせいか、陰鬱としていた。手紙を書いていたらしい彼はペンを机上に置き、椅子に腰かけたまま私を仰いだ。


「アドニス、君は」

「彼、捨てるべきだと思います」


 意図的に、彼の言葉を遮った。彼がそれに気付いたかは分からない。けれども慮外りょがいな一言だったようで、切れ長の目を大きくしていた。藤紫の虹彩の中で灯火が揺れる。それを射抜いていれば彼は、ふっと笑った。


「意外だね、君はもっと優しいと思っていたよ」

「それは誰に対してですか? 私は、この世の歪さを知らないような彼をこれ以上凄惨な日々に巻き込みたくないだけです」

「今更だろう、魔法のことも、心臓がないことも、彼はもう知ってしまった」

「教えたのは貴方でしょう」


 魔法のことは仕方ないにしても、スヴェンが〈神の子グレイス〉であった事実。それをわざわざ教える必要などなかったはずだ。所詮彼の姉が見つかるまで、彼が帰るまでの関係なのだから、葬儀屋の魔法で治したとでも偽れば良かった。私には葬儀屋が、彼を深潭まで引き摺り落とそうとしているようにしか思えなかった。


 睥睨に返されるのは冷笑。葬儀屋は机に肘をつくと、つまらなさそうな顔で指を絡めていた。


「僕が教えなくてもいずれ知っただろうね。だから全て教えて引き込んだだけさ。そもそも踏み込むことを選んだのは彼だよ。覚悟くらいしてただろう。戻れないのなら、堕ちた方が楽だ」

「そう思う人間だけが堕ちればいい。壊れる道を無理矢理選ばせるなって言っているんです」


 憤りに任せて打ち付けた手の平が痛む。机が跳ねたのは錯覚だ。それでも、明瞭な苛立ちを目の当たりにしても、彼は手持ち無沙汰だとでも言いたげに五指で遊んでいた。挙句ため息を吐き出されたものだから更に噛み付きたくなるが、腕を震わせて堪えるしかなかった。


「僕が誘導したとしても、選ぶのは彼自身だよ。だがねアドニス、〈神の子グレイス〉だという時点で君と同じく彼はもう壊れてるんだよ。ならもっと壊れた方がそれらしいだろ?」

「……貴方のそういうところは嫌いだ」

「ははっ、そうかい?」


 手先で弄んでいた黒手袋を、葬儀屋が邪魔そうに取り去る。右手の指先に絡み付く茨の刻印。親指と人差し指、中指に絡んでいるそれは魔法の証。一つは私を生かすための契約印だった。


 椅子を引く音が深閑を掻き消す。離席した彼は私に近付くと、睨め付ける双眸を意に介さず手を伸ばしてきた。


「僕は不満げな君も好きだよ、アドニス」

「つまらない冗談ですね」

「……もう少し僕に優しくして欲しいんだけどね。そうしたら好きになれたかもしれない。君に嫌悪と憎悪を教えてあげたのは失敗だったかな」


 彼の体温が表皮に染みる。触れられた頬に痛みが走ることはない。ヘルマンとの戦いで負った傷は、彼の魔法で既に治っていた。だとしても振り払いたい気持ちは生じる。まるで口付けでも求めるかのように顎を持ち上げられて、彼の腕を払った。


「悪ふざけも程々にしてもらえますか。貴方には恋人がいるでしょう」

「そうだね。彼女を愛おしいと愛でる時はとても幸せだ。けど同時に自嘲してしまう。君だっておかしいと思うだろう? 人でなしだと、そう思うんだろう? 死体しか愛せない僕を」

「っそういう意味で言ったわけでは」

「もう一度生者を愛せたなら、僕は戻れると思うかい?」


 魔力は人の心を毀壊きかいする。その影響で彼が苦しんでいる姿は度々目にしてきた。しかしこれほど不安定な彼を見たのは初めてかもしれない。刃毀れした刃を思わせる両目。唇だけが、見慣れた繊月を描いていた。


「なにか、ありましたか?」

「いいや、なにも。人間らしい彼に、嫉妬でもしてしまったのかもしれないね」

「……やはり魔法を使うべきではないと思います。もう、全て捨てて魔力を消費しないで、普通に生きませんか」

「出来るわけないじゃないか、そんなこと」


 怯懦きょうだな彼から目を逸らす。らしくもない彼に、どう応じれば良いのか分からなかった。窓の奥を眺望してみたが外は暗く、月の位置すらようとして知れない。彼の心もこのくらい暗晦なのだろう、と目を細めた。


「すまないねアドニス。僕はやめるわけにはいかない。例え君が人殺しをやめたくなっても」

「……私は貴方を裏切るつもりはありません。だから私がいれば十分ではないですか。スヴェンを、巻き込む必要はありますか?」

「彼は、歪な僕達にとって必要な存在なんだよ」


 必要。それはとても簡単な単語で、とても晦渋な言の葉だった。咀嚼するように胸中で反芻する。黙考に沈んでいく意識は、葬儀屋が流露させた苛立ちに掘り起こされた。


「ただ、僕は今日のことを怒っているんだ。何のために彼という護衛を付けたと思っているんだい? 君が彼を庇って負傷してどうする。君をここに呼んだのはこの話をする為だよ」


 蒼黒い影を落とす彼は、険相な顔様をしていた。私は自身の胸に手を当てる。スヴェンを庇って刺された傷。あの時確かにこの心臓は穿たれていたのだろう。スヴェンが心臓を持たないことを事前に知っていても、同じことをしたはずだ。例え死ななくとも、見殺しにするような真似をしたくはない。昔の自分を回顧して、その羸弱るいじゃくさに悲憤が込み上げてしまうから。


「そもそも護衛はいらないと言いました。私は死なないのですから不要でしょう」

「君が死なないのは誰のおかげかな」

「……葬儀屋が、魔力を注いで下さるからです」

「そうだろう? それなのに君は負傷して、質の悪い人肉ばかり持ってくる。魔力が回復しないうちに君はまた負傷する。これだと僕の魔力が減っていく一方だ」

「……申し訳ありません。でも今日の人肉は……」


 彼の吐息が首筋を掠める。突き立てられた歯牙。頸動脈を噛み切ってしまいそうな程、深く刻まれる咬傷。咽喉から呻き声が溢れる。裂かれた皮膚から血が伝っているのが分かった。それと同時に、彼に抗わなければと思った。


 魔力は身体中を巡っている。臓器に溜まっている量と比べれば血液に流れるものなど微量なものだ。だがこの身体は〈神の子グレイス〉と称されるもので、魔力が常に充溢している。そんな血肉を喰らえば、彼が壊れてしまう。


 瞬きの裏で見たのはかつての主人。気が狂れたまま私の臓器を喰らって、一層精神を壊していた愚かな人間。葬儀屋があの男と同じ轍を踏まぬよう、突き除けようとした。けれどもその前に、彼は私にしがみついてくずおれた。


「……っ、う……」

「っ葬儀屋、落ち着いてください。今日は魔法使いの臓器を食べたでしょう? これ以上魔力を摂取するのは良くありません」

「違う、問題はないよ。……僕は彼女を維持する為に魔力を消費し続けている、だからこれは過剰摂取による拒否反応じゃない」

「なら尚更、落ち着いてください。無理に血肉を食べる必要なんてありません」

「……アドニス。クッキーが食べたいな」


 肩に伸し掛る彼の重み。今にも吐き出しそうだった喘鳴は落ち着きを取り戻しつつあった。よかった、と愁眉を開く前に、思いがけない台詞を渡され戸惑った。


「それは……普通の……?」

「当たり前じゃないか。あぁでも……美味しいと思えるだろうか」


 返答に窮する。歪められた彼の味覚。人の臓物が何より美味しいと感じるようになった体。消費し続けている魔力のせいで、その喉が渇望してしまうのは血肉なのだろう。それでも普通のものを食べたいと思えるのは、彼が壊れていない証だった。


 憂慮を向けて緘黙していたら、彼は譫言うわごとのように物語る。


「彼女が、くれたんだ。本当は家族にあげるつもりだったけど、あげられなくて持ってきちゃったって言っていたよ。とても美味しかった」

「……私は、お菓子作りはしたことがないので、パン屋のグレーテに作り方を聞いてみますね」

「あぁ、ありがとう。……時々、思うんだ」

「葬儀屋?」

「喰らっても喰らっても、僕は堕ちきれない。戻ることも出来ない。それなら、終わらせてしまった方が楽なんじゃないか」


 彼の袖を、強く引いた。皺を刻む黒衣が破けそうなくらい、強く爪を突き立てる。そうしなければ、彼が砕氷のように消えてしまいそうだった。


「なにを、言っているのですか」

「はは、でもそうなると君を死なせてしまうな」

「私はもう死んでいるようなものです。だから私のことはどうでもいい。貴方が死んでしまうことの方が問題です」

「何も問題はないじゃないか、誰も僕を弔わない」


 彼の体温が離れていく。私から離れた彼の顔は心配になるほど青白かった。月白に塗られた外貌は諦念を孕んだ笑みを浮かべる。


 私が貴方を弔います。そう言えたなら良かった。嘘でも紡げば良かったのだろうか。けれど叶えられないことを口にしたくはなかった。私は所詮人形だ。彼の糸で吊られて、どうにか息衝いている。ただそれだけの。


「……私は」

「そんな顔をしないでくれ。死ぬ気はないからね。だが覚悟はしているよ。いつか、終わりは来る。人を殺しすぎた人間は、その報いを必ず受けなければいけない」


 視界で持ち上がる、月明を纏った白髪。彼との契約の証に、僅か藤紫に染まった白糸。私の髪を弄ぶ彼は、私など見ていない。交わらない視線。彼はきっと恋人のことを想っているのだろう。その眼は哀傷を宿していた。


「……そうですね。それでも貴方は、報われるべきです」

「君は、僕のことが好きなのか嫌いなのか分からないな」


 奥歯を噛み締める。彼は静かに、砂糖菓子でも摘まむように、私の首を食らった。疼痛に彼の服を掴めば、優しい声音が落とされた。


「大丈夫だ。吐かないよ、安心していい」

「っ……」

「ちょっと面白いものが見れそうだからさ」

「何言って……」


 突如轟音が耳を貫いて肩を跳ねさせた。私がそちらを向いたのと同時に、葬儀屋が押し飛ばされる。私を庇うように立っていたのはスヴェンだった。


「やめろ! 何してるんだあんた!」

「盗み聞き、いや、覗き見かい? 趣味が悪いねぇ」


 あぁ、と理解する。と同時に呆れ返った。葬儀屋こいつ、彼を唆して遊びたかっただけだ。まだ血肉に飢えているのだろうか、と心配して損をした。疲労を乗せた息を吐き、首筋に手を当てる。既に魔力を注がれていたようで、血は止まり、傷も消えていた。


「違っ……ノックはした。けど返事がなかったから仕方ないだろ。っアドニス行くぞ」

「え、ちょっ……」


 強引に手を引かれる。私を廊下へといざなう彼は不機嫌そうだった。街で『泥棒』と聞いてすぐに動いていた時も思ったが、彼は正義感の強い人間らしい。

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